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相生垣秋津 (あいおいがき・しゅうしん) 1896~1967 |
日本画家。明治29年4月29日兵庫県生れ。 本名三次(さんじ)。川端画学校に学ぶ。師川合玉堂。 関東大震災のためやむなく帰郷、実家の履物製造販売を継ぐ。 仕事のかたわら俳句に親しみ俳画を描き、『ホトトギス』同人となる。 昭和42年4月27日高砂市で歿。享年70。 |
会津八一 (あいづ・やいち) 1881~1956 |
歌人、美術史家、書家。明治14年8月1日、新潟県古町通生れ。 雅号、秋艸道人・渾斎。早稲田大学名誉教授。新潟市名誉市民。 昭和31年11月21日歿。享年75。 |
青木月斗 (あおき・げっと) 1879~1949 |
明治12年11月20日、大阪市生れ。 本名新護。初号月兎。薬種問屋の家業を継ぐ。 少年時代より句作、30年三日月会を結成。 32年「車百合」創刊に際しては、正岡子規から 「俳諧の西の奉行や月の秋」の祝句を受けた。 関西俳壇の重鎮。 昭和24年3月17日没。享年71。 |
青木石農 (あおき・せきのう) 1889~1968 |
大正~昭和期の日本画家。 明治22年、長野県小県郡生れ。 旧姓原。本名丈夫(たけお) 南画家笹澤檪亭に師事。 信濃美術会結成に参加、委員のち会長。 昭和43年歿。享年78。 |
青木大乗 (あおき・だいじょう) 1891~1979 |
大正・昭和期の画家。 明治24年5月1日、大阪市天王寺生れ。 本名精一郎。初号宏峰。天王寺中学校を卒業。 同級に小説家宇野浩二や洋画家寺内萬治郎、耳野卯三郎らがいた。 関西美術院で洋画を、京都市立絵画専門学校で日本画を学ぶ。 大日本美術院を素明・小虎らと結成。 昭和27年大日本美術院解散以降は無所属作家 として個展を中心に精力的に制作を続ける。 昭和38年大阪芸術賞受賞。 昭和54年4月5日歿。享年87。 |
青柳琴僊 (あおやぎ・きんせん) 1867~1962 |
慶応3年5月1日、群馬県月夜野生れ。本名金之助。 郷里の画家林青山に学び、自ら燕山と号す。 児玉果亭の作品に感銘し、長野県渋温泉の果亭に入門、琴僊と改号。 日本美術協会会員。群馬県文化協議会文化功労賞受賞。 昭和37年2月22日歿。享年94。 |
青柳八十二 (あおやぎ・やそじ) 1925~1989 |
昭和期の日本画家。 大正14年、新潟県生れ。 日本美術院院友。 平成元年歿。享年64。 |
赤井伸生 (あかい・しんせい) 1899~1967 |
明治32年生れ。本名正方。 師木村武山・安田靫彦。 日本美術院院友。 昭和42年4月23日歿。享年68。 |
赤井龍民 (あかい・りゅうみん) 1898~1945 |
明治31年、兵庫県生れ。本名義一。一時龍眠と記す。 大正7年京都に出、菊池契月に師事。帝展入選多数。 昭和20年12月1日、旅行先の北海道で急逝。享年47。 |
赤羽雪邦 (あかばね・せっぽう) 1865~1928 |
日本画家。慶應元年信濃国東筑摩郡生れ。通称順次、別号知足。 師仙石翠淵・尾崎雪翁・橋本雅邦。 東京美術学校一期生として入学するが、在学中病気の為右足切断。 昭和3年8月25日歿。享年63. |
赤松雲嶺 (あかまつ・うんれい) 1892~1958 |
明治25年12月12日、大阪市生れ。本名好亮。 7歳のとき小山雲泉に入門、師没後は姫島竹外に師事。 文展・帝展に入選多数。文部省買上。 日本南画院同人。画塾墨雲社を主宰。 昭和33年10月16日歿。享年65。 |
秋葉長生 (あきば・ちょうせい) 1911~1978 |
日本画家。明治44年4月3日、千葉県生れ。 本名武(たけし)。川端画学校入学、山口蓬春の内弟子となる。 日展会員。昭和53年5月12日歿。享年67。 |
暁烏敏 (あけがらす・はや) 1877~1954 |
明治~昭和期の真宗大谷派(東本願寺)の僧。 明治10年石川県の明達寺生れ。 金沢共立尋常中学、京都大谷尋常中学を終え、1896年真宗大学に入学。 同年、清沢満之らによる東本願寺の改革運動に参加、 大学改革派委員となり退学処分を受ける。 翌年復学し、99年に卒業して明達寺の住職となる。 東京の浩々洞において清沢の教えをうけ、精神主義に傾倒、 以後それによる伝道活動に尽力した。 寺内に香草社を創立して著述を出版し、 文教院を設けて聖徳太子を奉賛した。 1951年大谷派の宗務総長となり、同朋生活運動を展開した。 昭和29年歿。享年78。 |
朝井観波 (あさい・かんぱ) 1897~1985 |
明治30年6月4日、東京本郷生れ。本名行五。 川端画学校のち日本美術院研究所に学ぶ。 荒井寛方に随いインドを訪れアジャンター壁画を摸写。 日本美術院院友となるが、平福百穂の画風にひかれ、脱退。 荒木十畝に師事、読画会に属す。帝展・文展に入選。 昭和60年11月6日歿。享年88。 |
浅井柳塘 (あさい・りゅうとう) 1842~1907 |
天保13年、京都(阿波国とも)生れ。名龍。字子祥。別号白山。 谷口靄山に師事して南画を学び、貫名海屋に書を学ぶ。 また、長崎に遊学して木下逸雲、日高鉄翁らに指導を受ける。 京都府画学校の開校にともない出仕として任用される。 山水・花鳥を得意とし、詩文や書にも長じた。 明治40年11月23日京都市で歿。享年65。 |
安積艮斎 (あさか・ごんさい) |
江戸・二本松藩の儒者。昌平黌教授。 岩代郡山生れ。本姓安藤氏。 名重信・信、通称祐助、字思順・子明、号見山楼。 師佐藤一斎・林述斎 万延元年没。 |
朝倉文夫 (あさくら・ふみお) 1833~1964 |
彫刻家。明治16年大分県生れ。 東京美術学校(東京芸大)卒業。 初期文展に連続受賞、以後、官展の審査員。 東京美術学校教授。 朝倉彫塑塾で後進を指導。 芸術院会員。文化勲章受章。 自然主義的技法にすぐれた。 昭和39年歿。享年82。 |
浅田宗伯 (あさだ・そうはく) 1814~1894 |
漢方医の名家。信州筑摩郡栗田村の人。 初名直民、のち惟常、通称宗伯、字識此、別号栗園。 高遠藩に遊んで医学を修め、上京して中西吉益らの門を たたいて傷寒論を究める傍ら儒学を頼山陽に学んだ。 慶応二年、将軍昭徳公の病気を診察。 天章院始め大奥の侍医となり、法眼に叙せられた。 明治27年3月16日没。享年81。 |
麻田辨自 (あさだ・べんじ) 1899~1984 |
明治32年12月14日、京都船井郡生れ。 旧姓中西、本名辨次。 京都市立美術工芸学校卒業。 在校中入江波光に私淑。 上村松園の画弟子麻田ツル(直園)と結婚。 西村五雲塾(晨鳥社)に入塾。 師五雲歿後は山口華楊らとともに新・晨鳥社結成。 京都市文化功労者、京都府美術工芸功労者。 昭和59年10月29日京都市で歿。享年84。 日本画家麻田鷹司は長男、 洋画家麻田浩は次男。 |
朝比奈宗源 (あさひな・そうげん) 1891~1979 |
臨済宗の僧。円覚寺派管長。 明治24年1月9日、静岡県生れ。号別峰。 日大宗教専門部卒。駒沢大教授。 京都妙心寺、鎌倉円覚寺で修行。 『碧巌録訳註』『臨済録訳註』等の著がある。 昭和54年歿、享年88。 |
足利紫山 (あしかが・しざん) 1859~1959 |
明治~昭和期の臨済宗の僧。 方広寺526・529世。 臨済宗十三派合同初代管長。 安政6年4月11日、尾張一宮(愛知)生れ。 諱恵温・宗温、幼名重太郎、号無為室・閑雲室。 麟祥院臨済宗僧校卒。8歳で出家。 今北洪川に師事。安井息軒に漢字を学ぶ。 大分万寿寺の住職。 方広寺派管長。臨済宗初代管長。 社会福祉事業に尽力した。 昭和34年12月30日歿。享年101。 |
渥美芙峰 (あつみ・ふほう) 1893~1973 |
明治26年3月17日、山梨県生れ。本名守雄。 東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。 岸浪百艸居に師事。 昭和26年最初の個展を日本橋三越本店で開催、 以後個展を中心に制作発表、その回数は22回におよぶ。 芙峰門展を主宰、俳句にも長ずる。 昭和48年8月27日歿。享年80。 |
阿出川真水 (あでがわ・しんすい) 1877~1943 |
明治10年12月24日、東京日本橋生れ。 旧姓巌名。本名準。通称庄蔵。別号掬碧楼・高遠居。 父は劇場画家。是真・桃水・玉章・玉堂らに四條派を学ぶ。 烏合会、日本画会、日月会、下萠会に属す。 昭和18年3月24日歿。享年65。 |
跡部白烏 (あとべ・はくう 1900~1973 |
明治33年9月28日、熊本県生れ。 本名正人。別号萬沙太。 早稲田大学中退、画家を志して堅山南風に師事。 日本美術院院友。大調和会委員。 昭和48年8月4日歿。享年72。 |
跡見花蹊 (あとみ・かけい) 1840~1926 |
天保11年4月9日、摂津国(大阪市)木津村生れ。 名竜野、別号木花・西成・不言など。 京都に出、宮原節庵に漢学・詩文・書を学び、 円山応立、中島来章に丸山派、日根対山に南画を学ぶ。 父が開いた大阪中之島の私塾を手伝うと共に後藤松陰に詩文を学ぶ。 慶応2年京都に戻り、私塾を新築して開設、百人に近い 門下生が集まり、学校経営の才能を開花させる。 明治3年一家で東京に移住、神田三崎町に私塾を開く。 8年跡見学校を神田・仲猿楽町に創設、20年小石川に移転、 翌21年私立跡見女学校として開校する。 書画にすぐれ明治5年33歳のとき明治天皇の 御前に召されて、御前揮毫する光栄に浴した。 大正8年校長を退き名誉校長となる。 大正15年1月10日没。85歳。 |
跡見玉枝 (あとみ・ぎょくし) 1858~1943 |
画家。安政6年4月、江戸生れ。 旧紀州新宮藩士跡見勝三の娘。 名勝子、別号不言庵。 従姉の跡見花蹊・長谷川玉峰に 四條派を、望月玉泉に望月派を学ぶ。 神田今川小路に画の私塾を開く。 日本美術協会会員。内親王御用掛をつとめる。 特に桜花の写生画を得意とし、昭和8年から皇室の委属により 御苑の桜を写生、画帖を献上するなどたびたび献上画を制作した。 昭和18年8月7日歿。享年84。 |
穴山勝堂 (あなやま・しょうどう) 1890~1971 |
明治23年2月3日、山梨県御坂生れ。本名義平。 45年東京美術学校図画師範科卒業。 松岡映丘に師事。 大正10年新興大和絵会を結成。 国画会の結成に同人。 第一部会の結成に実行委員。 日本画院の結成に参加・同人。 帝展・文展にて特選・無鑑査出品。 19年山梨県一宮町に疎開。 昭和46年7月23日没。享年81。 |
綾岡有真 (あやおか・ゆうしん) 1846~1910 |
弘化3年7月29日生れ。本姓池田。通称房吉。 柴田是真に師事。花鳥画を得意とし、是真の高弟の一人として活躍。 書画の版下作りをしていた父綾岡輝松を継いで書画や図案の制作に従事する。 明治43年4月3日歿。享年63。 |
荒井寛方 (あらい・かんぽう) 1878~1945 |
明治11年8月15日、栃木県塩谷郡生れ。 本名寛十郎。父は上絵師で滝和亭に学んだ。 32年画家を志して上京、水野年方に入門。 翌年寛方の雅号を受ける。 35年国華社に入社、仏画の摸写に約十年間従事。 文展・院展などで受賞多数。 法隆寺金堂壁画摸写に従事。 当麻寺天井画を制作。 昭和20年4月16日急逝。享年66。 |
新井勝利 (あらい・しょうり) 1895~1972 |
明治28年3月6日、東京京橋生れ。 父は美術商新井可翁。 梶田半古の画塾に入門、のち安田靭彦に師事。 5年間、捜真女学校の図画教師を勤める。 海軍報道班員として従軍、南方に赴く。 多摩美術大学教授。日本美術院評議員。 後年は古典文学に取り組む。 昭和47年6月21日歿。享年77。 |
新井石禅 (あらい・せきぜん) 1864~1927 |
明治・大正期の禅僧(曹洞宗) 元治1年陸奥(福島県)生れ。 12歳で出家、明治12年東京駒込吉祥寺内の 曹洞宗本校に学び、のち曹洞宗大学林学監兼教授。 名古屋の護国院、小田原の最乗寺の住職を経て、 大正9年曹洞宗本山鶴見の総持寺貫主となった。 昭和2年歿。享年65。 |
荒木寛一 (あらき・かんいち) 1827~1911 |
文政10年5月10日生れ。 名縄。字子正。別号梅隠斎。 父は南画家荒木寛快。 父に学ぶとともに江崎寛斎に師事。 内国絵画共進会で銅賞。 明治44年歿。享年84。 荒木寛友は子息。寛畝は義弟。 |
荒木寛畝 (あらき・かんぽ) 1831~1915 |
天保2年6月16日、江戸芝生れ。 旧姓田中、幼名光三郎、号達庵。 荒木寛快に師事。 12歳のとき養嗣子となる。 安政6年山内容堂の知遇を得て 土佐藩絵所預りとなる。 帝室技芸員。 南北合派に洋画を加味して 新機軸を出して一派を成し、 花鳥画に秀作を遺す。 大正4年6月2日歿。83歳。 荒木寛一は義兄。 |
荒木寛友 (あらき・かんゆう) 1849~1920 |
嘉永2年12月、江戸生れ。名鐸。 父は南画家荒木寛一。 初め父につき、のち山本琴谷に入門、南北合派を学ぶ。 福岡の秋月藩主黒田家につかえ、明治維新後は太政官などに出仕。 10年興公職を辞して画業に専念。 日本南画協会会員。日本美術協会会員。 皇室の御所などの襖絵、屏風等を描く。 31年華族女学校教師。33年日本美術協会委員。 大正9年11月23日歿。享年70。 |
荒木月畝 (あらき・げっぽ) 1873~1934 |
明治6年2月15日、栃木県足利生れ。本名米子。 初め田崎草雲に学び、のち荒木寛畝・十畝に師事。 大正11年東京本郷に白光堂塾研究会(白光会) を興して多くの子女に日本画を教授する。 13年女性日本画家による翠紅会の結成に会員として参加。 昭和9年11月18日歿。享年61。 |
荒木十畝 (あらき・じっぽ) 1872~1944 |
明治5年3月15日、長崎県大村生れ。 旧姓朝長、本名悌二郎。初号琴湖。師荒木寛畝。 明治26年師寛畝の娘鈴と結婚、 荒木家の養嗣子となり画号を十畝に改める。 読画会会長、帝国美術院会員。 昭和19年9月11日歿。享年72。 |
荒木探令 (あらき・たんれい) 1857~1931 |
安政4年1月10日、羽前国(山形県)新庄生れ。 名守純、丈太郎。鍛治橋狩野家の探美に師事。 日本美術協会委員。日本画会結成に評議員・副主任幹事。 美術同志会専務委員。皇室の御用画を制作。 大正5年狩野姓を名乗ることを許され、狩野派の復興に尽力。 昭和6年4月9日歿。享年73。 |
櫟文峰 (あららぎ・ぶんぼう) 1891~1970 |
明治24年7月16日、岐阜県高山生れ。本名順造。 京都に出、加藤英舟に師事、四條派を学ぶ。 京都市立絵画専門学校別科卒業、橋本関雪に師事。 昭和3年雪庵の雅号を受ける。 寺院からの揮毫の依頼に応じ、師の画塾展に出品する程度で、 世俗的なことに淡白であった。戦後の26年ごろ妻子を京都に残し、 単身で高山に帰郷、画作三昧の生活をおくる。 昭和45年没。享年79。 |
在原古玩 (ありはら・こがん) 1829~1922 |
文政12年8月4日、江戸小石川生れ。 本姓古屋。名重壽。別号鳩杖翁・昔男軒など。 荒井尚春に師事、土佐派を学ぶ。 日本美術協会会員。日本画会、日本漆工会会員。 大正11年8月13日歿。享年93。 |
阿波野青畝 (あわの・せいほ) 1899~1991 |
大正・昭和期の俳人。 明治32年2月10日奈良県生れ。本名敏雄。旧姓橋本。 「ホトトギス」派の俳句を学び、昭和初期には 水原秋桜子・山口誓子・高野素十とともに〈4S〉と称され 「ホトトギス」黄金時代を築くのに大いに貢献した。 俳誌「かつらぎ」創刊・主宰。 勲四等瑞宝章受章。 平成3年12月22日歿。享年93。 |
安藤耕斎 (あんどう・こうさい) 1862~1939 |
文久2年12月8日、信濃国下川路生れ。 本名茂一。初号炯潭(けいたん)。 明治21年初代村会議員、29年下川路村助役、 30年伊那銀行創立発起人、下川路村村長、 32年村長を辞任して下川路郵便局長という職歴の間、 富岡鉄斎に私淑し入門が許され、30年から耕斎の雅号を用いる。 40年代の初め公職を辞して南画の制作に専念。 44年京都に出、鉄斎を訪ね教えを受け、 近隣を遊歴して揮毫をするなど大正15年まで滞在する。 昭和8年個展を日本橋・白木屋で開催、 その後も11年、13年と日本橋・白木屋で鉄斎展を開催 するとともに鉄斎の画風を継いだ自作を出品する。 昭和14年2月3日歿。享年76。 |
安東聖空 (あんどう・せいくう) 1893~1983 |
書家。明治26年8月19日、兵庫県赤穂郡船坂村梨ケ原生れ 大正3年兵庫県立姫路師範卒業 9年文検習字科合格 11年兵庫県立第一神戸高等女子学校教諭となり20年近く勤務 14年5月正筆会を興し会長となり、月刊「かなとうた」発行 昭和34年日本書芸院会長となり顧問 36年日本芸術院賞受賞 関西かな書道界の重鎮で、戦前は東方書道会に所属し、 戦後日展審査員、新日展評議員など歴任 昭和58年歿。享年91。 |
飯島光峨 (いいじま・こうが) 1829~1900 |
文政12年5月、江戸生れ。 名義明、別号後素堂。 沖一峨に師事、南宋画を修める。 同門に佐竹永湖、松本楓湖らがいる。 明治33年2月11日没。享年70。 |
池大雅 (いけ・たいが) 1723~1776 |
江戸中期の文人画家。 幼名又次郎、のちに勤、耕、無名などと改め、 字は公敏、子職、貨成など。 大雅堂、待賈堂、九霞山樵、三岳道者、霞樵、 玉海、竹居、子井、鳧滸釣叟などの号がある。 享保8年生。京都西陣に生まれたと推定される。 6歳の年、知恩院古門前袋町に移住、ここで香月茅庵に漢文の素読、 7歳の年に川端檀王寺内の清光院一井に書道を学ぶ。 15歳の年にはすでに待賈堂、袖亀堂などと号して扇屋を構え、生計を立てる。 高芙蓉、韓天寿らち親交。 流麗な中に堅牢な構築性を示す独特の書は、 江戸書道史上有数のものである。 また大雅の妻池玉瀾(1728‐84)も閨秀(けいしゆう)画家として著名で、 大雅の教えを受けながらも、その感性豊かな 女性特有の柔和な様式は大いに人気を得た。 安永5年歿。享年54。 |
飯田九一 (いいだ・くいち) 1892~1970 |
明治25年10月17日、神奈川県横浜市北綱島町生れ。 東京美術学校に入り、寺崎広業、結城素明に指導をうけ、 卒業後川合玉堂に師事。久邇宮邸御居間の格天井の揮毫を拝命。 横浜文化賞、神奈川県文化賞受賞。香蘭会主宰。 昭和45年1月24日歿。 |
猪飼敬所 (いかい・けいしょ) 1761~1845 |
江戸後期の儒学者。宝暦11年近江生。 名彦博(よしひろ)、幼名安次郎、字敬文。 京都儒学者の代表者 幼少より記憶力に優れ、学を志し岩垣龍渓の門に入る。 のち京都西陣に塾を開き、以後50年間門人の教育にあたる。 また各地で経書を教え、晩年には津藩主の招きで 津に移り、弘化2年ここで85歳の生涯を閉じた。 |
猪飼嘯谷 (いかい・しょうこく) 1881~1939 |
明治14年4月12日、京都生れ。本名敬眞。通称宇吉。 谷口香喬に師事、歴史画を学ぶ。 京都市立美術工芸学校図案科を卒業、のち助教諭。 青竹会主宰。昭和14年6月16日歿。享年58。 |
生田花朝女 (いくた・かちょうじょ) 1889~1978 |
明治22年11月22日、大阪市生れ。 本名稔。初号花朝。父は国学者生田南水。 大正2年菅楯彦に師事、大和絵や有職故実などを学ぶ。 のち北野恒富にも指導を受け白耀社に属する。 大阪の風物を描き続け、大阪市民文化賞、大阪府芸術賞受賞。 昭和53年3月29日没。享年88。 |
井口華秋 (いぐち・かしゅう) 1880~1930 |
明治13年3月、京都(大阪とも)生れ。本名陣三郎。 竹内栖鳳に師事。 西山翠嶂、西村五雲とともに栖鳳塾の三羽烏と言われた。 池田桂仙、林文塘らと自由な制作をめざして日本自由画壇を結成。 昭和5年7月12日没。享年50。 |
池上秀畝 (いけがみ・しゅうほ) 1874~1944 |
明治7年10月11日、長野県高遠生れ。 本名国次郎。初号国山。父は四條派の画家池上秀華。 荒木寛畝の読画堂塾に入塾、内弟子となる。 画塾伝神洞画塾をおこして主宰。目黒雅叙園壁画、装飾画制作。 雄大華麗な山水画、花鳥画の実力作家として活躍。 昭和19年5月26日没。享年69。 妻豊子も緑畝と号した同門の日本画家。 |
池上文僊 (いけがみ・ぶんせん) 1887~1921 |
明治20年11月15日、東京生れ。 本名藤五郎。師野村文挙。 四條派を学ぶとともに諸家の画風を研鑽、 仏画、禅画を得意とする。 達磨百図を描き禅画堂の号をおくられる。 大正10年1月19日没。享年33。 |
池沢青峰 (いけざわ・せいほう) 1899~1960 |
明治32年、大阪市生れ。 本名吉太郎。 師蔦谷龍岬・安田靫彦。 帝展、新文展などで入選。 昭和35年9月20日没。享年61。 |
池田栄廣 (いけだ・えいこう) 1901~1992 |
明治34年11月26日、広島県生れ。 本名栄。堂本印象画塾東丘社に入塾。 戦後は安田靫彦に師事。 帝展、文展、日展、院展で入選。 日本美術院特待。 平成4年2月25日没。享年90。 |
池田桂仙 (いけだ・けいせん) 1863~1931 |
文久3年9月2日、伊勢国(三重県)津生れ。 本名勝次郎(政昌とも)。父は南画家雲樵。 京都府画学校に入学(のち退学) 日本南画協会の結成に参加、幹事となる。 日本自由画壇を結成 日本南画院結成 京都南画壇の三元老と称される 文展、博覧会、共進会などで受賞多数。 昭和6年12月27日京都市で没。享年68。 |
池田虹影 (いけだ・こうえい) 1892~1956 |
明治25年12月16日、岐阜県郡上八幡生れ。 旧姓橋本、本名晴治郎。京都に出、竹内栖鳳に師事。 昭和11年、池田桂仙の姪星子と結婚。 桂仙の未亡人たくが没し、その遺志で池田家を嗣ぐ。 昭和31年9月17日没。享年63。 |
池田恒象 (いけだ・こうしょう) 1915~1983 |
大正4年8月18日、愛知県生れ。本名勇。 師堂本印象・三輪晁勢。 文展、日展で入選を重ねる。日展会友。 昭和58年6月1日京都市で没。享年67。 |
池田幸太郎 (いけだ・こうたろう) 1895~1976 |
明治28年3月28日、佐賀県生れ。 川端画学校に学び、東京美術学校日本画科卒業。 師結城素明。東京の風景を描き続ける。 日本画府の理事。昭和51年8月16日没。享年81。 |
池田孤邨 (いけだ・こそん) 1804~1866 |
江戸後期の画家 文化元年越後生れ。名三信。 酒井抱一の家で働きながら画を学ぶ。 尾形光琳や明の画からも影響を受けた。 慶応2年没。享年63。 |
池田蕉園 (いけだ・しょうえん) 1886~1917 |
明治19年5月13日、東京神田生れ。 旧姓榊原、本名百合子(ゆりとも記す)。 15歳の時水野年方に入門。 年方没後、川合玉堂に師事。 同門の池田輝方と結婚、おしどり画家として知られる。 博覧会や文展などで多数受賞。 大正6年12月1日没。享年31。 |
池田輝方 (いけだ・てるかた) 1883~1921 |
明治16年1月(3月とも)4日、東京京橋生れ。本名正四郎。 水野年方の内弟子となり、一時岡山に滞在。 鏑木清方、大野静方らと烏合会結成、巽画会会員。 明治40年川合玉堂に師事。 44年同門の榊原蕉園と結婚。 大正6年妻蕉園を失う。 石井林響らとともに如水会結成に参加。 浮世絵の流れをくむ風俗画家として活躍するが、 長らく肺を患い、大正10年5月6日急逝。享年38。 |
池田遙邨 (いけだ・ようそん) 1895~1988 |
明治28年11月1日、岡山県生れ。 本名昇一。父の転勤で各地に移り住む。 洋画家松原三五郎の天彩画塾に入塾。 大正2年水彩画による個展を福山で開催、 小野竹喬と出会う。のち日本画に興味をもつ。 竹内栖鳳の画塾竹杖会に入門。遙村と号す。 京都市立絵画専門学校別科卒業、研究科修了。 在学中、京都市立外国語学校仏文科に通う。 大正15年この頃から遙邨の号を用いる。 画塾青塔社を設け、日展評議員となる。 日展顧問。文化功労者。文化勲章受章。 昭和63年9月26日京都市で没。享年92。 日本画家池田道夫は長男。 |
池田洛中 (いけだ・らくちゅう) 1903~1982 |
明治36年8月31日、京都市生れ。 本名彦太郎。大正8年、加藤英舟に入門、 京都市立絵画専門学校別科卒業、研究科修了。 昭和8年、堂本印象の画塾東丘社入塾。 16年退塾し、川端龍子主宰の青龍社に参加。 昭和57年5月27日京都市で没。享年78。 |
石坂泰三 (いしざか・たいぞう) 1886~1975 |
大正・昭和期の財界人。 明治19年埼玉県生れ。 逓信省をへて第一生命に入りのち社長に就任。 その間、工業倶楽部専務理事、第一相互貯蓄銀行会長、 生命保険協会理事などの役職を歴任した。 敗戦後公職追放され、解除後、東芝社長のち会長。 その間、生産性本部会長、経団連第2代会長。 日本万国博覧会協会会長、国有財産中央審議会会長、 保険審議会会長、日本原子力事業・埼玉銀行会長のほか、 数十社の取締役・相談役・参与などを兼ね、 工業倶楽部理事長、日経連顧問、経団連 ・日本生産性本部名誉会長となった。 昭和50年歿。享年90。 |
泉川白水 (いずみかわ・はくすい) 1872~1965 |
明治5年10月18日、秋田県横手市四日町下丁生れ。 幼時に尾崎行雄邸に預けられる。本名良之助。 早稲田大政治科中退、群会議員、郡参事員、町会議員。 大正14年武者小路実篤らと煙雲倶楽部を結成。 翌15年新南画を創立し高島屋で個展。 総理大臣賞。県の国宝重要美術調査委員。 横手市文化功労賞。県文化功労章。 俳句・短歌・書画をよくした。 昭和40年2月4日歿。享年94。 |
泉山三六 (いずみやま・さんろく) |
戦後の政治家。明治29年山形県生。 昭和23年第2次吉田内閣の蔵相兼 経済安定本部長官に起用されたが、 予算委員会に泥酔して出席し、 就任後2ヶ月で引責辞職した。 <トラ大臣>の異名をとった。 昭和56年歿。享年86。 |
伊勢門水 (いせ・もんすい) 1859~1932 |
安政6年2月25日生れ。本名水野宇右衛門、幼名代次郎。 芸名は屋号の「伊勢屋」にちなみ、 さらに本名を「水の上の門」と洒落て門水と号した。 6歳で4世早川幸八に入門。 前田青邨画伯が「銭を出して買いたいと思うのは門水の画だ」と言った。 昭和7年1月15日没。享年74。 |
井芹蘇水 (いぜり・そすい) |
明治15年熊本県生れ。名一二.師山名貫義 |
市河米庵 (いちかわ・べいあん) 1779~1858 |
安永8年9月16日生。 市河寛斎の子。名三亥、字孔陽、通称小左衛門、 号米庵・亦顛・楽斎・百筆斎・金洞山人・小山林堂・金羽山人。 寛政7年頃、林述斎の門に入り、柴野栗山に学び、 寛政11年、書塾小山林堂を開いた。 文化8年、富山藩に仕え、後に加賀藩に仕えた。 書の門人は5000人、諸侯の門人も200人を越え、 巻菱湖・貫名海屋とともに幕末三筆と称された。 安政5年7月18日没。享年80。 |
伊東紅雲 (いとう・こううん) 1880~1939 |
明治13年7月11日、東京生れ 本名常辰。師邨田丹陵 土佐派を修め、故実に詳しく 歴史画の制作を続けた 昭和14年4月2日没。享年58。 |
伊藤晴雨 (いとう・せいう) 1882~1961 |
明治15年3月3日、東京浅草生れ。 本名一(はじめ)、初め静雨と号す。 父は彫金師で、彫刻師に奉公しながら絵を独習、 のち出奔して野沢堤雨に琳派を学ぶ。 明治の末年新聞社で挿絵などを手がけ、 のち松竹で新派の絵看板などを担当し、 大正12年関東大震災後は新国劇に入り、 さらに風俗考証などの著述活動を展開する。 風俗画家としても知られ、若い頃から責め絵、 縛り絵を描き、多くの女性をモデルとしたが その一人にお葉(佐々木兼代)がいて 後に竹久夢二、藤島武二のモデルとなる。 昭和36年1月28日歿。享年78。 |
伊藤東涯 (いとう・とうがい) 1670~1738 |
江戸中期の儒学者。 寛文10年伊藤仁斎の長男として京都堀河に生れる。 名長胤、源蔵、号慥々斎。子に東所。 古義堂第2代を継ぐ。 儒学上の東涯の思想は、仁斎に残存した 朱子学的要素を一掃し、仁斎の心情的道徳論を 客観秩序重視の方向に転換して、徂徠学に接近する。 語学・史学・考証学・博物学など、仁斎未踏の分野も東涯によって開拓された。 新井白石、荻生徂徠らとも親交。36年所司代より帯刀許可。 著書は《周易経翼通釈》《訓幼字義》《古今学変》《経史博論》 《制度通》《用字格》《名物六帖》《紹述先生文集》など。 東涯の原稿・日記・門人帳などは天理図書館古義堂文庫に収蔵されている。 元文1年歿。享年69。 |
伊藤博文 (いとう・ひろぶみ) 1841~1909 |
天保12年9月2日周防国熊毛郡生れ。 松下村塾に入門。 慶応元年、赤間関で高杉晋作と共に挙兵。 明治18年初代内閣総理大臣。 明治33年立憲政友会設立、総裁。 明治42年10月26日韓国ハルビンで狙撃される。享年69。 |
伊東巳代治 (いとう・みよじ) 1857~1934 |
明治~昭和初期の官僚政治家 安政4年長崎生れ。 従二位勲一等 伯爵 明治15年 憲法制定準備のため伊藤博文に随行、渡欧 明治31年 第3次伊藤内閣の農商務相 明治32年 枢密顧問官 東京日日新聞社長。天皇制維持に努力 晩年は政友会と通じ幣原外交を非難 若槻礼次郎内閣を崩壊させる 昭和9年2月19日没 |
伊藤明瑞 (いとう・めいずい) 1889~1948 |
明治22年2月奈良県生。本名宮本正雄。 3歳で草書を自由自在に書いた。 五歳のとき明治神宮の前で御前揮毫する。 明治天皇は大変感心され、 明治の瑞才であると誉められ、 伊藤博文の姓を受け伊藤明瑞の名を賜った。 昭和23年11月13日歿。享年59。 |
伊藤龍涯 (いとう・りゅうがい) 1880~1960 |
明治13年9月15日、東京八丁堀生れ。 本名繁延(しげのぶ)。 東京美術学校日本画科選科卒業、 寺崎広業に師事。歴史人物画に秀でる。 昭和35年7月31日歿。享年79。 |
伊東祐亨 (いとう・ゆうこう) |
明治期の海軍軍人(元帥)、号碧海。 天保14年生れ。薩摩藩士祐典の子。 神戸の勝海舟の塾に入り航海術を学ぶ。 薩英戦争に参加。維新後、創設期の海軍で、 春日・扶桑などの艦長となり、 明治19年少将、25年中将に進み、 日清戦争には連合艦隊司令長官。 戦後海軍軍令部長となり、31年大将、 日露戦争には大本営海軍幕僚長となった。 39年元帥。陸軍の山縣有朋とならぶ海軍の重鎮で、 薩摩閥の長老として海軍部内に強い藩閥勢力を培った。 大正3年没。享年71。 |
伊藤容真 (いとう・ようしん) |
明治・大正期の日本画家。本名文助。 慶応2年秋田県山本郡山本町森岳生れ。 医師を志し上京するが、画業にいそしむようになる。 菊池容斎門下と言われているが、誤りであろう。 有識故実と大和絵を研究し、容斎に私淑したか、 又は、梶田半古・松本楓湖らに師事したのであろう。 大正10年没。 |
乾南陽 (いぬい・なんよう) 1870~1940 |
明治3年8月13日、高知県土佐郡生れ。 本名長光。東京美術学校日本画科卒業。 橋本雅邦・山名貫義・下村観山に師事。 明治神宮聖徳記念絵画館壁画作成。 東台邦画会、日本画会会員。 昭和15年6月29日歿。享年69。 |
犬養毅 (いぬかい・つよし) 1855~1932 |
安政2年、備中国(岡山県)庭瀬藩の郷士の家に生る。 通称は仙次郎,木堂と号した。 慶応義塾に入学。《郵便報知新聞》記者として西南戦争に従軍した。 立憲改進党の結成に参加,86年《朝野新聞》に移る。 第1回総選挙に岡山県第3区から立候補当選,以後第18回総選挙まで連続当選。 42年間にわたって衆議院に議席を保持した。 進歩党の結成に参加,長州閥・自由党に対抗するため醍摩閥に接近し, 第2次松方正義内閣と提携した。 自由・進歩両党が憲政党に合同し隈板(わいはん)内閣が 成立すると,尾崎行雄辞任後の文相となった。 憲政党分裂後は憲政本党筆頭総務に就任し, いわゆる桂園時代を野党の闘士として送り, 山県系官僚と結んで政権接近を策す改革派に対し, 非改革派を率いて抗争を重ねた。 この間,日本に亡命した金玉均,孫文らを庇護し,中国革命同盟会 結成を援助するなど,大陸問題への強い関心ぶりを示した。 1910年立憲国民党を結成し,大正政変に際しては |
稲塚鳳堂 (いねづか・ほうどう) |
昭和年中の日本画家。 長野県三輪生れ。 師望月金鳳。 動物画を得意とする。 |
井上円了 (いのうえ・えんりょ) 1858~1919 |
明治期の仏教哲学者。 |
井上馨 (いのうえ・かおる) 1835~1915 |
天保6年生れ。幕末・維新~大正初期の政治家。 財界とくに三井財閥との縁が深い。 長州藩士の井上家は田地1町、畑4~5反をもつ100石の地侍であったが、 彼は幕末期一時志道(しじ)家の養子となり、のち井上家に復帰。 聞多の名は1860年(万延1)、藩主毛利敬親(たかちか)の 小姓役のとき藩主からもらったものである。号は世外。 明倫館に学び、また蘭学、英学、砲術などを修業し、 高杉晋作らと尊攘運動に参加した。 藩命で伊藤博文ら4名とともにロンドンへ密航したが、 65年(慶応1)奇兵諸隊の鴻城軍総督となり、以後長州藩討幕運動に参画、 |
井上金峨 (いのうえ・きんが) 1732~1784 |
江戸中期の儒者。折衷学派。 名は立元、字は純縁、通称は文平、金峨は号。 享保17年江戸生。父は常陸笠間藩医。 はじめ川口熊峰に仁斎学、ついで井上蘭台に徂徠学を学んだが、 やがて一家言を立てて折衷学の提唱者の一人となった。 一生民間にあって、門下に亀田鵬斎、吉田篁各、山本北山らがいた。 天明4年歿。享年53。 著書に《大学古義》《易学折衷》《経義緒言》《経義折衷》 《読学則》《師弁》《匡正録》《霞城講義》などのほか、 文集《焦余稿》,随筆《病間長語》などがある。 |
今井景樹 (いまい・けいじゅ) 1891~1965 |
明治24年、三重県鈴鹿郡関町生れ。 名は康。師今尾景年。円山派を修める。 昭和42年歿。享年77。 |
今尾景年 (いまお・けいねん) 1845~1924 |
弘化2年8月12日京都生。 幼名猪三郎、名永勤、字子裕、号聊自楽・養素斎。 浮世絵師梅川東居に学び、のち鈴木百年に入門。 友禅図案に従事しながら力をつける。 帝室技芸員。 華麗で精緻な花鳥画は国内外から高い評価を得た。 大正13年10月5日京都市で没。享年79。 |
今中素友 (いまなか・そゆう) 1886~1959 |
明治19年1月10日、福岡県生れ。 本名善蔵、別号知章・草江軒など。 初め博多の上田鉄耕に学び、 画家を志し上京して川合玉堂に師事。 文展・帝展などで入選多数。 昭和34年8月1日歿。享年73。 |
井村常山 (いむら・じょうざん) 1843~1925 |
天保14年三河(愛知県)生れ。名貫一。 明治初年には名古屋で警官をしていたが、 後に茨城県鹿島根本寺の住職となり空潭といった。 書は大竹蒋塘に学び、自ら一家をなす。 画は山本梅荘に、なお中国の「願若波」について六法をうけ、 大いに師の気格に似て、南画の山水を得意とした。 一旦郷里に帰ったが、再び上京し、また鹿島の根本寺に着て ここに一生を終える。大正14年。享年85。 |
入江為守 (いりえ・ためもり) |
大正・昭和期の御歌所長 皇太后宮大夫、子爵 明治元年、京都の冷泉家に生れる 歌学を父に、漢詩を神田香巌・国府青崖らに学ぶ |
岩倉具視 (いわくら・ともみ) 1825~1883 |
幕末・維新期の公卿・政治家。幼名周丸(かねまる)、号対岳。 中納言堀川康親の次男、岩倉具慶の養嗣子。 安政元年、孝明天皇の侍従となる。 公武合体を唱える。王政復古を画策。 新政府において,議定,副総裁,権大納言, 大納言,右大臣など,中枢に位置した。 この間,69年(明治2)には正二位に叙せられ, 永世禄5000石を下賜されている。 71年,特命全権大使として木戸孝允,大久保利通, 伊藤博文らとともに米欧に出かけて12ヵ国を回覧, アメリカではグラント大統領に謁し,ドイツでは ビスマルクやモルトケと会見したりした(岩倉使節団)。 従一位、勲一等、旭日大綬章、華族会館長。 年第十五銀行(華族銀行)、81年日本鉄道会社創設。 外遊,士族反乱,対朝鮮・台湾問題,〈漸次国家立憲ノ政体〉 樹立の詔勅などの過程で,天皇制の制度的確立を念頭におき, 自由民権運動とはまっこうから対抗した。 明治憲法の基本構想をつくり,明治14年の政変後, 政局の主導権を握った伊藤博文をドイツに派遣, 明治憲法起草の準備にあたらせたが, 83年(明治16年)病死した。国葬,翌年正一位を追贈。 |
岩崎巴人 (いわさき・はじん) 1917~ |
異色日本画家・禅林寺派僧侶。 大正6年、東京都生れ。名は弥寿彦。 川端画学校夜間部入学、日本画専攻。 師小林古径。 昭和16年戦争に召集され、21年除隊。 昭和52年僧籍に入る。 千葉県館山市に住す。 |
巌谷一六 (いわや・いちろく) |
明治期の政治家・書家。天保5年2月1日近江生れ。 水口藩の侍医の子。名は修、字誠卿、別号迂堂・古梅など。 京都で医学を学ぶ傍ら書を中沢雪城に学ぶ。 安政元年帰郷し勤王を唱え、明治元年徴士議政官史官。 24年貴族院議員。初め巻菱湖や趙孟ふの書風を学ぶが、 13年楊守敬の来朝時教えを受け、書風は一変し、一六流をなした。 明治38年7月11日歿。享年71。 |
巌谷小波 (いわや・さざなみ) 1870~1933 |
明治・大正期の小説家・童話作家。 明治3年、東京生れ。本名季雄。 尾崎紅葉らの<硯友社>同人として 小説などを書き新進作家として知られたが、 明治24年創作童話の「こがね丸」 を発表し新生面を開いた。 博文館に入社。 「日本昔噺」や「日本お伽噺」を出版。 文部省の各種委員として活躍。 童話口演、後進の養成など児童 文学に貢献した功績は大きい。 楽天居の俳号をもつ俳人でもある。 昭和8年没。享年64。 |
上田義山 (うえだ・ぎざん) 1891~1972 |
臨済宗大徳寺派510世。 京都大徳寺塔頭高桐院に住す。 室号無為室・閑雲室。 |
上原古年 (うえはら・こねん) 1877~1940 |
明治10年12月16日、東京浅草生れ。 本名千之助。梶田半古・松本楓湖に師事。 紅児会会員、巽画会評議員、国画玉成会幹事。 昭和15年歿。享年62。 |
植中直斎 (うえなか・ちょくさい) 1885~1977 |
明治18年10月1日、奈良県山辺郡生れ。 本名直治、別号無畏鎧。 師深田直斎・橋本雅邦・山元春挙。 鎌倉で宗教家田中智学の教えを受け、西宮で療養。 京都大学で沢村専太郎に美術史の指導を受ける。 日本自由画壇結成。帝展推薦。 歴史風俗画を得意とした。 昭和52年8月12日没。享年91。 |
植村和堂 (うえむら・わどう) 1906~2002 |
明治39年東京生れ。 相沢春洋・益田石華・田中親美に師事。 毎日書道会名誉会員。かな書道作家協会会長。 NHK通信講座「写経」講師。筆の里工房「写経」講師。 清和書道会主宰。 平成12年7月歿。享年97。 |
臼田亜浪 (うすだ・あろう) 1879~1951 |
大正・昭和期の俳人。 長野県生れ。本名卯一郎。 はじめ新聞界に入り、「やまと新聞」編集長などとなっ たが、俳詩「石楠」を創刊・主宰し、俳句に専念した。 高浜虚子や大須賀乙字の影響を受 けながら独自の俳論を展開した。 その特徴は形式的には俳句17音に立脚し一句 一章という一行詩をそこに達成しようとしたこと、 内容的には自然との合一を図る<自然感> の主張と<まこと>の探求があげられる。 ホトトギス派や新傾向派を批判し、一派をなした。 昭和26年歿。享年73。 |
内田良平 (うちだ・りょうへい) 1874~1937 |
国家主義(右翼)運動の指導者。明治7年、福岡県生れ。 玄洋社社長平岡浩太郎の甥。玄洋社幹部内田良五郎の三男。 黒竜会の創立者。対露同志会に参加し、ロシアとの開戦を主張。 日韓合邦推進団体である一進会とともに、日韓併合実現に奔走。 辛亥革命に当たっては、宮崎滔天らと有隣会を組織。 満蒙独立構想を主張、大正デモクラシー運動高揚期には 白虹事件(1918)をはじめ、デモクラシー運動の排撃につとめた。 宮中某重大事件・ロシア飢饉救済運動・排日移民法反対などで活躍。 加藤高明首相暗殺未遂事件で入獄。 大日本生産党を結成し、総裁。満蒙独立運動を推進した。 昭和12年歿。享年64。 |
海上胤平 (うながみ・たねひら) 1829~1916 |
明治時代の歌人。 文政12年、下総(千葉県)海上郡三川村生れ。 賢胤の三子。通称六郎、別号椎園。 初め山岡鉄舟、千葉周作の門に剣を学び、 また諸国に武者修行する。 のち紀州候に仕え、加納諸平の下に国学を究めた。 明治2年水原縣(越後)に出仕し、 のち山形地方裁判所判事補など歴任。 晩年には家塾を開いて、歌学の教授に没頭。 大正5年4月2日歿。享年88。 |
宇野信夫 (うの・のぶお) 1904~ |
昭和期の劇作家。 明治37年東京生れ。慶応大卒。 新作歌舞伎の作者として知られた。 6代目尾上菊五郎との提携は特に強かった。 江戸下町情緒の人情話と怪談的趣向がみられる。 |
浦上春琴 (うらがみ・しゅんきん) 1779~1846 |
安永8年生れ。浦上玉堂の子。名選。字伯挙。 通称喜一郎、別号睡庵・二卿・文鏡亭など。 父玉堂に教えを受ける。 各地の名勝を歩き、写生と、また古画蹟の研究 とで父におとらぬ画風をもって一家をなした。 弘化3年5月2日歿。享年68。 |
雲華大含 (うんげ・だいふく) 1773~1850 |
東本願寺派の僧 安永2年豊前の満徳寺生れ 別号鴻雪舎・染香人・枳車園など。 京都に出て仏教の学問を学び、雲華院に住した。 天保5年には高倉学寮の講師となり、 当時の南画家竹田や木米などと交って 自分も詩文書画を得意として、 特に墨蘭がすぐれていた。 嘉永3年10月8日没。享年78。 |
江木翼 (えぎ・たすく) |
大正・昭和期の政治家。 明治6年山口県生れ。東京大学卒業。 神奈川県事務官、法制局参事官を歴任、拓殖局部長。 第3次桂内閣、大隈内閣、加藤護憲三派内閣の書記官長。 勅撰貴院議員、法学博士、加藤高明内閣の法相、 浜口内閣、若槻内閣の鉄道相。 読書家として知られ、将来立憲民政党の総裁と目されていた。 昭和7年没。享年60。 |
江馬天江 (えま・てんこう) 1825~1901 |
勤皇の詩人 文政8年11月3日、滋賀県坂田郡(長浜市)生れ。 大阪に赴き医師江馬榴園の養子となる。 緒方洪庵に洋書を学び、梁川星巌に詩を学ぶ。 明治34年3月8日没。享年77。 文人画家の板倉槐堂は実兄。 |
大石順教 (おおいし・じゅんきょう) 1888~1968 |
真言宗尼僧、社会事業家、書家 明治21年大阪道頓堀の鮨屋生れ。 妻吉と名乗って芸者をしていたとき、 養父の起した明治犯罪史上有名な 堀江六人切り事件の巻添え になり両腕を切り落とされた。 その後旅回りの三遊亭金馬一座に加わった頃、 クチバシですべてをするカナリヤを見て発奮、 口に筆をくわえて書画を学んだ。 のちに日本画家山口草平と結婚、 一男一女をもうけたが37歳で離別。 その間に日本画の手ほどきを受けた。 昭和8年高野山で金山穆韶について得度、 11年真言宗山階派勧修寺の塔頭として 仏光院を建立、住職となり、同派宗会議員もつとめた。 身障者の教育・社会復帰に乗出し、更生施設「憩いの家」を建てて 身障者の生活の面倒をみる一方、お茶、お花、習字などを教えた。 絵画は南画が主で、31年日展に入選、41年西独ミュンヘンで 個展を開くなど、世界身体障害者芸術家協会会員として活躍。 昭和43年4月21日没。享年81。 |
大江良起 (おおえ・りょうき) 1874~? |
明治7年京都生れ 師幸野楳嶺 舞妓などを主に描いた 可愛らしい画をよくする |
大木遠吉 (おおき・えんきち) 1871~1926 |
明治・大正期の政治家。大木喬任の長男。 幼児、病弱のため通学しなかった。 明治33年爵位(伯爵)をつぎ貴院議員となる。 政友会の原敬と親交を結び、政界で活躍、 大正9年原内閣の司法相となる。 またアジア問題にも関心をもち、東京同交会、 国民外交同盟会などにも関係し、 貴院内部で異色な存在であった。 大正15年歿。享年56。 |
大口鯛二 (おおぐち・たいじ) 1864~1920 |
元治元年4月7日、名古屋生れ。 名鯛二、号周魚・旅師・多比之など。 初め伊東祐命につき、明治22年 宮内省御歌所に入ってからは、 高崎正風の教えをうけた。 千種会創設。門下5万人。 本願寺三十六人集を発見。 愛弟子に尾上柴舟(八郎)。 大正9年10月13日歿。享年57。 |
大河内夜江 (おおこうち・やこう) 1893~1957 |
明治26年1月7日山梨県東山梨郡生れ。 本名政宜(せいぎ)。菊池契月に師事。 京都市立絵画専門学校選科卒業。 帝展、美術展などで受賞多数。 昭和32年11月27日没。享年64。 |
大須賀乙字 (おおすが・おつじ) 1881~1920 |
明治・大正期の俳人 明治14年、福島県生れ。本名績(いさお)。 1904年に東京帝大へ進学、 同時期に河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)に入門 〈雁鳴いて大粒な雨落しけり〉などの句をつくり,喜谷六花、 小沢碧童とともに碧梧桐門の三羽烏と称された。 08年2月,評論〈俳句界の新傾向〉を発表,最近の句には 従来の直叙的な表現にかわる暗示的な傾向がある,と指摘した。 碧梧桐はこの意見を,自我を表現する俳句の新しい傾向として 受けとり,新傾向俳句運動を展開した。だが乙字は,自説の根拠を 俳諧の象徴的表現に求め,伝統を重視して碧梧桐に対立した。 大正9年歿、享年40。 |
太田秋民 (おおた・しゅうみん) 1884~1950 |
明治17年福島県生れ。本名益三郎。 東京美術学校日本画科卒業。 師荒木寛畝。 文展、帝展に入選多数。 昭和25年6月15日歿。享年66。 |
太田道灌 (おおた・どうかん) 1432~1486 |
室町後期の武将。 永享4年生れ。太田道真(資清)の子。 幼名鶴千代、元服して持資(もちすけ)のち資長(すけなが)。 仏門に帰依して以降は道灌の号をもちいた。 左衛門大夫とも称した。姓は源姓を称した。 官位は正五位下備中守。 扇谷上杉家の家臣 江戸城・川越城を築城 古今の兵書を読み、世に〈軍法師範〉と称され、 とくに〈足軽の軍法〉を得意とした。 和歌にも通じ、建仁寺の僧や万里集九 らを江戸城に招いて歌会を催した。 当主の上杉定正によって暗殺された。 文明18年7月26日歿。享年54。 |
大田南畝 (おおた・なんぽ) 1749~1823 |
江戸後期の狂歌師。寛延2年生れ。 本名覃。通称直次郎。号を蜀山人、 四方赤良、杏花園、晩桜山人など多数有り。 17歳で家督を継ぐ。 松崎観海・沢田東江に師事。 文政6年4月6日歿。享年75。 |
大田垣蓮月 (おおたがき・れんげつ) 1791~1875 |
幕末期の女流歌人。 寛政3年伊賀国上野藩主藤堂氏の娘。 名誠(のぶ)、号連月。 歌道は千種有功に学び、武技にも長じた。 出家して京都に住む。 晩年は京都西賀茂の神光院境内に住んだ。 明治8年歿。享年85。 |
大谷光暢 (おおたに・こうちょう) |
東本願寺24世。 父光演(句佛)。 平成5年歿。享年90。 |
大谷光演 (おおたに・こうえん) 1875~1943 |
明治後期の東本願寺法主・俳人。 真宗大谷派第23世。 明治8年、京都生れ。第2世光瑩(現如)の次男。 幼名光養麿、法名彰如、俳号句仏。 明治41年法主となるが、鉱山事業に失敗して、 大正14年退く。書画をよくする文人で、 とくに俳句はホトトギス系で河東碧梧桐についた。 昭和18年没。享年69。 |
大智勝観 (おおち・しょうかん) 1882~1958 |
明治15年1月1日、愛媛県今治生れ。 本名大智恒一(つねいち) 東京美術学校日本画科卒業。 日露戦争に従軍、負傷して復員、 帰郷して治療、再び上京する。 文展、院展などで受賞。日展参事。 昭和33年8月8日東京杉並区で没。享年76。 |
大鳥圭介 (おおとり・けいすけ) 1832~1911 |
天保3年、兵庫県赤穂郡生れ。 幕末の軍人,明治の政治家。 播州赤穂の医師の子で1866年(慶応2)幕臣となった。 諱(いみな)は純章,号は如風。 漢学を備前の閑谷黌,蘭学を大坂の適塾に学び, さらに江戸に出て江川英敏の塾に身を寄せて幕府に推薦された。 歩兵差図役頭取,歩兵頭と陸軍幹部の道を歩む。 69年(明治2)降伏入獄,72年出獄すると開拓使御用掛, |
大西良慶 (おおにし・りょうけい) 1875~1983 |
清水寺貫主。北法相宗の僧。 明治8年12月21日、奈良県生れ。 号無隠。 奈良興福寺の千早定朝に従い出家。 法隆寺の佐伯定胤に唯識を学ぶ。 興福寺231世。法相宗管長。 清水寺を本山とする北法相宗設立、初代管長。 仏教会の要職を歴任。 昭和58年2月15日没。享年108。 余談;昭和51年鹿児島に生れた、 日本初の五つ子の名付け親としても有名。 |
大野伴睦 (おおの・ばんぼく) 1890~1964 |
戦後保守党の党人政治家。明治23年岐阜県生れ。 |
大野百練 (おおの・ひゃくれん) |
元治元年、岐阜県大垣戸田藩士の子として生れる。 名鉄之助、別号野鉄・水竹居山人など。 叔父斎藤百竹に書を学び、後に漢学を藩学の 儒官野村藤蔭につき、漢詩を菱田海鴎に学んだ。 父に早く死に別れたので、14歳で小学校の教員になり 家計を助けながら苦学し、明治29年33歳の時から 大垣中学校の教諭となり、24年間奉職した。 大正11年3月、東京平和博覧会で銀牌。 大正14年、日本書道作振会審査員、 泰東書道院創設で総務、審査員。 その他日本美術協会、平安書道会、 関西書道会などの審査員。 昭和13年、日満書道親善使節として渡満。 興亜書道連盟理事・総務。 昭和16年2月26日没。享年78。 |
大林千萬樹 (おおばやし・ちまき) 1887~1959 |
明治20年1月、岡山県生れ。 師富岡永洗・川合玉堂。 巽画会会員。東京勧業博覧会受賞。 第1回院展から第4回院展まで美人画で連続入選。 日本美術院院友。奈良、名古屋、京都に転居。 戦後は各地に移住する。 昭和34年4月26日没。享年72。 |
大町桂月 (おおまち・けいげつ) 1869~1925 |
明治・大正期の詩人・随筆家。 明治2年、高知県生れ。本名芳衛。 東大在学中「帝国文学」の編集委員 となり同誌上に新体詩や評論を発表。 明治29年同窓の塩井雨江・武島羽衣と共著で 「美文韻文花紅葉」を出版、<大学派>と呼ばれた。 地方の中学教師を務めた後、博文館に入社、「文芸倶楽部」 「太陽」などに随筆を書き美文書家として知られた。 晩年は旅を愛し、遠く朝鮮・満州にも赴き、 独特な美文で書かれた,紀行文は広く読まれた。 大正14年没。享年57。 |
大森曹玄 (おおもり・そうげん) |
臨済宗天竜寺派中野高歩院で「鉄舟会」師家として 剣・禅・書を指導した花園大学長等歴任。 山梨県生れ。号的翁。 |
大八木也香 (おおやぎ・やこう) |
大正期の日本画家。 明治7年6月27日東京入谷生れ。也香楊壽生の子。 名義之助、別号金鏡、正香、大文、居を善楽堂と称す。 三田利徳に就き漢学を修め、画を父及び佐竹永湖に学び、 専ら文晁派を修め、山水を能する。 美術協会・日本画会などで受賞多数。 東宮職及び宮内省御用品各1回。 帝国絵画協会、日本美術協会会員。 酒、音楽、謡曲を嗜好とした。 |
岡倉秋水 (おかくら・しゅうすい) 1868~1950 |
明治元年12月11日、福井生れ。本名覚平。 岡倉天心の甥。 狩野芳崖に師事。 東京美術学校絵画科に入学するが、のち 東京高等女子師範学校の図書教諭となる。 明治30年から45年まで学習院教授。 日月会結成、主任幹事。 関東大震災後、京都に移住。 昭和25年12月30日没。享年82。 |
岡不崩 |
明治2年7月、福井県大野町生れ。 |
岡田蘇水 (おかだ・そすい) 1880~1942 |
明治13年6月2日栃木県田辺町生れ。 本名喜一郎(喜市郎とも) 33年上京、佐竹永湖に師事。 日本美術協会展、日本画会展、日本南宋画会展など で受賞を重ね、日本美術協会委員となる。 40年東京勧業博覧会に《観瀑》で褒状。 大正元年第6回文展の第一科に《楳花書屋》で初入選。 以後6年第11回文展まで連続入選する。 昭和17年10月3日東京上野で没。享年62。 |
岡田華郷 (おかだ・かきょう) 1894~1981 |
明治27年、東京生まれ。 本名源次郎。拈華荘とも号す。 吉川霊華に師事、大和絵を学ぶ。 大正14年第6回帝展に<西王母>で入選、 唯一の官展出品となる。 昭和56年歿。享年87。 |
尾形月耕 (おがた・げっこう) 1859~1920 |
安政6年9月15日、江戸京橋生れ。 本姓鏡、のち田井。本名正之助。 独学で日本画を学び、新聞挿絵や 錦絵でその名を知られるようになる。 明治24年岡倉天心らの日本青年絵画協会の 結成に参加、日本美術院の創立に正員として参加。 美術展や博覧会などで受賞多数。 大正9年10月1日没。享年61。 |
尾形月山 (おがた・げつさん) 1887~1967 |
明治20年9月10日、東京京橋生。 本姓田井、本名正子(まさつぐ)、初め月三と号す。 父尾形月耕に手ほどきを受け、その後は独学する。 6歳にして展覧会に出品する。 大正9年から月山と号す。 伊豆修善寺に疎開し、戦後もこの地で画作する。 昭和42年12月27日没。享年80。 |
岡野知十 (おかの・ちじゅう) 1860~1932 |
安政7年、北海道日高生れ。 本名敬胤、通称正之助、号正味、旧姓木川。 明治28年、毎日新聞に『俳壇風聞記』を連載、 当時の俳壇を新派の子規派をはじめ尾崎紅葉らの新派、 また伝統旧派までを広く見渡しながら興趣深く語る。 これで評判を得『半面 』を創刊、新々派と称し半面派を形成した。 俳句の史的研究をし、多くの俳書を収集。 その蔵書は東大図書館に「知十文庫」として収められている。 フランス文学者岡野馨は彼の実子。 明治34年『半面』創刊。 著書『俳諧と画趣』『蕪村その他』『味余』(小唄集)、 『晋基角』『雨華抱一』『俳諧風聞記』『湯島法楽』、 編著『一茶大江丸全集』『也有全集』など。 没後、句集『鶯日』が刊行される。 昭和7年8月13日没。享年73。 |
岡本一平 (おかもと・いっぺい) 1886~1948 |
大正・昭和前期の漫画家。 明治19年函館生れ。東京美術学校卒業。 妻かの子は小説家、子太郎は洋画家。 在学中、藤島武二に師事。 東京朝日新聞社に入社し、漫画を描いた。 その描写は人間生活の機微にふれ、 その独特な漫文とともに多くの人々に親しまれ、 政治漫画に一時期を画した。 妻この子と共に参禅などして仏教の影響を受けた。 昭和23年没。享年63。 |
岡本亮彦 (おかもと・すけひこ) 1823~1883 |
文政6年生れ。旧姓小栗、名澄、字子朗、 通称司馬、別号畔生・暁翠園など。 尾州半田の郷土小栗半七の子で、 京都に行って岡本豊彦の門に学び、 山水花鳥を得意とし、 岡本豊彦没後、岡本姓をついだ。 明治16年11月18日、金沢旅行中没。61歳。 |
岡本秋暉 (おかもと・しゅうき) 1785~1862 |
画家。天明5年生れ。字秋翁、通称祐之丞。 小田原藩大久保候の家臣で、画を大西圭斎に師事。 渡辺華山と親交。花鳥が得意。 文久2年9月4日。享年78。 |
小川瓦木 |
現代書家。墨象系作家。 |
小川千甕 (おがわ・せんよう) |
明治15年10月3日、京都市生れ。本名多三郎。 仏画師北村敬重の徒弟となり、かたわら 関西美術院で浅井忠に洋画を学び、 浅井の没後は京都市立陶磁器試験場の技手となるが、 上京し挿絵画家の道を歩み、小説家小川煙村の縁で、 『ホトトギス』の挿絵も制作する。 平福百穂・小川芋銭らと珊瑚会を結成。 南画家への通を辿り大東南宗院委員となる。 詩歌や書にも優れ、島木赤彦に 学んで『アララギ』に短歌を寄せる。 昭和46年2月8日没。享年88。 |
小川平吉 (おがわ・へいきち) 1869~1942 |
明治2年、長野県生れ。 帝国大学法科大学卒業後,弁護士を開業。 1901年近衛篤麿の東亜同文書院に 参加し,03年以降代議士当選10回。 日露戦争に際し対露同志会の先頭にたって主戦論を展開し, 講和条約反対の日比谷焼打事件で一時下獄。 原敬総裁下の立憲政友会の幹事,総務委員, 国勢院総裁を経て,加藤高明内閣の法相, 田中義一内閣の鉄相をつとめる。 29年在任中の五私鉄疑獄, 売勲事件で実刑を受け政界を引退した。 昭和17年歿。享年74。 |
荻生天泉 (おぎゅう・てんせん) 1882~1947 |
明治15年4月28日、福島県二本松生れ。 本名守俊。東京美術学校日本画科卒。 橋本雅邦に師事、狩野派を学ぶ。 第1回文展で入選、その後双葉会展、 巽画会展、美術研精会展で受賞を重ねる。 美術研精会委員、双葉会幹事をつとめる。 以後帝展に連続10回入選、ほか官展で活躍。 昭和22年10月9日没。享年65。 |
荻原井泉水 (おぎわら・せいせんすい) |
大正・昭和期の俳人。 明治17年6月16日、東京生れ。 本名藤吉。東京大学言語学科卒業。 中学時代、老鼠堂永機の「俳諧自在」 によって俳句をつくりはじめる。 「読売新聞」俳壇、秋声会、半面派、日本派などに 関心をよせ、河東碧梧桐の新傾向俳句運動に参加。 ゲーテの短詩、シラーの2行詩に心酔し、新しい俳句をめざした。 象徴的、心境的、求心的、散文詩的な 多様な傾向を示し、これを層雲調と呼んだ。 「原泉」「長流」「大江」「四海」の4句集が、 井泉水の生涯の句をさぐるに便利なものである。 芸術院会員。種田山頭火・尾崎放哉の師にあたる。 昭和51年5月20日没。享年93。 |
奥谷秋石 (おくたに・しゅうせき) 1871~1936 |
明治4年、大阪生れ。本名常次郎。 洗耳洞、曲水園などとも号す。 初め重春塘、のち森寛斎に 師事し円山派を学ぶ。 山水得意。 昭和11年歿。享年65。 |
奥原晴湖 (おくはら・せいこ) 1837~1913 |
天保8年8月15日、下総国(千葉県)古河生れ。 旧姓池田、幼名節、初め谷文晁の門人で 古河藩士牧田水石に師事して石芳と号す。 元治2年江戸に遊学するため関宿藩士 奥原家の養女となり、江戸に出る。 号を晴湖と改め、上野に住まいを定め墨吐煙雲楼と名付ける。 慶応4年彰義隊の灘を避けて一時熊谷に移るが間もなく戻る。 明治維新後は鄭板橋に私淑。 明治4年画塾を開設、多くの門人が入門する。 5年皇后御前で揮毫、24年熊谷に隠棲する。 明治期を代表する女性画家の一人として活躍。 大正2年7月28日歿。享年75。 |
尾崎行雄 (おざき・いくお) 1859~1954 |
日本近代の代表的自由主義政治家。号は咢堂。 安政6年、神奈川県津久井町生れ。 慶応義塾中退後新聞記者となり,1882年立憲改進党創立に参画。 98年大隈重信内閣の文相となったが,日本に 第1次世界大戦後いちはやく普通選挙運動の先頭に立ち, |
小沢蘆庵 (おざわ・ろあん) |
江戸中・後期の歌人 享保8年、尾張国生れ 冷泉為村に和歌を学ぶが破門 京都において和歌四天王と称された 享和元年没。享年79。 |
尾関宗園 (おぜき・そうえん) 1932~ |
奈良県生れ。号桃林。 |
小田海僊 (おだ・かいせん) 1785~1862 |
江戸後期の画家。 天明5年、長州赤間関生れ。 通称良平、字巨海・百合など。 京都に出て松村呉春に学び、 同門の松村景文・岡本豊彦と名声を争った。 後に友人頼山陽の影響を受けて南画に転じる。 中国元明時代の古画跡を研究し一家をなした。 弟子に大庭学僊・羽様西崖らがいる。 文久2年8月24日没。享年78。 |
織田観潮 (おだ・かんちょう) |
明治22年12月31日、東京根岸生まれ。本名定次。 尾竹国観に師事、大和絵を学ぶ。 帝展改組では第一部会の結成に参加。 歴史画、特に物語の世界を描き続ける。 昭和36年歿。享年71。 |
尾竹国観 (おだけ・こっかん) 1880~1945 |
明治13年4月21日、新潟県生れ。 本名亀吉。兄の越堂、竹坡ともに日本画家。 高橋太華、小堀鞆音に師事して歴史画を学ぶ。 院展、文展、勧業博覧会などで受賞多数。 昭和20年5月18日、疎開先で没。享年65。 |
尾竹竹坡 (おだけ・ちくは) 1878~1936 |
明治11年1月11日、新潟県生。 本名染吉。兄越堂、弟国観。 笹田雲石に南画を学び、 上京して川端玉章に師事。 大正4年美術行政への不満など から総選挙に立候補して落選。 昭和11年6月2日、東京本郷で没。58歳。 |
尾上柴舟 (おのえ・さいしゅう) 1876~1957 |
明治~昭和期の歌人・書家。 明治9年岡山県生れ。本名八郎。 落合直文の<あさ香社>に入り歌を学ぶ。 明治35年金子薫園と共に「叙景詩」を出版、 <明星派>に対して叙景詩運動を進めた。 38年<事前草社>を結成、作歌につとめる。 書家としても有名で「平安朝時代の草仮名の研究」 「歌と草仮名」の著書がある。 女子学習院などの教授をつとめ、 昭和12年芸術院会員となった。 昭和32年没。享年82。 |
小原国芳 (おばら・くによし) 1887~1977 |
玉川学園の創設者。明治20年、鹿児島県生れ。 京都大学哲学科卒業。西田西田幾多郎・小西重直に師事。 沢柳政太郎らと成城小学校(成城学園)の経営に尽力。 武蔵野の地に玉川学園を創立。 教育理念は〈全人教育〉の名でよばれている。 昭和52年歿。享年91。 |
折口信夫 (おりくち・しのぶ) 1887~1953 |
国文学者、民俗学者、歌人、詩人。明治20年、大阪生れ。 歌人・詩人としては釈迢空(しやくちようくう)と名のった。 民俗学的国文学、日本芸能史論の創始者であって、〈折口学〉と称される。 [歌人・詩人として] [民俗学者として] |
甲斐乕山 (かい・こざん) |
慶応3年、大分県臼杵市生れ。名は駒蔵。 田能村竹田や帆足杏雨の画風筆法を研鑽し、 杏雨門下の高足の一人として知られた。 城陽(大分松岡浄雲寺)、三原活山(大分)、 村上姑南(中津)、広瀬濠田(日田)らにも師事。 32歳の時、京都において私立文中園女学校を創設。 昭和36年9月26日没。享年94。 |
香川景恒 (かがわ・かげつね) |
徳川中期の京都の歌人。 景樹の子。初名景周、通称式部、 桂園・東塢亭と号した。 家学を修めて徳大寺家へ仕へ、 また書を巧にした。 慶応元年没。享年42。 |
鹿児島寿蔵 (かごしま・じゅぞう) 1898~1982 |
人形作家、アララギ派歌人 明治31年12月10日、福岡市生れ。 有岡米次郎に博多人形勢作を学ぶ。 紙塑人形を創始、日本紙塑藝術研究所開設。 人形美術団体甲戌会結成。帝展入選。 短歌雑誌「潮汐」創刊。 紙塑人形の人間国宝となる。 昭和57年8月22日没。享年85。 |
梶喜一 (かじ・きいち) 1904~1980) |
明治37年11月7日、京都市生れ。 師都路華香・西村五雲。別号崇樹。 鯉の名手として知られる。 昭和55年2月14日歿。享年75。 |
梶原緋佐子 (かじわら・ひさこ) 1896~1988 |
明治29年12月22日、京都市生れ。 本名久(ひさ)。菊池契月に師事。 宇田荻邨画塾の白申社の結成に参加。 日展参与。京都市文化功労者。 京都府美術工芸功労者。 戦後は舞妓などをモティーフに詩情に 満ちた独自の美人画を追求し続けた。 昭和63年1月3日、京都市で没。享年91。 |
勝海舟 (かつ・かいしゅう) 1823~1899 |
幕末・明治の政治家。文政6年生れ。 通称麟太郎,名義邦,明治2年安芳と改名、号海舟。 将軍徳川家斉の孫初之丞の相手をつとめた。 島田虎之助について剣術をきわめ, 蘭学を永井青崖に師事し、西洋兵学を身につけ、 1850年(嘉永3)赤坂田町に兵学塾を開いた。 軍艦操練所教授方頭取,咸臨丸を指揮して太平洋を横断, 62年(文久2)軍艦奉行並に昇進,神戸海軍操練所設立し, 諸藩士や坂本竜馬ら脱藩浪士の教育にあたった。 64年(元治1)正規の軍艦奉行に進み安房守を称したが, 同年11月浪人庇護をとがめられて免職, 翌年3月に神戸操練所も廃止となった。 66年(慶応2)軍艦奉行に復職,安芸の宮島に 出張して長州藩との停戦交渉に成功。 陸軍総裁,さらに軍事取扱となって東征軍にたちむかい, 江戸総攻撃予定日の前夜,西郷隆盛と会見し, 薩摩藩や長州藩が存続するかぎり徳川も 藩として生き残る権利があるとの主張を認めさせ, 無血開城への道を開いた(江戸開城)。 75年元老院議官。87年伯爵,88年枢密顧問官 《吹塵録》《海軍歴史》《陸軍歴史》《開国起原》など, 旧幕時代の記録を編集・刊行した功績も大きい。 明治32年没。 |
桂文治 (かつら・ぶんじ) 1924~ |
落語家、10代目 大正13年1月14日、東京生れ。 本名関口達雄。父は初代柳家蝠丸。 昭和19年召集を受け、終戦で帰還後噺家となり、 21年6月桂小文治に入門して小よし。 23年桂伸治(2代)と改名。 33年9月真打昇進。 54年3月、10代目文治を襲名。 江戸前の芸風で笑いの多いネタを得意とする。 噺以外にも南画をよくする。 |
加藤寛治 (かとう・ひろはる) 1870~1939 |
大正・昭和初期の海軍軍人。 明治3年福井生れ。海軍兵学校(18期)卒業。 日清戦争に従軍,日露戦争では軍艦三笠の砲術長。 1921‐22年にはワシントン会議随員となり, 主力艦対米比率7割を主張して加藤友三郎全権と対立した。 軍令部次長,連合艦隊司令長官をへて,27年大将, 以後も艦隊派の統帥として条約派と対立しつつ, |
楫取素彦 (かとり・もとひこ) 1829~1912 |
幕末の志士、男爵。 文政12年3月山口県萩生れ。 名志毅、字哲、通称文助・素太郎。 山口藩医家松島瑞蟠の次男。 兄は洋学者の松島剛蔵。 12歳で儒者小田村吉平の養子となる。 江戸に出て安積艮斎に入門。 明倫館で教授し、のち吉田松陰の妹寿と結婚。 松下村塾でも指導にあたる。 慶応3年藩命で楫取素彦と改名。 群馬県初代県令(県知事) 元老院議官。宮中顧問官など歴任。 大正元年8月14日没。享年84。 |
亀田鵬斎 (かめだ・ほうさい) 1752~1826 |
江戸後期の儒者・折衷学派。 宝暦2年、江戸の商屋生れ。 名長興(興)、字穉竜、通称文左衛門、号鵬斎・善身堂。 書を三井親和、儒学を井上金峨に学び、 江戸の五鬼の一人に挙げられる。 一生官に仕えず下町の儒者として経書を講じ、 |
亀谷省軒 (かめたに・せいけん) 1838~1913 |
幕末・明治期の対馬藩士・漢学者 天保9年生。名行、字子省 師広瀬旭荘・安井息軒 岩倉具視に従う 大正2年1月没。享年76。 |
賀茂季鷹 (かもの・すえたか) 1752~1841 |
江戸後期の国学者・歌人。宝暦2年京都生まれ。 本性山本。生山・雲錦と号す。 職仁親王に和歌を学び、江戸に下り、加藤千蔭ら歌人・文人と交わる。 帰京して上賀茂社の祠官となり、正四位下安房守に任ぜられた。 狂歌を得意とし、交友も多く広く名を知られた。 天保12年10月9日歿。享年90。 |
金子鴎亭 (かねこ・おうてい) 1906~2001 |
明治39年5月9日、北海道松前郡生れ。本名は賢蔵。 比田井天来に師事。調和体の書に造型性と思想を融合させた 近代詩文書運動を興す。六朝北魏の楷書、木簡等を研究。 日展文部省大臣賞・文化勲章受章・文化功労者、 芸術院賞・日展参事・毎日芸術賞・勲三等旭日章・ 名誉都民・創玄会長・毎日書道会名誉顧問・近詩協会長。 平成13年11月5日没。享年96。 |
金子薫園 (かねこ・くんえん) 1876~1951 |
歌人。明治9年東京生れ。本名雄太郎。 落合直文の「あさ香社」に加わり歌を学ぶ。 「かたわれ月」を出版。 尾上柴舟と<叙景詩運動>をすすめ「白菊会」を結成。 都会人らしい洗練された感覚と温雅平淡さに特色がある。 芸術院会員。昭和26年歿。享年76。 |
金子米軒 (かねこ・べいけん) 1883~1946 |
明治16年、埼玉県生。本名椙三郎。 小室翠雲・山岡米華に師事。 大正11年第4回帝展で初入選。 14年第6回帝展で再入選。 昭和3年から8年まで帝展に入選。 昭和21年没。享年63。 |
金子堅太郎 (かねこ・けんたろう) 1853~1942 |
明治期の官僚・政治家 |
狩野探信守道 (かのう・たんしんもりみち) 1785~1835 |
鍛治橋狩野家7代目 徳川幕府の奥絵師、法眼。 6代探牧守邦の長男。名守道、別号興斎。 天保6年9月5日歿。享年51。 |
狩野探道 (かのう・たんどう) 1890~1948 |
明治23年、東京生れ。名守久。 鍛治橋狩野家12世。父は狩野探岳。 狩野応信に狩野派を学び、 師応信没後、荒木(狩野)探令に師事。 大正4年東京美術学校日本画科卒業。 日本美術協会委員、審査員。 日本美術協会展を中心に制作発表を続ける。 昭和23年6月4日、東京都中野区で没。58歳。 |
狩野周信 (かのう・ちかのぶ) |
江戸中期の画家。万治3年生れ。常信の長男。 幼名生三郎のち四郎次郎、初名右近、号如川・国燕など。 父の跡目をつぎ、徳川幕府の絵師として仕えた。 享保4年中務卿法眼に叙せられ、この年に朝鮮に 送る屏風や琉球王への進物屏風などを描いた。 享保13年没、享年69。 |
狩野常信 (かのう・つねのぶ) |
江戸後期の画家。寛永13年生まれ。尚信の長男。 通称右近。号を養朴・耕寛斎・青白斎など。 狩野探幽に教えを受ける。元信・永徳・探幽と 並んで狩野派の四大家の一人に数えられる。 木挽町狩野家の地位を高め、諸狩野家の様式を集大成させた。 宝永6年法印に叙せられる。 正徳3年歿。享年78。 |
川合玉堂 (かわい・ぎょくどう) 1873~1957 |
明治6年11月24日愛知県生れ。 本名芳三郎。偶庵とも号す。 少年時代を岐阜市でおくり、14歳のとき 京都に出、望月玉泉に入門する。 玉舟の雅号を受けるが、玉堂と改め 幸野楳嶺の画塾に参加、四條派を研鑽する。 師楳嶺歿後、橋本雅邦に師事、東京に移住する。 帝室技芸員。文化勲章受章。東京都名誉都民。青梅市名誉市民。 昭和32年6月30日歿。享年83。 修二は息子。 |
川上拙以 (かわかみ・せつい) 1901~1976 |
明治34年5月1日愛媛県生れ 本名昌薫(まさしげ) 師菅楯彦、西山翠嶂 日展会友 昭和51年12月3日京都市で没 享年75 |
狩野永斎秉信 (えいさい・もちのぶ) |
中橋狩野17代目。(最後の狩野) |
狩野光雅 (かのう・こうが) 1897~1953 |
日本画家。明治30年1月、和歌山県生れ。 本名政太郎。東京美術学校日本画家卒業。 師松岡映丘。新興大和絵会結成。 国画会結成同人として参加。 昭和28年12月17日歿。享年56。 |
狩野探令 (かのう・たんれい) |
安政4年1月10日、羽前国(山形県)新庄生まれ。 名守純、丈太郎。本姓荒木。 鍜治橋狩野家の狩野探美に師事。 皇室の御用画を制作。 大正5年狩野姓を名乗ることを許される。 昭和6年4月9日没。享年73。 |
鏑木雲潭 (かぶらぎ・うんたん) 1783~1839 |
天明3年生れ。 名祥。字三吉。通称祥蔵。別号実斎、尚左堂など。 市川寛斎の子、市川米庵の弟。 鏑木梅溪の養子となり、子に鏑木雲洞がいる。 画は谷文晁に師事する。 天保10年歿。享年57。 |
川上哲治 (かわかみ・てつはる) 1920~ |
大正9年3月23日、熊本県生れ。 熊本工業高校卒 ニックネームは「打撃の神様」「弾丸ライナー」「赤バット」 1938(昭和13)年~1958(昭和33)年 プロ野球・読売ジャイアンツで野球選手 一塁手 左投 左打 通算成績 打率3割1分3厘、2351安打、本塁打181 1979試合出場 現役時代の背番号16は同チームの永久欠番 1961(昭和36)年~1974(昭和49)年 同チーム監督 日本シリーズ優勝11回 |
川路柳虹 (かわじ・りゅうこう) 1888~1959 |
明治21年、東京生れ。本名誠。 京都美術工芸学校を経て、 東京美術学校日本画科卒業。 京都時代より詩作を始める。 口語自由詩により、詩壇の注目を浴びた。 フランス詩壇の紹介にもつとめ後進の指導にあたった。 現代詩の主知主義の先駆をつとめた詩人といえる。 昭和34年4月17日歿。享年72。 |
河内雪峰 (かわち・せっぽう 1869~1984 |
昭和期の漢字書家。 明治31年12月25日、熊本県人吉市生れ。 名は寛次。近藤雪竹に師事。 毎日書道展審査会員・二本書道連盟参与・ 雪友会会長・雅遊会会長。 昭和59年歿。享年85。 |
川端玉章 (かわばた・ぎょくしょう) 1842~1913 |
天保13年3月8日、京都生れ。本名滝之助、別号敬亭・璋翁。 父は蒔絵師で父に蒔絵を習い、三井家への奉公ののち、 嘉永5年中島来章に師事、円山派を学び、小田海僊にも指導を仰ぐ。 慶応2年江戸に出て高橋由一に油絵を習う。 各種展覧会などで受賞多数。明治29年帝室技芸員拝命。 画塾天真堂(天真社)を開設、円山派を関東に伝える。 東京美術学校教授。42年東京小石川に川端画学校開校。 円山派最後の巨匠として花鳥、山水に秀作を残す。 古社寺保存会委員、天真会会長。 大正2年2月14日東京巣鴨で没。享年70。 茂章は二男で日本画家、実は孫で洋画家。 |
河東碧梧桐 (かわひがし・へきごとう) 1873~1937 |
明治・大正期の俳人。明治6年愛媛県松山生れ。 明治20年、伊予尋常中学に入学。虚子とは同級。 22年帰省した子規からベース・ボールを 教わったことがきっかけとなり、俳句にたずさわる。 高浜虚子と共に正岡子規門下の双壁と称された。 明治26年から新聞「日本」の俳句欄を子規から引き継いで担当。 明治38年頃から、「新傾向俳句」に走り、 全国遍歴の旅にでてその傾向を強めた。 その時の紀行文が「三千里」である。 やがて「守旧派」の虚子と対立するようになる。 昭和8年還暦を機に俳界から引退した。 昭和12年没。享年65。 |
河辺華挙 (かわべ・かきょ) |
弘化元年生れ。華陰の長男。 名暉彦、通称秀三郎。 父に教を受け後土佐、狩野、南宋の各派を 研鑽して一家を成し、人物画を得意とした。 森寛斎始め知名の士と交友。 京都画学校に出仕。 昭和3年4月6日没。享年85。 |
川村曼舟 (かわむら・まんしゅう) 1880~1942 |
明治13年7月9日、京都生れ。本名萬蔵。 山本春挙に師事、京都市新古美術品展で入賞を重ね、 41年第2回文展に初入選以降受賞多数。 師春挙没後は画塾早苗会を主宰。 京都市立美術工芸学校・市立美術工芸学校校長。 美しい自然を愛情を込めて詩情豊に描き続けた。 昭和17年11月7日、京都市で没。享年62。 |
菅野梁川 (かんの・りょうせん) 1880~1933 |
明治13年、福島県生れ。 名善平、別号易安・羅葡道人。 師高森砕巌。 昭和8年歿。享年54。 |
菊沢武江 (きくざわ・ぶこう) |
明治15年12月に加須町(現・加須市)生れ。本名六兵衛。 14才で日本橋の半襟商に奉公に出され、 熱心に商売の道を精進していた。 20歳頃寺崎広業門下の展覧会を見て画家にあこがれる。 商売を学びながら深夜に絵の勉強。 その後、人力車夫などをして生活費を稼ぎ、絵画の修行を続ける。 東京美術学校卒業(席次2番)。 大正4年文展『玩具屋の店』で入選。 昭和4年帝展『群鶏』で特選。 雅号は、利根川にちなんだものと言われている。 |
菊地容斎 (きくち・ようさい) 1788~1879 |
天明年11月1日、江戸下谷に徳川幕府の与力の家に生れる。 通称量平、名武保。 18歳の時狩野派の高田円乗に入門、 5年程で師が没したので、巨勢、土佐、 その他画法、古社寺の模写などで勉強し、 更に有識故実と大和絵を研究して歴史画に新画風をつくり、 また、洋画の画法も取り入れて時代にあった描写や 特色のある画を多くかき、復古大和絵派といわれた。 米国博覧会に出品して賞牌を受けた。 明治11年6月16日没。享年91。 祖先は肥後守菊池武時で、19世の子孫武長が遠縁の |
岸信介 (きし・のぶすけ) |
昭和期の政治家。佐藤栄作の兄。 明治29年、山口県生れ。東京大学卒業。 昭和32年総裁(3期にわたり首相)。 |
岸浪百艸居 (きしなみ・ひゃくそうきょ) 1889~1952 |
明治22年10月17日、群馬県館林生れ。 本名定司。初め静山と号す。 父は南画家岸浪柳渓。 師小室翠雲。 昭和6年、百艸居と改号する。 魚を好み、魚の作品を多く描く。 昭和27年9月21日没。享年62。 |
岸浪柳溪 (きしなみ・りゅうけい) 1855~1935 |
安政2年11月3日、江戸下谷生れ。本名静司。 福島柳圃・田崎草雲に師事。 日本美術協会会員。日本南宗画会幹事。 文墨協会協議員。 昭和10年12月10日歿。享年80。 南画家百艸居(静山)は子息。 |
北上聖牛 (きたがみ・せいぎゅう) 1891~1970 |
明治24年、北海道函館生れ。 本名利一郎。別号北山・池龍・利一。 叔父は日本画家北上峻山。 大正2年京都に出、 竹内栖鳳の画塾竹杖会に入門。 写実的な花鳥画を得意とした。 昭和45年歿。享年79。 |
北沢楽天 (きたざわ・らくてん) 1876~1955 |
明治~昭和期の漫画家 明治9年埼玉県生れ。本名保次。 20年横浜に出てオーストリアの漫画家フランク=ナンケベルに師事。 33年福沢諭吉に招かれて時事新報社に入社。 政治漫画と風俗漫画で明治中期から 大正にかけて<楽天漫画>として知られた。 漫画雑誌「東京パック」を創刊し漫画界の大御所となる。 戦時中は漫画奉公会会長になった。 敗戦後は故郷の大宮市に住み、日本画 を描いて自適の生活をおくった。 昭和30年8月25日没。享年80。 楽天旧居跡は大宮漫画会館。 大宮市名誉市民。 |
北野元峰 (きたの・げんぽう) 1842~1933 |
曹洞宗の学僧。永平寺67世。曹洞宗管長。 天保13年11月1日、越前国(福井)小山生れ。 北野孫四郎の10男。 鴻雪爪(清拙)に師事 昭和8年10月19日歿、享年92。 |
北村九皐 (きたむら・きゅうこう) 1905~ |
明治38年9月30日、群馬県高崎市生れ。 昭和5年吉田苞竹の書道講習をうけ、 その高弟である松井如流に9年より入門。 陸軍経理学校卒業、陸軍軍部につとめ、 大本営兵站総監部附を歴任、終戦により退役。 協和興業株式会社取締役。 23年日展に書道参加とともに出品。 日展参与。東方書道院同人。毎日書道展審査員。 |
木戸孝允 (きど・たかよし) 1833~1877 |
天保4年6月26日長門国萩生れ。(医師の子) 通称桂小五郎、慶応元年木戸と改姓。号松菊。 桂九郎兵衛の養子になる。のち不縁。 吉田松陰に師事。 明治10年没。享年45。 |
清川八郎 (きよかわ・はちろう) |
幕末期の志士。 天保元年、出羽(山形県)東田川郡清川村生れ。 幼名元司、通称八郎・正明、変名大谷雄蔵・日下部達三。 東条一堂・安積艮斎・千葉周作につき修業。 桜田門外の変ののち志士活動に入り、各地の志士と交る。 浪士隊入し上洛するが、近藤勇ら佐幕派と対立。 再び江戸に戻され新微組に編入される。 上山藩主金子与三郎に招かれて出向の途中、 麻布で幕史佐々木只三郎に暗殺された。 文久3年没。享年34。 |
日下部鳴鶴 (くさかべ・めいかく) |
明治・大正期の書家。天保9年近江(滋賀県)生れ。 田中因大の次男、日下部家の養子。 本名東作、字子暘、別号野鶴・鶴盧。 太政官の大書記となり、三条実美・大久保利通の知遇をうけたが、 利通の死にあい、以後は書に専念。 巌谷一六らと金石の学をひらく。 中国に渡り、楊けん・呉大微らと交遊して書法を正し、 漢・六朝の書を骨子とした書風を極めた。 比田井天来・丹羽海鶴ら多くの門下を排出した。 大正11年没。享年85。 |
草野心平 (くさの・しんぺい) 1903~1988 |
明治36年5月12日、福島県いわき市生れ。 中国に渡り詩作を始める。 作品には蛙を題材にしたものが多く、 蛙は彼の人生的理念の象徴であった。 庶民的人間感情・諧謔・諷刺の精神をすぐれた 詩的造型をとおしてうたい続けた。 宮沢賢治の研究・紹介にも尽力。 いわき市名誉市民、日本芸術院会員、 文化功労者、文化勲章受章。 昭和63年11月12日歿。享年86。 |
楠本憲吉 (くすもと・けんきち) 1922~1988 |
昭和期の俳人。 大正11年大阪生れ。慶應義塾大学卒業。 昭和20年、日野草城に師事。 「まるめり」俳句会に参加。 昭和63年歿、享年67。 |
国井応陽 (くにい・おうよう) ~1923 |
円山派画家、京都生れ 応文の子、号謙斎・子静など 大正12年没。享年56。 |
久米正雄 (くめ・まさお) 1891~1952 |
大正・昭和前期の小説家・劇作家・俳人 明治24年長野県生れ。俳名三汀。東大卒。 高校時代に河東碧梧桐門下の俳人 として知られる才能を示していたが、 次第に劇作に転じ、芥川龍之介らと創刊した第三次 「新思潮」に大正3年「牛乳屋の兄弟」を発表、 大正4年、夏目漱石の門に入る。 新技巧派の作家といわれたが、 通俗小説に活躍の場を求めた。 昭和27年歿。享年62。 |
公文菊僊 (くもん・きくせん) |
大正・昭和初期の日本画家。 高知生れ。名は時衛 師久保田米僊。 人物・龍馬像をよく描く |
久保田桃水 (くぼた・とうすい) 1841~1911 |
天保12年京都生れ。 横山清暉のち西山芳園に学ぶ。 明治20年皇居御造営の折、欄間に「芭蕉の図」を描き、 24年に芝離宮の洋間の天井に「四季草花の図」を揮毫、 35年伊太利万国美術展に「遊鯉の図」を出品。 日本美術協会会員。 明治44年4月18日歿。享年71。 |
黒田清綱 (くろだ・きよつな) 1830~1917 |
明治期の官僚・歌人。天保元年薩摩生れ。 藩士黒田清直の子。黒田清輝の養父。 幕末期、国事に奔走し、明治元年 山陰道鎮撫総督府参謀を命ぜられ、 薩摩藩参政、弾正少弼、東京府大参事、教部少輔、 元老院議官、子爵、勅撰貴院議員、枢密顧問官、 宮内省御用掛を歴任した。 薩摩藩の歌人八田知紀について和歌を学び、 滝園社を開いて子弟を教育した。 歌集に「滝園歌集」がある。 大正6年没。享年88。 |
黒田長成 (くろだ・ながしげ) |
慶応3年5月5日筑前秋月藩主黒田長知の長男。 号桜谷。家督を継承、明治17年侯爵となる。 イギリスのケンブリッジ大学に遊学。 貴族院議員副議長。枢密顧問官。宗秩寮審議官。 昭和14年8月14日没。享年73。 |
黒部拈華 (くろべ・ねんげ) |
安政3年4月15日、鳥取県鳥取市辻売町生れ。 字允周、名義暁、別号微笑子。 日根対山のち李紹儀に師事して南宗武林派を修める。 博覧会・共進会・展覧会ほか受賞多数。 帝国絵画協会会員。 |
下條桂谷 (げじょう・けいこく) 1842~1920 |
天保13年7月24日、山形県米沢生れ 本名正雄。米沢藩絵師目賀田雲川に師事 海軍主計大監、海軍主計学校長、 貴族院議員をつとめる 龍池会(日本美術協会)結成に参加のち委員長、 共進会審査員、日本画会の名誉会員となる 大正9年12月1日、東京で歿。享年78。 |
小泉勝爾 (こいずみ・かつじ) 1883~1945 |
明治16年8月30日、東京品川生れ。 青堂とも号す。東京美術学校日本画科卒業。 以後は結城素明の指導を受けつつ独修する。 大正元年川崎小虎、広島晃甫らと行樹社結成。 池畔倶楽部、矢沢弦月らと晨光会結成。 東京美術学校教授。 昭和20年7月28日歿。享年61。 |
小泉泰堂 (こいずみ・たいどう) |
明治元年前橋市生れ。 生糸貿易商奈良文五郎の三男。小泉家に養嗣。 養志軒桑古の門に入り俳句を学び 荘年に至り画家を目指し肖像画を自修研究し、 のち森霞嵓に師事して山水、人物を研究。 師没後、其子森廣陵に学び諸国を歴遊。 帝国絵画協会会員。 没年不詳。 |
郷倉千靱 (ごうくら・せんじん) 1892~1975 |
明治25年3月3日、富山県射水郡生れ。 本名與作。県立高岡孝芸学校漆工科卒業。 東京美術学校日本画科に進学、寺崎広業らの指導を受け、 また仏教美術や西域の美術に惹かれ、大正4年卒業。 アメリカに約1年半留学し、日本や東洋の美術に開眼する。 富山県・東本願寺城端別院襖絵を制作。 帝国美術学校教授。日本美術院監事。 富山県北日本文化賞受賞。日本芸術院会員。 昭和50年10月25日歿。享年83。 日本画家郷倉和子は長女。 |
高嵩谷 (こう・すうこく) 1730~1804 |
享保15年江戸生れ。 本姓高久、又は本国といい、 名は一雄、別号楽只斎、翠雲堂など。 英一蝶門人の佐脇嵩之に師事。 山水のほか武者絵は狩野探幽の画法を研究。 子に高嵩渓、嵩嶽がいる。 嵩嶽は早死。嵩渓が二世嵩渓と号した。 文化元年8月23日歿。享年75。 |
豪潮寛海 (ごうちょう・かんかい) 1749~1835 |
江戸後期の天台宗の僧。 密号は遍照金剛、字は快潮、のち豪潮と改める。 肥後国寿福寺住持。 尾張徳川斉朝侯の病を加持し、侯に請われて 尾州嵓窟寺(現在の岩屋寺)に留錫、伽藍を再建した。 のち長栄寺を再興し中興開山となる。 宗派に服さず広く諸人を化した。 天保6年没。享年87。 |
河野秋邨 (こうの・しゅうそん) 1890~1987 |
明治23年8月8日愛媛県生れ 本名循(じゅん) 田近竹邨に師事して南画を学ぶ 日本南画院を結成、会長・理事長 京都府文化賞・功労賞 昭和62年12月3日京都市で没。享年97 |
幸野楳嶺 (こうの・ばいれい) |
弘化元年3月3日京都生れ。本名安田、幼名角三郎、 名直豊、別号思順・鶯夢・長安堂・鶴鹿園・在五庵・春風楼・ 如意山樵・青竜館・六柳北圃・金仙茶寮・香雪深処・ 無声詩屋・三守蝸室・晴蝸禅房などいろいろ。 父の実家の姓の幸野を名のる。 中島来章に円山派、のち塩川文麟に山水画を学ぶ。 京都府画学校創立に参画。 京都私立絵画研究会を組織。 門下に竹内栖鳳・川合玉堂らがいる。 帝室技芸員。 明治28年2月2日没。享年52。 |
河野広中 (こうの・ひろなか) 1849~1923 |
明治・大正期の政治家。号は磐州。嘉永2年生。 出身は陸奥国三春藩(福島県)の郷士で, 家は呉服太物商,魚問屋,酒造業を営む豪商。 戊辰戦争の際,新政府軍を支援して板垣退助を知る。 若松県・三春藩の下級官吏を経て,1873年磐前県副戸長となり, このころミル著・中村正直訳《自由之理》を馬上で読んで発奮, 自由民権論者になったという。以後区長などを務めつつ, 75年政治結社石陽社を,ついで78年三師社を郷里に組織して, 東北地方の自由民権運動の指導者となった。 こうした活動を背景に愛国社・国会期成同盟の運動に参加し, 豪農層を代表する幹部となった。80年片岡健吉とともに 国会開設を求める請願書を政府に提出し,翌年自由党の結成に参加。 82年福島県会議長として県令三島通庸の暴政と対決し, 福島事件で弾圧をうけて軽禁獄7年の判決をうけた。 89年大赦により出獄し,翌年の第1回衆議院議員選挙以来連続当選14回。 伊藤博文に接近し,第2次伊藤内閣では政府と自由党との提携を成立させた。 97年憲政党分裂とともに自由党を脱党し,翌年憲政本党に加わる。 1903年衆議院議長。05年の日比谷焼打事件では兇徒聚衆罪で投獄された。 13年立憲同志会に入り,翌年第2次大隈重信内閣の農商務相に就任。 大正12年歿。享年75。 |
古賀精里 (こが・せいり) 1750~1817 |
江戸後期の儒学者。寛延3年佐賀生れ。 名撲、字淳風、通称弥助、別号殻堂。 京都に遊学して、横井小車に朱子学を、 西住成斎に闇斎学を学ぶ。 大阪に開塾して尾藤二洲・頼春水らと親交。 帰藩して藩主鍋島治茂に仕え、藩校弘道館が設立されると 教授となり、学規・学則を定めて、その基礎を確立。 闇斎朱子学の教説にもとづいて学問思想の 統制をはかり、徂徠学をしりぞけた。 寛政8年47歳のとき、抜擢されて幕府昌平校儒官となり、 柴野栗山・尾藤二洲とともに寛政三博士といわれた。 文化14年没。享年68。 |
古賀同庵 (こが・どうあん) |
江戸後期の儒学者。 佐賀県生れ。古賀精里の三男。 名煜、通称小太郎、字季曄、号蠖屈居・古心堂。 昌平黌教授。弘化4年没。60歳。 |
久我通久 (こが・みちつね) 1841~1925 |
天保12年11月、内大臣建通の長男として京都に生れる。 権大納言。戊辰の際大和国鎮撫総督・東北遊撃軍将。 明治後、陸軍少将、兵部少輔、太政官元老院の少書記官、 宮中顧問官、東京府知事、宮内省宗秩寮総裁。 大正10年1月10日歿。享年85。 |
小島一谿 (こじま・いっけい) 1899~1974 |
明治32年10月13日、岐阜市生れ、のち横浜に移住。 本名重三郎。川端絵画研究所洋画部に通うが、日本画に転ずる。 大正5年前田青邨に師事。 中島清之らと津登比会を結成。 第13回院展で初入選。 日本美術院賞受賞、院展で奨励賞受賞。 日本美術院院友。 昭和49年11月12日横浜で没。享年75。 |
小島政二郎 (こじま・まさじろう) |
大正・昭和期の随筆家・小説家。 明治27年、東京生れ。慶応大卒。 大正12年小説集「含羞」をはじめ、「新居」 「緑の騎士」他、多くの大衆小説で知られるが、 昭和17年「眼中の人」のような回想録風の 作品や、「わが古典鑑賞」など随筆風な作品が秀る。 |
小杉放庵 (こすぎ・ほうあん) 1881~1964 |
明治14年12月29日、栃木県日光市生れ。 明治31年、洋画家・五百城文哉の弟子となり「未醒」と号した。 明治44年、「水郷」を文展に出品し最高賞を受賞。 大正2年、ヨーロッパを遊学、翌年には日本美術院の再興に参加し 洋画部をリードしたが、大正9年、洋画部解消とともに院展を去る。 昭和2年、松尾芭蕉の『奥の細道』の足跡をたどって東北、 北陸をまわり、以後、次第に水墨画に親しむ。 昭和4年の中国旅行を契機に雅号を「放庵」と改める。 春陽会展にも「漁樵閑話」を出品するなど 水墨画に新たな画境を求めていった。 昭和10年、帝展芸術院会員となる。 昭和20年代には「良寛」「芭蕉」など歴史上の 人物の説話に題材をとった作品を描き始めた。 その卓越した詩文の才と心安らぐ東洋的な 作風は「近代の文人画」と称賛された。 晩年は新潟県妙高高原にひきこもり、日本画壇に 独自の画境を築く珠玉の名品を生み出す。 昭和39年4月16日、妙高高原町の自宅で83歳にて逝去。 |
五島耕畝 (ごとう・こうほ) 1882~1958 |
明治15年4月3日、茨城県久慈郡生れ。 本名貞雄。初め水戸の南画家松平雪江に師事、 上京して荒木寛畝に花鳥画を学ぶ。 文展・帝展・各種展覧会にて入選・受賞多数。 昭和33年6月11日歿。享年76。 |
後藤松蔭 (ごとう・しょういん) 1797~1864 |
儒学者。寛政9年美濃国安八郡生れ。 名機、字世張、通称春蔵、別号春草・兼山。 大垣の菱田殻斎、頼山陽に学ぶ。 山陽の西遊に随行。大阪にて開塾。 篠崎小竹の娘町子と結婚。 元治元年歿。享年68。 |
後藤象二郎 (ごとう・しょうじろう) 1838~1897 |
幕末の土佐藩士、政治家。伯爵。 農商務大臣、逓信大臣、大阪府知事。 天保9年3月19日、土佐生れ。雅号暢谷。 諱元曄(もとはる)、通称象二郎、保弥太、良輔。 板垣退助とは幼馴染。 儀理の叔父である吉田東洋の塾で学ぶ。 土佐勤王党を実質解散に追い込み、武市瑞山らを切腹させた。 坂本龍馬の船中八策に基づき、前藩主容堂公に 将軍慶喜公に大政奉還させるよう進言する。 明治6年、板垣・西郷らと共に征韓論論争に敗れて公職を離れる。 翌年板垣、江藤、副島らと愛国公党を組織。 14年板垣退助を中心に、自由党を設立。 明治30年8月4日没。享年59。 余談、日本人ではじめて”ルイヴィトン”の製品(靴)を愛用した。 |
後藤新平 (ごとう・しんぺい) 1857~1929 |
安政4年生れ。官僚、政治家。 水沢藩出身。須賀川医学校卒。 愛知県立病院長を経て内務省に入り、 衛生局長となったが、相馬事件で一時連座入獄。 日清戦争時陸軍の検疫事務を担当、その功で98年総督 児玉源太郎から台湾総督府民政局長に抜禽された。 島民の反抗を鎮圧して治安を維持し、砂糖、ショウノウなどの 産業を開発するなど初期の植民地経営に手腕を発揮、 1906年南満州鉄道会社(満鉄)初代総裁に就任、同年男爵。 08年から桂太郎内閣の逓相、鉄道院総裁、16年寺内正毅内閣の内相、 18年外相となり、藩閥政権末期の政界に重きをなす。 ロシア革命がおこるとシベリア出兵を唱え、 外相としてこれを実現させた。 20年東京市長。22年子爵。 同年山本権兵衛内閣の内相兼帝都復興院総裁に就任、 関東大震災後の東京の都市計画の立案にあたった。 その後東京放送局総裁、少年団(ボーイ・スカウト)総長などを務め、 また政治倫理化運動を推進。28年伯爵。実務官僚の手腕と独自の 政治哲学をもち,日本帝国主義確立期の代表的政治家と目される。 昭和4年歿。享年63。 |
近衛忠熙 (このえ・ただひろ) 1808~1898 |
幕末期の公卿。文化5年生れ。 島津斉彬の養女敬子(すみこ)を養女とし、 のち近衛家から将軍徳川家定に嫁がせた。 これは、斉彬や松平慶永が推した一橋慶喜を 将軍継嗣に定めるための布石であった(将軍継嗣問題)。 鷹司政通、鷹司輔熙、三条実万とともに慶喜擁立のために運動し、 |
近衛文麿 (このえ・ふみまろ) 1891~1945 |
昭和期の貴族政治家。五摂家筆頭の関白家の出。 近衛篤麿の長男、秀麿の兄。明治24年、東京生。 公爵。京都大学卒。1931(昭和6)年貴族院副議長、33年議長。 西園寺公望からは後継者として嘱望されたが、後に離れ、 「革新貴族」の代表となり、皇道派など 国家改造勢力の期待を集めるところとなる 第1次・第2次・第3次内閣を組織。 敗戦後、自らを「運命の児」と称し、悲劇的政治家を演出しながら 東久邇内閣の国務大臣、のち内大臣府御用掛として 憲法改正案の起草にあたったが、 昭和45年12月16日、GHQから戦犯に指名され、 東京・荻窪の自宅(「荻外荘(てきがいそう)」)で服毒自殺した。 |
木島桜谷 (このしま・おうこく) |
明治10年3月6日、京都市生れ。本名文治郎。 今尾景年に入門、かたわら儒者山本溪愚について漢籍などを学ぶ。 全国絵画共進会展、新古美術品展、文展などで入賞多数。 京都市立美術工芸学校嘱託教員、 市立絵画専門学校教授。 明治神宮聖徳絵画館の壁画《能楽御覧》を完成。 昭和13年11月3日、大阪牧方で電車接触事故のため急逝。享年61。 昭和15年、財団法人桜谷文庫が京都に開設された。 |
小早川清 (こばやかわ・きよし) 1899~1948 |
明治32年8月29日、福岡市博多生れ。 初め南画家上田鉄耕に学び、 上京して、鏑木清方に師事。美人画を修める。 昭和23年4月4日歿。享年48。 |
小林勇 (こばやし・いさむ) 1903~1981 |
岩波書店元会長。随筆家、画家。 明治36年、長野県伊那郡生れ。 岩波書店時代、岩波文庫、岩波新書の創刊に携わる。 幸田露伴を生涯敬愛する。 昭和56年11月20日歿。享年78。 |
小林太玄 (こばやし・たいげん) |
臨済宗大徳寺塔頭黄梅院住職 昭和13年中国奉天生れ。 36年花園大学卒業。 |
小林立堂 (こばやし・りつどう) |
元日本画会員、帝展・文展出品 師川崎小虎、花鳥人物得意 昭和49年没。享年71。 |
小堀鞆音 (こぼり・ともと) 1864~1931 |
元治元年2月19日下野国(栃木県)小中村生。 旧姓須藤、本名桂三郎、別号琢舟・雨舟・弦廼舎。 師川崎千虎。明治22年に鞆音と号す。 帝室技芸員。帝国美術院会員。 日本画家小堀安雄は子息。 昭和6年10月1日没。享年67。 |
小松華影 (こまつ・かえい) ?~? |
昭和期の女流画家 師竹内栖鳳、花鳥得意 昭和18年現在京都市鳥丸通に住す |
小松宮彰仁 (こまつのみや・あきひと) 1846~1903 |
伏見宮邦家親王第八王子 分家して東伏見宮 のち小松宮と改称 安政5年親王宣下をうけ嘉彰と名乗る。 慶応3年の王政復古で復飾を命じられる。 戊辰戦争で会津征討越後口総督として北越地方の 鎮圧に当たるとともに海陸軍務総督となる。 佐賀の乱、西南戦争の鎮圧に活躍。 陸軍大将、参謀総長、元帥 明治36年没、国葬を賜る。 |
小室翠雲 (こむろ・すいうん) 1874~1945 |
明治7年8月31日、群馬県館林生れ。本名貞次郎。 父は日本画家小室桂邨。田崎草雲に師事。 大東南宗院結成・委員長。帝室技芸員。 昭和20年3月30日歿。享年70。 |
近藤雪竹 (こんどう・せっちく) |
文久3年6月20日、江戸の山形藩水野候邸内で生れる 名富寿。漢学は井上葺斎に、書は日下部鳴鶴に師事。 漢魏六朝の碑法帖の研究をして一家をなした。 逓信省に長くつとめてた。門人も多数いた。 談書会、日本書道会、文墨協会、健筆会、法書会、 書道奨励協会、日本美術協会、日本書道作振会、 戊辰書道会などの幹事、または審査員として尽力。 昭和3年10月14日没。享年66。 |
権田直助 (ごんだ・なおすけ) |
幕末・明治前期の医者・国学者 武蔵国入間郡生れ 野間広春院に医術を学び、 平田篤胤に国学を学ぶ。 大学中博士、皇漢医道御用掛、 大教正、皇典講究所一等学位など歴任。 |
権田雷斧 (ごんだ・らいふ) 1846~1934 |
真言宗豊山派管長、長谷寺58世。 弘化3年11月、越後市野坪生れ。 7歳で出家、11歳で大和長谷寺に入り学ぶ、 曹洞宗に転宗したが真言宗に復籍。 豊山大学学長、大正大学学長。 |
近藤浩一路 (こんどう・こういちろ) 1885~1962 |
明治17年3月20日、山梨県南巨摩郡生れ。 本名浩(こう)。号土筆居・画蟲斎。俳号柿腸。 静岡県韮山(にらやま)中学校を卒業。 東京美術学校西洋画科を卒業。 同級に藤田嗣治、岡本一平らがいた。 大正4年読売新聞社へ入社して漫画や挿絵を描き、 菊池寛や芥川龍之介らと交友を結んだ。 第4回珊瑚会(平福百穂・小川芋銭など)への参加を 契機に水墨画を始め、同会には第7回展まで出品を続けた。 再興日本美術院同人。日本美術院脱会。 戦後は中川一政・小杉放庵らと墨心会を結成。日展会員。 昭和37年4月27日歿。享年78。 |
西園寺公望 (さいおんじ・きんもち) |
明治~昭和前期の政治家・公爵。 嘉永2年生れ。号陶庵、名望一郎。 徳大寺公純の次男、西園寺家の養子、 徳大寺実則の弟、住友友純の実兄。 王政復古にあたり参与、戊辰戦争では山陰道鎮撫総督, 日清戦争中から伊藤の第2次,第3次内閣の文相。 西園寺は1900年の伊藤の立憲政友会創立に参画したが, 08年の総選挙で政友会は絶対多数を占めたが,その直後に 大正末期からは最後の元老として後継首相推薦の重責を双肩に担い, |
西郷従徳 (さいごう・じゅうとく) 1878~1946 |
陸軍大佐、貴族院侯爵議員。 明治11年10月21日生れ。 西郷従道の次男。西郷隆盛の甥。 妻は岩倉具定の二女。長男は西郷従吾。 昭和21年2月6日歿。享年69。 |
斎藤弓弦 (さいとう・きゅうげん) 1881~1974 |
明治十四年三月五日宮城県伊具郡丸森町横町六十六番地生れ。 |
斎藤暁文 (さいとう・ぎょうぶん) |
安政6年上野国生れ。 暁斎派を修める。 大正年間群馬県に住す。 |
斎藤拙堂 (さいとう・せつどう) 1797~1865 |
江戸後期の津藩儒学者。寛政9年江戸生れ。 名正謙、字有終、通称徳蔵、別号鉄研学人、辞官後拙斎。 師古賀精里。 ペリー来航とその対策のために、「海防策」を著した。 慶応1年歿。享年69。 |
斎藤実 (さいとう・まこと) 1858~1936 |
明治~昭和期の海軍軍人(大将)・政治家。 安政5年生まれ。水沢(岩手県)藩士斎藤耕平の子。 海軍参謀本部に出仕、ついで海軍省勤務・侍従武官から 和泉・富士各副長、秋津洲・厳島各艦長。海軍次官に就任、 軍務局長・艦政本部長・教育本部長を兼任して西園寺内閣の 海相。ジュネーブ軍縮会議全権委員。枢密顧問官。 朝鮮総督。内大臣。昭和11年2・26事件で暗殺された。享年79。 |
佐伯良謙 (さえき・りょうけん) |
法相宗法隆寺管長 佐伯定胤長老の後を継ぐ |
酒井三良 (さかい・さんりょう) 1897~1969 |
明治30年2月16日福島県生れ。 本名三良(さぶろう)、三良子の落款を用いる。 坂内青嵐に師事して日本画を学ぶ。 梧水という号を用い習作展に入選。 大正10年小川芋銭を知り、終生の親交が始まる。 昭和13年私淑した芋銭を失い、以後奥村土牛らと旅行。 戦後は横山大観のすすめで茨城県五浦に移る。 日本美術院評議員・監事。 文部大臣賞受賞。 農村の生活や自然を詩情豊に描き続けた。 昭和44年6月8日歿。享年72。 |
酒井忠正 (さかい・ただまさ) 1893~1971 |
政治家。号斗山、幼名元彦。 明治26年6月10日東京本郷生。 旧備後福山藩主・伯爵阿部正垣の次男。 旧姫路藩主・伯爵酒井忠興の養嗣子。 帝国農会会長。貴族院副議長。 阿部内閣の農林大臣。 中央競馬会理事長、横綱審議会委員長。 金鶏学院創設。国粋主義的傾向の団体国維会結成。 相撲の殿様といわれ、相撲史研究の第一人者。 昭和46年2月16日没 |
酒井忠篤 (さかい・ただずみ) 1853~1915 |
出羽庄内藩14万石酒井家第11代当主 嘉永6年2月13日生れ。名繁之丞、号蓬堂・口幼鳴。 文久2年12月18日10歳で家督を継ぐ。 従四位下、左衛門尉、伯爵。 新微組御用掛、江戸市中取締、 功によって16万7000石に加増された。 幕末、庄内藩は一貫して佐幕行動を取り、 酒井氏は徳川氏の祖松平親氏の子広親から始まり、 |
酒井抱祝 (さかい・ほうしゅく) 1878~ |
明治11年、東京生れ。 道一の子。名は惟一。 5世雨華庵。 酒井抱一系の画人。 |
佐久間象山 (さくま・しょうざん) 1811~1864 |
幕末の思想家,〈東洋道徳・西洋芸術〉の観念の主唱者。 名は啓,通称は修理,象山は号。 文久8年信州松代藩下級武士の子として生る。 江川太郎左衛門(坦庵)に西洋砲術を学ぶ。 弟子に勝海舟,坂本竜馬,吉田松陰,加藤弘之らがいる。 54年(安政1)松陰の密航失敗に連座し,藩地蟄居を命じられる。 これを機に蘭書学習に精進する。 64年(元治1)幕府の命をうけて京都に上り, 海陸御備向手付御雇となるが, 元治元年7月に尊攘派によって暗殺された。享年54。 |
佐々木原善 (ささき・げんぜん) ?~? |
江戸後期、文化年中の画家。 秋田県横手市生れ。師沈南蘋 本名善蔵、別号楚宝・松峰山人・分水。 秋田蘭画のころに洋画をてがけた画家。 生没年不詳。 |
佐々木尚文 (ささき・しょうぶん) 1890~1978 |
明治23年8月8日、岐阜県生。本名武郎。 初め多治見で陶磁器絵付けの画工として働き、 41年上京して川合玉堂に師事。 大正2年日本画会会員。 第一部会の結成に参加。 文展・帝展などで入選多数。 戦後の20年から長野市に居住する。 昭和45年8月8日没。享年80。 |
佐瀬得所 (させ・とくしょ) 1822~1878 |
書家。文政5年、陸奥会津生れ。 名恒、字子象、通称八太夫、別号松城。 欧陽詢、趙子昴らの書をまなぶ。 明治11年1月2日歿。享年57。 |
佐竹永陵 (さたけ・えいりょう) |
明治5年5月25日、東京浅草生れ。 旧姓黒田。本名銀十郎。佐竹永湖に師事。 南北合派を学び、32年師の娘と結婚。 松林桂月らと日本南宋画会を結成。 谷文晁系の鑑定を手がける。 昭和12年1月8日、東京本郷で没。享年64。 嗣子健造は歯医者となったため、 永海、永湖、永陵と続いた画系は途絶えた。 |
佐藤一斎 (さとう・いっさい) 1772~1859 |
江戸後期の儒者。安永元年、美濃岩村藩の家老職の家に生まれる。 名坦,字大道,通称捨蔵。号一斎,愛日楼,老吾軒など。 藩主の三男でのちの林述斎とともに儒学を学ぶ。 また大坂の中井竹山にも学び,林家の門に入る。 述斎が林家を継ぐとこれに師弟の礼をとり, 1805年(文化2)には林家の塾長となって門生の教育に当たった。 述斎没後の41年(天保12),幕府の儒官となり昌平黌で教えた。 その学問は立場上表面は朱子学をとったが, 陽明学の影響も強く受け,〈陽朱陰王〉と評された。 気一元論,命数論,死生説などに特色がある。温厚篤実な性格で, その門下から安積艮斎,渡辺崋山,山田方谷,佐久間象山, 横井小楠,大橋訥庵,中村正直らの多彩な俊秀を出した。 安政6年没。享年88。 |
佐藤進 (さとう・すすむ) 1875~1909 |
順天堂三代堂主、男爵 号茶崖。佐藤尚中の養継継 明治2年公式旅券第一号を得てドイツ・ベルリン大学へ留学 東洋人として初の医学博士の学位を取得 我国の西洋近代外科の基礎を築く 順天堂医院第二代院長 西南の役で陸軍軍医監として活躍 日清、日露戦争において陸軍軍医総監 京城の大韓病院創設・初代院長 |
佐藤尚中 (さとう・ちょうちゅう) 1827~1882 |
幕末・明治初期の医師・外科医 東京の順天堂の創始者 文政10年4月8日、下総(千葉県)佐倉生れ。 本姓は山口、舜海(しゆんかい)と称し、笠翁(りゆうおう)と号した。 江戸では寺門静軒、安藤文沢に学び,さらに 1842年(天保13)佐藤泰然の門に入る。 翌年泰然が佐倉に移るに際し、それに従い, のち59年(安政6)その養子となった。 60年(万延1)長崎でポンペに学ぶ。 62年(文久2)佐倉に帰って済衆精舎を設ける。 西洋医学による医学教育と診療にあたった。ことに外科に優れていた。 明治2東京に出て大学東校の主宰者となり、大博士、 のちには大学大丞と医界最高の地位に就いた。 5年には下谷練塀町に順天堂を開く。75年これを湯島に移した。 これが現在の順天堂大学に続いている。 訳著書は多いが、ストロマイエルの外科学を日本に 紹介した《斯篤魯黙児(ストロメル)砲痍論》があり、 ほかに著書《外科医法》《済衆録》などがある。 明治15年7月23日歿、享年56。 |
佐藤朴堂 (さとう・ぼくどう) |
臨済宗大徳寺塔頭福聚院住職 |
里村玄陳 (さとむら・げんちん) 1591~1665 |
織豊時代~徳川初期の連歌師。 天正19年里村玄仍の長男に生る。 慶長14年福島正則張行の和漢聯句の作者に 加わったのを初めとして、元和寛永頃の作が多く、 出藍の誉があり法眼に叙せられた。 連歌の外に画をよくし、一翁と号し堺に住んでいた。 寛文5年1月5日没。享年75。 |
沢木興道 (さわき・こうどう) 1880~1965 |
近代曹洞宗の高名な僧。 三重県津市生れ。 「宿無し興道」の異名を持ち、生涯独身で、 これといった寺や家を持たず、各地で禅の指導に尽力される。 禅僧であったが、若き日に法隆寺の勧学院にて法相・唯識の勉強をする。 正法眼蔵を始めとして宗乗を広く学び、駒澤大学の教授となった。 正法眼蔵や証道歌、信心銘の提唱など著述が多い。 昭和40年12月21日没。享年86。 |
三條実美 (さんじょう・さねとみ) 1837~1891 |
明治前期の政治家。七卿落ちの1人。 天保8年京都生れ。実万の4男。 明治元年、王政復古とともに官位復旧、 上洛して議定となり、ついで 副総裁兼外国事務総督・関東監察使を歴任。 右大臣に就任して永世禄5千石を受領、 廃藩置県直後に太政大臣兼神祗伯・宣教長官、 賞勲局総裁を兼任した。 華族令制定とともに公爵、 内閣制度創設とともに太政大臣を辞し宮中に入り、 内大臣として常時輔弼に任にあたった。 明治政府の中心として国家建設に尽力。 明治24年没。享年55。国葬。 |
塩谷青山 (しおのや・せいざん) 1855~1925 |
明治・大正期の漢学者 安政2年1月江戸青山水野邸に生る。 簣山の子。名時敏、別号修卿。 芳野金陵・中村敬宇らに師事。 大正14年2月2日没。享年71。 |
塩崎逸陵 (しおざき・いつりょう) 1884~? |
明治17年、富山県生れ。 名一郎、別号水仙洞。 師寺崎広業。没年不詳。 |
四竃孝輔 (しかま・こうすけ) 1876~1937 |
明治・大正期の海軍軍人(中将) 明治9年宮城県生。海兵25期、海大卒。 敷島・肥前・霧島各艦副長、 第二戦隊参謀、津軽艦長として日露戦争・ 第一次大戦に従軍、のち侍従・大湊要港司令官。 昭和9年からは伏見宮付別当。 昭和12年歿。享年62。 |
品川弥二郎 (しながわ・やじろう) 1843~1900 |
明治期の政治家。子爵。 天保14年長門(山口県)生れ。長州藩士分の弥市右衛門の子 吉田松陰の松下村塾に学び、禁門の変などで尊攘派の志士として活躍。 鳥羽・伏見の戦で官軍が歌った〈トコトンヤレ節〉の作詞者としても有名。 維新後は明治政府に仕え、ドイツに留学し、そのままドイツ公使館に勤めた。 帰国して内務省、農商務省に勤め、2年間ドイツ公使を務めた。 第1次松方正義内閣の内務大臣、第2回総選挙の 指揮をとって〈民党〉議員の選出を阻もうとした。 選挙後内務大臣を辞し国民協会を組織し、副会頭、会頭。 内相在任中に起草した信用組合法案は、 のちの産業組合法の先駆として知られている。 明治33年歿。享年68。 |
芝景川 (しば・けいせん) |
明治・大正期の画家。明治7年5月17日東京神田生。 字子徳、別号南星・柳契・蓮痴。師今尾景年。 明治41年文部省美術展覧会に残花留花の図を出品。 その他博覧会・共進会などに出品して銀牌2回、 褒章10数回、宮内省御用品数回、 帝国絵画協会、日本画会会員、明治絵画会幹事、 正派同志会評議員、没年不詳。 |
柴田是真 (しばた・ぜしん) 1807~1891 |
漆工家・絵師・日本画家。 文化4年2月7日、江戸両国生れ。 幼名亀太郎、名順蔵、号是真・令哉など。 浮世絵師勝川春章に師事。 蒔絵を古満寛哉、絵を谷文晁・鈴木南嶺に学ぶ。 明治24年7月13日歿。享年85。 |
柴野栗山 (しばの・りつざん) 1736~1807 |
江戸時代後期の儒学者 元文元年、讃岐国三木郡生まれ。 八栗山の近くで生れたので栗山と号した。 別号古愚軒。 寛政の三博士といわれた。 文化4年12月1日没。享年72。 |
柴山全慶 (しばやま・ぜんけい) 1894~1974 |
昭和期の仏教学者。臨済宗南禅寺332世。 明治27年11月30日、愛知県生。 道号文明、号寒松軒。花園学院卒。 南禅寺派専門道場で河野霧海の法を嗣いだ。 禅門高等学院・花園大学・大谷大学の教授。 アメリカのクレアモント大学やコルゲート大学で禅学を講義。 南禅寺派管長・南禅寺住職となる。 昭和49年8月29日歿。享年81。 |
渋沢栄一 (しぶさわ・えいいち) 1840~1931 |
天保11年2月13日、武蔵国生れ。 幼名市三郎。後に栄一郎、 篤太夫、篤太郎などを名乗る。 実業家。日本資本主義の父。 渋沢成一郎の従弟。正二位勲一等子爵。 競馬評論家の大川慶次郎は曾孫に当る。 第一国立銀行のほか多種多様の企業の 設立に関わり、その数は500以上とされている。 晩年は川越市で過ごした。 昭和6年11月11日没。享年92。 |
島田柏樹 (しまだ・はくじゅ) 1892~1958 |
明治25年、東京生れ。 師平福百穂。 大正9年第二回帝展に初入選、 以後帝展に八回入選、 11年文展鑑査展、新文展で二回入選、 戦後は日展で二回入選・依属出品。 昭和33年歿。享年66。 |
島田墨仙 (しまだ・ぼくせん) 1867~1943 |
慶応3年10月9日、越前国福井生れ。 本名豊作、のち豊。 父は福井藩士で画家の島田雪谷、兄は島田雪湖。 父に四條派を学び、父没後は独学。 のち上京して橋本雅邦に師事。 日本画初の第2回帝国芸術院賞を受賞。 歴史人物画を得意としていた。 昭和18年7月9日歿。享年75。 |
清水諸葛監 (しみず・しょかつかん) 1717~1790 |
享保2年江戸生れ。 名監、字子文、通称文三郎・又四郎・三五。 別号静斎・古画堂など。 熊代熊斐又は宗紫山に学ぶ。 南蘋風を学び、山水花鳥墨竹が得意。 清水諸葛晋の筆意を慕って一家をなし、諸葛鑑と号した。 寛政2年歿。享年74。 |
清水比庵 (しみず・ひあん) 1883~1975 |
歌人・書家・画家・政治家 明治16年2月8日高梁市生まれ。本名秀。 明治41年京都帝国大学を卒業し司法官。 安田銀行、古河銀行から古河電気工業 に転じ昭和5年栃木県日光町長に就任。 昭和14年部下の不祥事により辞任。 その後歌と書、画の三芸に没頭し 「野水会」「有水会」を結成し各所で展覧会を開く。 高梁中学校時代に与謝野晶子に傾倒し歌を始める。 以来在学在職中も作り続けるが発表は昭和3年の歌誌「満天星」。 前後して「夕暮」「青虹」を発刊。 昭和41年宮中新年会歌会始の召人に選ばれる。 著書に「野水帖」「紅もて」がある。 笠岡へは大正12年の関東大震災のため訪れ 妹章子の嫁ぎ先である岡本家へ仮寓。 昭和19年から3年間章子の勧めで最愛の妻鶴代を失った 失望を癒す事と戦禍を逃れることを兼ね疎開。 昭和22年から長女明子夫婦と東京で 同居するも夏の4カ月は笠岡で暮らし、 笠岡高等女学校で歌の指導もする。 高梁市、日光市名誉市民。 昭和50年10月24日東京で没。享年92歳。 |
下村為山 (しもむら・いざん) 1865~1949 |
洋画家で俳人、俳画家として足跡を残した。 慶応元年(1865)、現在の松山市三番町6丁目付近に生まれる。 8歳で上京、26歳(明治23年)内国勧業博覧会に洋画を出品。 従兄弟の内藤鳴雪を介して子規を知り、俳句に熱中することとなる。 洋画を通じて子規の写生論に影響を与えたが、 子規没後は東京を離れ、地方回りの肖像画家となる。 これと並行して俳画の研究に没頭、 俳句的イメージに溢れた水墨画を創始する。 大正4年、棕櫚、柿、鶏頭、雀など新鮮な 画題を引っさげて堂々と東京に復帰。 俳画家と呼ばれることを極端に嫌った人だが、 「俳画もまた日本芸術の光である」と 俳画への転進の真意を語っている。 日本俳句最初の句集「新俳句」に俳画を描き 「ホトトギス」にも挿絵を掲載した。 俳号は冬邨、百歩、牛伴とも称した。 昭和24年没。享年85。 |
釈宗演 (しゃく・そうえん) |
臨済宗円覚寺207世 安政6年12月18日、若狭高浜(福井)生れ 諱祖光、宗演、幼名常太郎、道名洪岳 京都妙心寺の越渓守謙のもので出家、 鎌倉円覚寺の今北洪川の法を嗣いだ。 慶応義塾卒業後、福沢諭吉の勧めで スリランカに留学、のち円覚寺・建長寺管長。 臨済宗大学学長に就任。 門下に鈴木大拙・徳富蘇峰ほか。 大正8年11月1日没。享年61。 |
釈宗活 (しゃく・そうかつ) 1871~1954 |
臨済宗円覚寺住職 釈宗演に師事 |
白井烟嵓 (しらい・えんがん) 1894~1976 |
明治27年2月8日、愛知県豊橋生れ。 名瀧司、初め静古、烟巌と号す。 松林桂月に師事。 私淑する渡辺華山の神社改築の功績で 田原町町政功労者として表彰。 豊橋文化賞受賞。 桂月絵画の鑑定の第一人者。 昭和51年1月19日歿。享年81。 |
白鳥省吾 (しらとり・せいご) 1890~1973 |
明治23年2月27日、宮城県生れ。 早稲田大学文学部卒業。 大正3年処女詩集「世界の一人」により詩壇に登場。 口語自由詩の斬新さで注目をあびた。 ホイットマンに心酔して民衆詩派の先駆的役割をになう。 自由・平等・友愛を揚げた民衆派の リーダーとして果たした功績は大きい。 詩集「大地の愛」「楽園の途上」「共生の旗」「野茨の道」 評論集「民主的文芸の先駆」「現代詩の研究」など 随筆集「土の芸術を語る」など刊行。 昭和48年8月27日没。享年84。 |
末次信正 (すえつぐ・のぶまさ) |
昭和期の海軍軍人(大将) 明治13年、山口県生れ 昭和3年軍令部次長に就任 ロンドン軍縮条約に強硬に反対 5年以降、舞鶴要港部司令官、 第2艦隊長官、軍事参議官など歴任 12年、内相に就任 退陣後も右翼思想の持主として 大東亜建設連盟会長、大政翼賛会 中央協力会議議長となり活躍 昭和19年没。享年65。 |
菅沢幸司 (すがさわ・こうじ) 1910~1976 |
明治43年千葉県佐原生れ。 東京美術学校日本画科卒業。 師結城素明。 帝展・文展に入選多数。 晩年は水郷風景などの写生に専念。 昭和51年11月15日歿。享年66。 |
菅楯彦 (すが・たてひこ) 1878~1963 |
明治11年3月4日、鳥取県生れ。 本名藤太郎。初め盛虎、のち静湖と号す。 父は日本画家菅盛南。 幼い頃大阪に移住、22年父の病気のため 高等小学校を中途退学して、画業で一家を支える。 以後師につくことなく独学によって絵画を研究、 有識故実など素養を深め、33年楯彦と雅号を改めた。 昭和20年から22年まで倉吉に疎開。 大阪府文芸賞、大阪市民文化賞受賞 日本芸術院賞恩賜賞受賞(日本画家初) 雅楽に造詣が深く、伝統雅楽の保存に尽くした。 大阪市名誉市民、倉吉市名誉市民章 昭和38年9月4日歿。享年85。 |
菅原曇華 (すがわら・どんげ) 1866~1956 |
第236世建長寺派管長 慶応2年4月2日新潟県下足軽町の 菅原権九郎・トメの次男として生れる。 諱時保、通称寅次郎、道号寿仙など。 8歳の時上州利根郡吉祥寺に入り、漢籍を学んだ。 19歳で得度、仏門に入り、21歳で建長寺に入門し、 翌年宗学林に入学した。 26歳で京都天竜寺に学び、2年後、建長寺に戻った。 建長寺では曇華軒貫道老師の侍者となり、 宗学林の教師も勤めた。 明治33年に京都建仁寺に入り、 黙雷老師のもとで修行して、 37年印可を受けた。 明治38年5月28日、第236世建長寺派管長に就任。 昭和31年8月29日没。享年90。 |
杉浦重剛 (すぎうら・じゅうごう) 1855~1924 |
国粋主義的教育者。 安政2年3月3日、滋賀県生れ。 名謙次郎、号梅窓・天台道士。 文部省と東京大学に勤める。 のち辞職して読売・朝日新聞の社説を担当。 雑誌「日本人」、新聞「日本」発刊に尽力。 明治22年日本倶楽部を結成、 大隈重信の条約改正案に反対。 衆院議員に当選したが翌年辞職。 東京文学院設立、国学院学監、 東亜同文書院院長、日本中学校長など歴任。 大正13年東宮御学問所御用掛に任ぜられた。 大正13年2月13日没。享年70。 |
杉溪六橋 (すぎたに・ろっきょう) |
慶応元年5月13日、京都生れ。 名は言長、別号深柳堂など。 伯爵山科言縄の三男。 3歳の時興福寺に入って出家したが、 4歳の時に還俗し5歳の時から杉渓と名のる。 20歳の時男爵を授けられ、 26歳のときから貴族院議員となり30余年就任。 漢学を北村竜象、草場船山につき、 詩を林雙橋、神田香巌に学び、 書は遠山盧山、小林卓斎に、 画を重春塘に習った。 昭和19年10月30日没。享年80。 |
杉聴雨 (すぎ・ちょうう) |
天保6年正月、山口藩士植木五郎右衛門の二男に生れ。 名重華、通称孫七郎、別号古鐘庵・鯨肝・松城・呑鵬など。 杉彦之進の養子。吉田松陰に学ぶ。 山口藩権大参事、宮内大丞、秋田県令、皇后宮太夫兼内蔵頭、 東宮職御用掛、図書頭、枢密顧問官、など歴任。子爵。 唐宋の書風に六朝を極めて立派な書だった。 大正9年5月3日没。享年86。 |
鈴木其一 (すずき・きいち) |
寛政8年生れ。名元長、字子淵、通称為三郎、 別号菁々・必庵・庭拍手・祝琳斎など。 酒井抱一に画を学び、抱一の家臣で同門の 鈴木蠣潭の養子となって鈴木姓を名乗る。 人物・草花・鳥獣が得意。 装飾的で象徴的な画風で一家をなし、 俳諧や芸能にも通じた。 安政5年9月10日没。享年63。 |
鈴木鵞湖 (すずき・がこ) 1816~1870 |
文化13年下総(千葉豊富村)生れ。 名雄、字雄飛、幼名筆三、通称漸造、 別号一鶯、我古山人、水雲山房、東台山麓など。 江戸に出て谷文晁に学び、文晁歿後は 相沢石湖につき山水花鳥を得意とした。 鵞湖の二男が石井家をつぎ、石井鼎湖といい、 明治3年4月22日歿。享年55。 |
鈴木華邨 (すずき・かそん) 1860~1919 |
安政7年2月17日江戸下谷生れ。 本名惣太郎(茂雄とも)。華村とも記し、忍青とも号す。 中島亨斎に師事。菊池容斎の画風を学ぶ。 明治9年フィラデルフィア万国博覧会の事務局 画図課雇いとなり、以後図案の仕事に携わる。 21年石川県工業学校教諭になる。 帰京後、31年日本画会の結成に参加。 美術研精会、巽画会などの会員となる。 40年文展開設では新派の国画玉成会に参加。 花鳥山水画で一家を成し、図案や 挿絵でもその画才を発揮した。 各種博覧会、文展などで受賞多数。 大正8年1月3日東京雑司ヶ谷で没。享年58。 |
鈴木啓處 (すずき・けいしょ) 1823~? |
明治6年、栃木県宇都宮市生れ。 名源三郎、別号鐡叟。 師戸田香園・荒木寛畝。 没年不詳 |
鈴木翠軒 (すずき・すいけん) 1889~1974 |
明治22年1月5日愛知県渥美郡生れ。 名春視、別号送夢、流萍など。 師丹羽海鶴、比田井天来。 日展常務理事。日本書作院会長。 回瀾会名誉会長。日本芸術院会員。 昭和51年歿。享年87。 |
鈴木大麻 (すずき・たいま) 1901~1975 |
明治34年、三重県桑名市生れ。本名友次郎。 初め小茂田青樹、のち前田青邨に師事。 昭和2年再興第14回院展に《夏日》で初入選、 4年日本美術院院友となり、以後院展に入選を重ね、 15年紀元二千六百年奉祝美術展にて入選。 昭和50年、熱海市で歿。享年74。 |
関精拙 (せき・せいせつ) 1877~1945 |
臨済宗天竜寺派の僧。 天竜寺240世。 明治10年、兵庫県生れ。 諱元浄、号青峨・峨翁。 高木元碩に師事。 漢詩・書画をよくした。 昭和20年10月2日没。享年69。 |
関雪江 (せき・せっこう) 1827~1877 |
文政10年生れ。名思敬、通称忠蔵。 江戸中期の能書家で関思恭の五代の子孫に当り、 代々土浦候につかえ詩も巧で、書論にも詳しかった。 書は筆勢が女性の様に優しかったようです。 明治10年11月24日歿。享年51。 |
関牧翁 (せき・ぼくおう) 1903~1991 |
臨済宗の僧、天龍寺241世 明治36年4月15日、群馬県下仁田生れ 字牧翁、号叱咤室、諱巍宗 慶応義塾医学部中退 武者小路実篤の提唱した「新しき村」の思想に |
関直彦 (せき・なおひこ) 1857~1934 |
明治~昭和初期の政党政治家 安政4年和歌山県生れ。法科大(東大)卒。 鳩山和夫の紹介で福地源一郎の日報社に入社。 明治21~25年社長を務める。 第1回総選挙より衆院議員に10回当選、 はじめ中立を標榜していたが、憲政本党に投じて 以後は立憲国民党・革新倶楽部・革新党に所属、 非政友会系の自由主義議員として活躍。 大正1~4年衆院副議長。 昭和2~9年勅撰貴院議員。 7年安達謙蔵らと国民同盟を結成。 明治25年より弁護士となり、 大正12年東京弁護士会会長となった。 昭和9年没。享年78。 |
関田華亭 (せきた・かてい) 1866~1919 |
慶応2年4月21日、常陸国(茨城県)水戸生れ。 本名浅次郎。晩年の野口幽谷に師事。 日本美術協会展などで受賞を重ね、 日本画会評議員をつとめ、文展開設では 旧派の正派同志会の結成に評議員として参加。 渡辺華山、椿椿山の遺風を慕い、花鳥画を得意とする。 大正8年12月18日歿。享年53。 |
宗星石 (そう・せいせき) 1867~1923 |
慶応3年1月27日、 対馬国〈長崎県)巌原生れ。 本名重望。伯爵。貴族院議員。 師大倉雨村。 日本美術協会会員。 東京彫工会名誉会員。 大正12年歿。享年55。 |
宗鶴聴松 (そうかく・ちょうしょう) |
臨済宗妙心寺派 京都、圓福寺(達磨寺)。静岡、龍澤寺住職 |
副島種臣 (そえじま・たねおみ) 1828~1905 |
明治期の政治家。佐賀藩士。 幼名竜種,通称二郎。号は蒼海また一々学人。 国学者枝吉種彰(南濠)の子として 文政11年生まれ、副島家の養子となった。 兄神陽も学者となり,弘道館で大隈重信, 大木喬任,江藤新平,島義勇らを教えた。 尊王攘夷運動に奔走したが,のち藩が長崎に設けた致遠館 監督となりみずからも G. H. F. フルベッキに英学を学んだ。 維新政府の参与,制度寮判事となり,政体書の起草に参画, 1869年(明治2)参議となり,71年11月岩倉具視の 欧米差遣にともない外務縁に就任し,マリア・ ルース号事件,琉球帰属問題にあたった。 73年全権大使として清国へ行き,帰国後征韓論を唱えた。 一時参議となったがすぐ辞任し74年民斤議院設立建白に署名。 しかし民権運動には参加せず宮中に入り,一等侍講,宮中顧問官などを歴任, 88年枢密顧問官となり,91年には副議長を務めた。 92年松方正義内閣の内相を一時務めたこともある。 能書家としても著名。 明治38年歿。享年78。 |
大休宗悦 (だいきゅう・そうえつ) 1860~1954 |
安政7年東京八王子生れ。号韜光窟。 八王子市の西笑院樋口大安について得度。 鎌倉円覚寺僧堂今北洪川、釈宗演に参じ、宗演の印可を受ける。 西笑院に帰山するが、明治31年、円覚寺派宝林僧堂の拝請を受け晋山。 また宗演に代わって円覚僧堂師家代参を務める。 明治34年、埼玉野火止の平林寺に晋山。僧堂を開単。 昭和13年、妙心寺派管長に選ばれ、さらに第2代臨済宗管長に推挙される。 昭和17年、平林寺に帰り、席を白水敬山に譲る。 昭和29年歿。享年95。 |
大綱宗彦 (だいこう・そうげん) 1772~1860 |
臨済宗大徳寺第435世住持。 安政7年、京都生れ。塔頭黄梅院に住んだ。 表千家10世吸江斎、裏千家11世玄々斎と親しく、 武者小路千家7世以心斎の参禅の師でもあった。 |
田岡春径 (たおか・しゅんけい) 1887~1969 |
明治20年12月1日、徳島県三好郡生れ。 本名時三郎。大正6年小室翠雲に師事。 大東南画院同人、日本美術協会委員。 日本南画院理事をつとめる。 千葉稲毛に移住してからは郷土の 美術振興に尽力、春葉会を主宰。 昭和44年10月17日歿。享年82。 |
高木溪畝 (たかぎ・けいほ) 1877~? |
明治10年11月14日、静岡県志太郡小川村生れ。 本姓小山。名謙。別号黙庵。 師荒木寛畝。南北合派を修め、花鳥得意。 帝国絵画協会・日本画会の会員。 没年不明。 |
高木保之助 (たかぎ・やすのすけ) |
明治24年、東京湯島生れ。 川端玉章に入門、画学校に入学するが、のち 東京美術学校日本画科に転じ、松岡映丘に師事。 帝展・文展などで入選・特選多数。 新興大和絵会、木之華社、第一部会、 国画院、日本画院の結成に参加。 宗達や光琳に私淑、大和絵に琳派を加味した 装飾性の強い自然描写の作品を展開する。 昭和16年8月16日没。享年50。 |
高久靄崖 (たかく・あいがい) |
江戸後期の文人画家。寛政8年下野生れ。 名は徴,字は子遠,通称秋輔。靄苑のほか石埴,如樵,疎林外史と号す。 初め絵を郷里の画家と思われる雪耕に学んだといわれるが, その後,池大雅や清の来舶画人伊孚九(いふきゆう)に私淑し, 文人画を自ら学んだ。江戸へ出て谷文晁に師事したようであるが, 京都へ遊学したり,江戸では渡辺崋山や立原杏所ら 関東文人画家との交友の中で,日本における文人画の伝統を守った。 靄苑没後は白河藩主阿部侯の家老であった川勝隆任の 三男隆古(りゆうこ)(1810‐58)が一時その家を継いで 高久氏を名乗ったが,のちに復古大和絵派に転じた。 また門下に,山水花鳥などを得意とし関西文人画壇で 活躍した谷口靄山(あいざん)(1816‐99)らがいる。 天保4年歿。享年48 |
高崎正風 (たかさき・まさかぜ) 1836~1912 |
明治期の歌人。天保7年鹿児島生れ 幕末多事に際して国事に力を尽くした 鳥羽・伏見の戦において征討将軍の参謀 76年宮中の御歌掛、88年御歌所設置にともなって初代所長 歌は八田知紀に学ぶ 明治天皇の作歌10万首、昭憲皇太后の作歌4万首を点した 歌風は桂園調の旧風を脱することができなかった。 大正元年歿。享年77。 |
高階瓏仙 (たかしな・ろうせん) |
大正・昭和期の僧侶。明治9年、福岡県生れ。 曹洞宗大学林(駒沢大)卒業。 明治23年出家して高階黙仙の門に入る。 42年曹洞宗大学教授となる。 大正4年福岡市安国寺。昭和6年静岡県可睡斎の 住職となり、宗会の特選議員、公選議員、宗政家として活躍。 昭和43年歿。享年92。 |
高島秋帆 (たかしま・しゅうはん) 1798~1866 |
幕末期の兵学者・砲術家。 寛政10年、長崎生れ。名茂敦。通称四郎太夫。 父から荻野流砲術の皆伝をうけた。 のち出島のオランダ人から西洋砲術を学んで、これを高島流砲術と名づけた。 徳丸ケ原で操錬を行い、のち江川太郎左衛門に砲術を伝授。 幕府の守旧派勢力の忌むところとなり投獄された。 ペリー艦隊の来航により赦免さらた。 講武所砲術師範。 慶応2年歿。享年69。 |
高島北海 (たかしま・ほっかい) 1850~1931 |
嘉永3年9月26日、長門国(山口県)阿武群生れ。 幼名和三郎、のち得三。父は萩藩藩医。 6、7歳のころから絵を書き始め、明倫館に学ぶ。 明治5年から4年間、地質学・植物学などを学ぶ。 以後、内務省地理局、農商務省山林局の技術官使として 全国の地質調査、山林調査に従事。 調査や公務の合間をぬって独学自修により山岳を写生する。 35歳のとき、画家として中央画壇での活動を始める。 日本美術協会展や東京勧業博覧会、文展などで受賞多数。 長門橋など名勝地の開発、紹介につとめる。 昭和6年1月10日、東京品川区で歿。享年80。 |
高瀬五畝 (たかせ・ごほ) |
明治11年、石川県金沢生れ。本名隆麿。 荒木寛畝に師事。 大正9年第2回帝展に初入選、 以後第15回まで8回入選する。 昭和36年没。享年82。 |
高田早苗 (たかだ・さなえ) 1860~1938 |
明治・大正期の教育者・政治家 安政7年3月14日、江戸生れ。号半峰。 兄事する小野梓に従って大隈重信の改進党結成、 東京専門学校(早稲田大)創設に参画。 衆院議員当選6回。外務省通商局長。 文部省高等学務局長・専門学務局長。 東京専門学校学監。 大学昇格後も留任して同大学発展に尽力。 早稲田大学長。同総長。 貴院議員に勅撰、第2次大隈内閣文相。 近代的私学経営の途を開拓。 昭和13年12月3日没。享年79。 |
高田竹山 (たかだ・ちくざん) 1861~1946 |
明治~昭和前期の書家・説文学研究家。 文久元年5月9日東京牛込生。 名忠周・士信、別号未央学人など。 8歳の時から高斎単山の塾で書を学び、 18歳で両国薬研堀に書塾を開き、さらに 漢魏晋唐の古書方帖によって研究した。 また、上村蘆洲について漢詩、漢学、文字学を 研究し、説文学、古文字、書写法を独習した。 明治18年、25歳の時、内閣印刷局につとめ、 紙幣及び公債証書の文字を揮毫する。 大正8年学界で最高の帝国学士院賞受賞。 昭和21年10月24日没。享年86。 |
鷹野樗亭 (たかの・ちょてい) 1892~? |
明治25年、長野県塩川生れ。 小坂芝田・笹沢櫟堂に師事。 弟弟子の正村竹亭、箱山精一らと共に 長野美術会展の発展に尽くす。 没年不詳。 |
高橋雲亭 (たかはし・うんてい) 1872~? |
明治5年10月、群馬県勢多郡駒形町生れ。 滝和亭に師事して南宗派を研究。 帝国絵画協会、日本南宗画会会員。 大正期、東京下谷区上野桜木町に住す。 没年不明。 |
高橋是清 (たかはし・これきよ) 1854~1936 |
立憲政友会第4代総裁 第20代内閣総理大臣 安政元年7月27日、江戸生れ。 幼名和喜次。開成学園卒。 大勲位子爵。貴族院議員。 昭和11年2月26日没。享年83。 |
高橋泥舟 (たかはし・でいしゅう) 1835~1903 |
天保6年江戸小石川生。 幕臣・幕末三舟の一人。 名政晃、幼名謙三郎、字寛猛、通称精一。 兄は山岡静山、妹・英子は山岡鉄舟の妻。 高橋家を継ぐ、槍術の名人、 講武所教授・師範。伊勢守。 1863(文久3) 年 浪士組結成に際し浪士取扱 1866(慶応2)年 遊撃隊頭取 徳川慶喜の警護に当たる 戊辰戦争ではでは徳川氏の赦免と救済のため奔走 明治維新後は東京で隠棲 明治36年2月13日没。69。 |
高橋萬年 (たかはし・まんねん) 1897~1956 |
明治30年12月21日、秋田市生れ。本名計治。 東京にでて寺崎広業の書生として 入門するが一年半で健康を害して帰郷。 再び上京、日本美術院院友となる。 昭和11年秋田に定住。 昭和31年8月歿。享年58。 |
高橋隆天 (たかはし・りゅうてん) |
新義真言宗智山派。 川崎大師平間寺現住職 |
高畠式部 (たかばたけ・しきぶ) |
女流歌人。天明四年生れ、京都の人。 名は登美子。歌人高畠清音の室。 初め木屋町二条南後に二条川東に住した。 歌を香川景樹に学び歌集麦舎集の著がある。 尚楽曲に巧みてあり且つ彫刻を善くした。 明治維新以後志貴婦と名を改めている。 明治14年5月28日没。享年98。 |
高浜虚子 (たかはま・きょし) 1874~1959 |
明治7年2月22日、愛媛県松山生れ。 本名清。「客観写生」「花鳥諷詠」提唱。 伊予尋常中学に入学し1歳年上の河東碧梧桐と同級になり、 彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わる。 明治24年子規より虚子の号を受ける。 明治30年柳原極堂が松山で創刊した俳誌「ほととぎす」に参加。 翌年、引継ぎ東京に移転し俳句文芸詩として再出発する。 子規の没年、俳句の創作を辞め、小説の創作に没頭する。 明治43年鎌倉市に移住した。 大正2年碧梧桐に対抗する為俳壇に復帰。 昭和29年文化勲章受章。 昭和34年4月8日歿。享年85。 |
高森砕巌 (たかもり・さいがん) 1847~1917 |
弘化4年5月22日(10月1日とも)、上総国(千葉県)長南町生まれ。 幼名宗之助、名は敏、字は子訥、通称有造、号は翠嵓・菊梁・朶香など。 江戸に出、服部蘭台に儒学を学び、17歳の時渡辺華山の高弟山本琴谷に師事。 船会社や司法省に勤務するが、画業に専念、公の展覧会には出品せず画作を続ける。 与謝蕪村に私淑、山水・花鳥を得意とし格調高い作品を制作する。 南画会の結成に参加。日本美術協会会員。大正6年10月25日歿。享年70。 |
滝和亭 (たき・かてい) 1830~1901 |
文政13年1月3日、江戸千駄ヶ谷生れ。 本姓田中。幼名長吉、のち邦之助。 名謙。字子直。別号水山、翠山、蘭田。 7、8歳のころ佐藤翠崖に学んだのを手始めに、 荒木寛快、片桐桐陰、大岡雲峰に師事。 嘉永3年長崎に半年ほど滞在、日高鉄翁に学び、 木下逸雲らと親交、没骨描法を修める。 明治26年、帝室技芸員を拝命。 明治期の代表的な花鳥画家として活躍、 画室を畊香館と名付ける。 明治34年9月28日没。享年71。 |
武島羽衣 (たけしま・はごろも) |
大正・昭和期の歌人・詩人・国文学者。 明治5年11月2日東京日本橋の木綿問屋に生れる。 本名又次郎。 帝国大学文科大学国文学科卒業。 日本女子大学校教授。 宮内省御歌所寄人。 赤門派詩人・美文家として活躍 昭和42年2月3日没。享年95。 |
竹田益州 (たけだ・えきしゅう) |
臨済宗京都東山健仁寺派管長高台寺住職。 明治29年生れ。別号宗進・金剛窟。 |
武谷雪嶺 (たけたに・せつれい) 1896~1981 |
昭和前期の日本画家(山水画の大家)、岡山県浅口郡玉島村生れ、 師川合玉堂・山内多門の高弟、日本画会展・各展覧会に入選受賞多数、 東京世田谷に住した |
武富時敏 (たけとみ・たけとし) 1855~1938 |
明治・大正期の政治家。 佐賀県生れ。幼名元吉郎。 明治初年東京に遊学後、 7年佐賀の乱に加わるが無罪放免。 副島種臣を知り、九州改進党の結成に参加。 佐賀県会議員・議長。 第1回総選挙で代議士に当選、以来13回当選、 立憲革新党・進歩党・憲政党・憲政本党・ 立憲国民党・立憲同志会・憲政会に所属活躍。 農商務省商工局長・第1次大隈内閣逓相・蔵相を歴任。 昭和13年歿。享年84。 |
竹原嘲風 (たけはら・ちょうふう) 1897~1947 |
明治30年、東京生れ。本名竹太郎。 初め蔦谷龍岬、のち荒木十畝に師事。 文展・帝展に入選。 帝展改組では第一部会の結成に参加。 福田豊四郎・吉岡堅二らと美術人社を結成。 昭和22年歿。享年50。 |
竹久夢二 (たけひさ・ゆめじ) 1884~1934 |
明治・大正期の詩人・画家。 明治17年9月16日、岡山生れ。本名茂次郎(もじろう)。 早稲田実業中退。藤島武二にあこがれ、 夢二という号もそれに由来してつけた。 眼の大きな女性を描いた、夢二式美人画は、 明治末から大正初期にかけて一世を風靡した。 彼の本領は、放浪の生活と、悲恋によって傷ついた心を、 絵画や詩の中に純粋に生かしていったことにある。 昭和9年9月1日歿。享年51。 |
田崎草雲 (たざき・そううん) 1815~1898 |
文化12年10月15日江戸小川町(足利藩邸)生れ。 金井烏洲(親戚)、谷文晁、渡辺華山に師事。 足利藩絵師。尊王の志士と交友。 誠心隊を結成し治安維持に貢献。 皇居の杉戸図を描く。帝室技芸員。 明治31年9月1日没。享年84。 司馬遼太郎の短編「喧嘩草雲」のモデル |
館霞舫 (たち・かほう) 1808~1853 |
文化5年新潟県巻町生れ。 名雋、字昆陽、通称雋蔵。 画ははじめ清水曲河に師事し、 のちに岡田閑林に学んだ。 その後菊池容斎にもついて、 花鳥・人物・山水画を得意とした。 嘉永6年1月26日歿。享年46。 |
立花大亀 (たちばな・だいき) 1898~2005 |
大徳寺511世、大徳寺最高顧問。 臨済宗紫野大徳寺塔頭 霊山徳禅寺長老、如意庵庵主。 明治31年大阪府堺市生れ。 南宗寺で得度。妙心寺専門道場で修行。 大徳寺派管長代務者。花園大学学長。 平成17年8月25日没。享年108。 |
館岡栗山 (たておか・りつざん) 1897~1978 |
明治30年9月9日、秋田県南秋田郡五城目町生れ。 本名豊治。師近藤浩一路、安田靫彦。 八郎潟町一日市に疎開して永住地とする。 院展を中心に制作活動した。 秋田県文化功労章、院展特待、勲五等双光旭日章。 昭和53年10月16日歿。享年81。 |
田中角栄 (たなか・かくえい) 1918~1993 |
昭和戦後期の政治家。大正7年生。新潟県出身。 高等小学校卒で上京,苦学力行して建築士,土建業者となる。 1947年(昭和22)に衆議院初当選。 民主党から吉田茂の民主自由党に移り法務政務次官となる。 炭鉱国管疑獄(炭鉱国家管理問題)で逮捕され,のち無罪。 自由民主党では佐藤派に属し,57年に岸信介内閣 郵政相,池田勇人内閣で党政調会長,蔵相を歴任。 佐藤栄作内閣でも幹事長,蔵相,通産相を務め, 福田赳夫と並び佐藤体制の双璧となる。 72年7月,自民党総裁選で福田を破って田中内閣を成立させた。 〈決断と実行の政治〉を旗印に,同年9月,一気に日中国交回復を実現した。 しかしもう一つの柱,日本列島改造政策は 土地投機,物価上昇を誘発し,73年秋の 石油危機とあいまって〈狂乱物価〉を現出した。 このため1972年12月総選挙も不振に終わり, 74年7月の参院選も〈金権選挙〉を指弾された。 同年末,金脈・人脈批判を受け首相を辞任した。 76年のロッキード事件暴露によって,田中は収賄で逮捕起訴され, 〈総理大臣の犯罪〉は一世を聳動(しようどう)させた。 しかし田中は党内に強大な支持勢力を結集して〈田中支配〉を確立し, 大平正芳,鈴木善幸,中曾根康弘各政権の 〈キング・メーカー〉〈闇将軍〉と呼ばれる権勢を保持した。 85年病に倒れ政界を引退した。 8年間の闘病のあと,平成5年年12月死去。 |
田中義一 (たなか・ぎいち) 1864~1929 |
陸軍大将。勲一等。男爵。 第26代内閣総理大臣。 元治元年6月22日、山口県生れ。幼名乙熊、号素水。 日清戦争に従軍,日露戦争では大本営 陸軍参謀ついで満州軍参謀として転戦, 09年陸軍省軍事課長となり,10年少将,11年軍務局長 にすすみ,二個師団増設問題を推進したが,これは 第2次西園寺公望内閣の倒壊,大正政変を導くこととなった。 第2旅団長,欧米巡遊ののち,15年中将,参謀次長に就任, 5月第1次山東出兵により北伐に武力干渉し, また張作霖を利用する満蒙分離政策は張爆殺により破綻(はたん)した。 |
田中仙樵 (たなか・せんしょう) 1875~1960 |
明治~昭和前期の茶匠。 明治8年生れ。名は鼎、諱は孝篤、 号は仙樵居士・宗鼎・玄妙斎・仁山・三徳庵。 京都の前田瑞雪に師事し今日庵に学ぶ。 明治31年茶道研究機関「大日本茶道学会」創立。 昭和35年歿。享年86。 |
田中穂積 (たなか・ほずみ) 1855~1905 |
明治9年、長野県生れ。 早稲田大学第14代総長 「美しき天然」の作曲者 法学博士 |
田中光顕 (たなか・みつあき) 1843~1939 |
幕末期の土佐藩郷士、明治大正期の官僚政治家。 従一位勲一等伯爵。 初名は浜田辰弥、通称顕助、号青山。 天保14年9月25日、土佐藩の家老深尾家家臣 浜田金治の長男として土佐国に生れる。 武市半平太瑞山の尊皇攘夷運動に傾倒して その道場に通い、土佐勤皇党に参加。 脱藩して高杉晋作の弟子となって長州藩を頼り、 中岡慎太郎の陸援隊にも参加。 薩長同盟の成立にも貢献した。 中岡が坂本龍馬と共に暗殺されると、 その現場に駆けつけて重症の中岡から経緯を聞く。 彼は「新撰組か伊東甲子太郎の仕業である」と考えていたらしい。 中岡の死後は副隊長として同隊を率い、戊辰戦争で活躍した。 維新後は新政府に出仕。岩倉視察団で欧州を巡察した後、 陸軍省会計局長、陸軍少将、元老院議官、内閣書記官長、 警視総監、学習院院長、宮内大臣など要職を歴任。 明治42年収賄疑惑で非難を浴びて政界を引退した。 政界引退後は、高杉晋作の漢詩集「東行遺稿」の出版、 高知県桂浜の坂本龍馬銅像の建設など、 日本各地で維新烈士の顕彰に尽力している。 また志士たちの遺墨、遺品などを熱心に収集し、 それらは彼が建設に携わった常陽明治記念館(幕末と明治の博物館)、 旧多摩聖蹟記念館、高知県の青山文庫にそれぞれ寄贈された。 その他、明治34年に日本漆工會の2代目会頭に就任、 久能山東照宮の修理をはじめ漆器の 改良などの文化事業を積極的に行っている。 昭和14年3月28日歿。享年97。 |
田中以知庵 (たなか・いちあん) 1893~1958 |
明治26年7月14日、東京本所生れ。 本名兼次郎、別号一庵・ 咄哉州。 松本楓湖の画塾に入門、速見御舟と親交。 釈宗活に禅を学び、大正元年咄哉の号を受ける。 昭和4年小室翠雲の推挙で日本南画院同人となる。 昭和6年咄哉州、21年以知庵と雅号を改める。 各種展覧会に入選を重ねる。 昭和33年3月15日、川崎市で没。享年64。 |
田中案山子 (たなか・あんざんし) 1906~1970 |
明治39年5月5日、東京青梅生れ。 本名格男。大正11年頃田中以知庵に師事。 日本美術院院友。新興美術院を結成。 昭和16年小室翠雲らによる大東南宗院の結成で委員。 院展・各種美術展で入選多数。 晩年は公募展を離れ個展を重要な制作発表の場とする。 昭和45年5月14日没。享年64。 |
田中針水 (たなか・しんすい) |
明治35年北海道生れ。 師川合玉堂。子供絵得意。 |
田中日華 (たなか・にっか) ?~1845 |
江戸後期の四條派画家。 京都生れ。名弁二、字伯暉、別号月渚。 師岡本豊彦。弘化2年歿。 |
谷口雅春 (たにぐち・まさはる) 1893~1985 |
大正・昭和期の宗教家、生長の家の創始者 明治26年神戸生。早稲田大学卒業 心霊術に熱中し、修養雑誌を発行 昭和9年(1934)光明思想普及会を組織 世界恐慌後の社会不安におののく 人心に食い込んで勢力を伸ばした。 敗戦後も活躍し、極端な反共と 天皇主義を揚げている。 昭和60年没。享年93。 |
谷如意 (たに・にょい) 1832~1905 |
天保3年生れ。名鉄臣、鉄心。 別号太湖、晩年如意山人といった。 彦根藩士渋谷周平の子。 江戸に出て林復斎の門で儒学を学び、 その後諸国をまわり長州でオランダの 医術を学び郷里に帰って医者をしていた。 幕末には勤王のためにつくし、明治3年には 大蔵大丞に任じられたが6年辞職。 京都に住まい学者として風雅な生活をしていた。 明治38年12月26日歿。享年84。 |
谷文晁 (たに・ぶんちょう) 1763~1840 |
江戸後期の文人画家。宝暦13年9月9日江戸生れ。 号師陵・三東居士・楽山など多数有り。 元・明・清画や狩野・土佐・文人画・西洋画など 各派の手法を研究し工夫して、江戸文人画壇の 重鎮となった。門下に渡辺崋山・立原杏所・高久靄崖らを 輩出した。松平定信の伊豆・相模両国臨海巡見に随従した。 |
田能村直入 (たのむら・ちょくにゅう) 1814~1907 |
文化11年2月14日、豊後国(大分県)竹田生。 旧姓三宮、名伝太、字願絶、別号小虎・忘斎・ 幽谷斎・竹翁・布袋庵・飲茶案主人など。 9歳のとき、田能村竹田に入門し、才能を認められ養嗣子となる。 明治初年京都に出、富岡鉄斎を知り親交が始まる。 京都府画学校設立を知事に陳情し開校、初代校長。 京都画壇の中心にあって活躍。 明治40年1月21日京都市で没。92歳。 |
田能村小篁 (たのむら・しょうこう) 1879~1910 |
明治12年、京都生。通称直太郎。 父は田野村小斎。祖父は直入。 父小斎に南宋画を学び、山水画を得意とする。 明治43年5月急逝。享年31。 |
團伊球磨 (だん・いくま) 1924~ |
戦後の作曲家。大正13年東京生れ。 東京音楽学校(芸大)卒業。 下総皖一・諸井三郎・近衛秀麿らに師事。 オペラ「夕鶴」で毎日音楽賞など種々の賞を受ける。 芸術院会員。随筆家としても著名。 |
宙宝宗宇 (ちゅうほう・しゅうう) 1760~1838 |
臨済宗京都紫野大徳寺第418世住持。 大徳寺塔頭芳春院第13世住職。東海寺輪番。 京都生れ。則道宗軌に師事。芳春院内に私寮松月庵を営む。 詩偈、書に優れ、歴代住持中の名筆と称された。 また、茶の湯を能くし、製陶にも長じて手製の茶器をつくった。 号に洛陽人、松月老人、松月叟など。 |
月岡雪鼎 (つきおか・せってい) |
宝永7年、近江生れ。大阪に住む。 本性木田、名昌信、通称丹下、別号信天翁・錦童など。 高田敬甫に狩野派を学ぶが、時代風俗画をかく 風習が盛になってきたので、風俗画に転向し、 絵本類、肉筆美人画、秘画など多く残っている。 浮世絵画家の中でも画風が上品。 法橋より法眼に叙せられた。 天明6年12月4日歿。享年77。 |
椿椿山 (つばき・ちんざん) 1801~1854 |
享和元年、徳川幕府の槍奉行同心の子として生れた。 名弼、字篤甫、通称仲太、別号休庵、琢華堂、春松軒、碧梧山房。 師金子金陵のち渡辺華山。 山水・花鳥が得意で、中国清の張秋谷の画法も研究。 華山門下十哲の一人 安政元年7月13日歿。享年54。 |
土井晩翠 (つちい・ばんすい) |
明治~昭和期の詩人・漢文学者。 明治4年10月23日、仙台生れ。 本名土井林吉。 東京帝大英文科卒業。島崎藤村と並称される。 新体詩人となる。詩作のほか、評論、翻訳も多数。 昭和25年文化勲章受章。 昭和27年10月19日没。享年82。 |
筒井政憲 (つつい・まさのり) 1778~1859 |
長崎奉行、南町奉行、大目付。 安永6年5月21日生れ。 旗本久世広景の次男、 戦国大名の末裔で旗本筒井氏を継いだ。 柴野栗山に学問を学ぶ。 安政6年6月8日歿。享年82。 |
常岡文亀 (つねおか・ぶんき) 1898~1979 |
明治31年11月13日兵庫県氷上郡生れ。 岡田秋嶺、戸部隆吉、小泉勝爾らの指導を受け、 東京美術学校日本画科を卒業、 結城素明に師事する。 帝展・日展・各種展覧会に出品、受賞。 細密描写による華麗な花鳥画でその画才を認められる。 東京美術学校教授。日展会友。 昭和54年11月29日歿。享年81。 |
鶴見祐輔 (つるみ・ゆうすけ) 1885~1973 |
昭和期の政治家、著述家。 明治18年岡山生れ。後藤新平の女婿。和子、俊輔の父。 東京帝国大学法科大学卒業。 内閣拓殖局に入り、1924年鉄道省運輸局総務課長を退官後、 ヨーロッパ・アメリカ・オーストラリア・インド各国の大学等で 遊説し民間外交の推進に尽力した。 28年に代議士となり以後4回当選、 米内光政内閣の内務政務次官となり、 大政翼賛政治会、大日本政治会などの顧問を務めた。 第2次世界大戦後は日本進歩党の幹事長となり、 公職追放解除後、53年参議院議員を1期務め、 第1次鳩山一郎内閣の厚相となる。 また太平洋文化協会、国土防衛民主主義連盟を創設し、 この間、政治評論、小説等を執筆した。 昭和48年歿。享年89。 |
蹄斎北馬 (ていさい・ほくば) 1771~1844 |
明和8年生れ。本姓有坂、通称五郎八、別号駿々亭。 師葛飾北斎。版画や摺物や狂歌本なども多くある。 肉筆美人画にすぐれた作品をなこしています。 弘化元年8月6日歿。享年74。 |
寺内正毅 (てらうち・まさたけ) 1852~1919 |
元帥陸軍大将、政治家、伯爵。 嘉永5年長州藩士宇多正輔の三男に生まれる。 箱館戦争に出陣。維新後山田顕義の推挙で仏式歩兵術を修める。 士官学校長、教育総監、参謀本部長などを歴任。 第1次桂太郎内閣の陸軍大臣。第1次西園寺公望、第2次桂内閣に留任。 この間日露戦争では大本営で兵站(へいたん)部門を担当。 10年陸相在任のまま韓国統監を兼任して 朝鮮併合を推進し、初代朝鮮総督となる。 第2次大隈重信内閣のあと内閣総理大臣となり、 官僚内閣を組織したが米騒動によって総辞職した。 山県有朋、桂太郎に次ぐ長州軍閥の巨頭とみられたが、 性格はきちょうめんで官僚タイプの軍人政治家であった。 大正8年歿。享年68。 |
土井ごう牙 (どい・ごうが) 1817~1880 |
幕末・維新期の儒学者。 文化14年津藩儒医土井篤敬の次男として生。 名有恪、字士恭、通称幾之輔、別号松径。 兄の没後12歳で家禄190石をつぐ。 藩儒川村竹坡・斎藤拙堂に学び、 藩校有造館助教・講官となり、 弘化2年「資治通鑑」校刊総裁、 明治2年督学となった。 学風は清朝の考証学を尊んだ。 明治13年歿。享年64。 |
東郷平八郎 (とうごう・へいはちろう) 1847~1934 |
明治・大正期の海軍軍人,元帥。 弘化4年薩摩藩士の家に生まれ,薩英戦争,戊辰戦争に参加, 1871年(明治4)イギリスに留学,78年帰国して海軍中尉に任官, 90年呉鎮守府参謀長,日清戦争時は浪速艦長, 95年以降常備艦隊司令長官,舞鶴鎮守府司令長官となり, 1903年12月第1艦隊兼連合艦隊司令長官に就任。 05年5月日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に勝利し, 一躍名将としての名をあげた。 日露戦後,07年大勲位,功一級を与えられ伯爵,13年元帥となった。 14年から東宮御学問所総裁を務めた。 30年ロンドン軍縮条約承認反対の立場をとった。 死去に際し侯爵となり,国葬を執行された。 昭和9年歿。享年88。 |
東條琴台 (とうじょう・きんだい) 1795~1878 |
幕末・明治期の儒学者・考証学者 寛政7年江戸生れ。名信耕、字子藏・義藏、別号呑海。 伊東藍田・倉成龍渚・山本北山・亀田鵬斎・大田錦城に学ぶ。 江戸亀戸神社祠官。教部省に出仕。 明治11年歿。享年84。 |
頭山 満 (とうやま・みつる) 1855~1944 |
明治・大正・昭和期の国家主義者。 安政2年黒田藩士の家に生まれ,のち母の実家を継ぐ。 板垣退助の強い影響下に箱田六輔,平岡浩太郎らと向陽社を設立, 同じころ別に組織した筑前共愛会とともに国会開設請願運動等を行い, 81年箱田や平岡らと玄洋社を設立した。 しだいに民権論を離れ,日本はアジアを制覇し 87年,国権論宣伝のため《福陵新報》を創刊。 金玉均やビハリ・ボースらの亡命政治家を保護し孫文ら |
徳川慶久 (とくがわ・よしひさ) 1884~1922 |
徳川慶喜の子、公爵、 華族世襲財産審議会議長。 |
徳富蘇峰 (とくとみ・そほう) |
明治~昭和期の新聞人・文筆家、文久3年肥後(熊本県)生、 水俣の郷士徳富一敬の長男、蘆花の兄、 本名猪一郎、同志社中退、自由民権の結社相愛社に加盟し,政談演説や新聞編集に従事 82年より自宅に大江義塾を開き,自由主義を標榜した実学教育を行う 1913年の桂の死を機に政治の機務からは離れ, |
徳永観林 (とくなが・かんりん) 1890~? |
明治23年、東京生。 師野田九浦。別号耕邨。 花鳥・人物・魚介得意。 没年不詳。 |
床次竹二郎 (とこなみ・たけじろう) 1866~1935 |
大正・昭和期の官僚,政治家。慶応2年生れ、鹿児島出身。 帝国大学法科大学卒業。1906年内務省地方局長,一時, 樺太庁長官を兼任し,第2次西園寺公望内閣の内務次官を務めた。 その後,13年鉄道院総裁に就任し,現職のまま立憲政友会に入党し, 15年代議士となり,その後当選8回。原敬内閣の内相兼鉄道院総裁に抜禽され, 高橋是清内閣でも内相を務めた。その間,内務省社会局,協調会を設置し, 民力涵養運動を推進して社会運動に対抗し,さらに郡制の廃止を断行した。 原の没後,政権担当への願望を強め,24年清浦奎吾内閣を支持して 政友会を分裂せしめて政友本党を結成し総裁に就任した。 27年,発足した立憲民政党の顧問となったが翌年脱党して 新党抑楽部を組織し,さらに政友会に復帰した。 その後犬養毅内閣の鉄道相を経て岡田啓介内閣の逓相に就いたが, 党議に反して政友会から除名された。逓相在任中昭和9年急逝。 |
十時梅崖 (ととき・ばいがい) 1737~1804 |
江戸後期の儒学者 元文2年大阪生れ。名賜、字子羽・業、 通称伴藏、別号願亭・清夢軒。 伊藤東所に学び、程朱を尊崇するとともに、 書画に巧で、伊勢国長島藩に仕えた。 文化元年歿。享年68。 |
冨田溪仙 (とみた・けいせん) 1879~1936 |
明治12年12月9日、福岡県博多生れ。 本名鎮五郎(しげごろう)。 狩野派を学び、上田鉄耕に指導を受ける。 京都に出て、都路華香に師事。 文展・院展・各種展覧会・個展などに出品。 帝国美術院会員、改組帝展審査員 昭和11年7月6日、京都市で歿。享年56。 |
富取風堂 (とみとり・ふうどう) 1892~1983 |
明治25年10月1日、東京日本橋生れ。本名次郎。 松本楓湖の安雅堂画塾に入門。 院展など各種展覧会にて入選多数。 日本美術院評議員、文部大臣賞受賞、 千葉県文化功労者、横山大観記念館常務理事、 日本美術院監事。 昭和58年2月12日、千葉県で歿。享年90。 |
永坂石たい (ながさか・せきたい) 1845~1924 |
弘化2年名古屋生れ。本名周二。 医師の家系で東京へ出て医師となる。 漢詩を森春涛に学び、 漢詩人・書家として一家をなした。 大正13年歿。享年80。 |
永田春水 (ながた・しゅんすい) 1889~1970 |
明治22年2月18日、茨城県北相馬郡生れ。 本名良亮、初め筑畝と号す。 師荒木寛畝。東京美術学校日本画科卒業。 國華社に入社「國華」の編集に携わる。 文展・帝展などにに入選を重ねる。 如春会を主宰。正統派の花鳥画を継承する。 昭和45年5月1日没。享年81。 |
中西耕石 (なかにし・こうせき) 1807~1884 |
幕末・明治前期の南画家 文化4年筑前(福岡)生れ。名寿、字亀年、号筌岡・竹叟。 陶工の家に生れたが、幼児から絵を好み、大阪で篠崎小竹に入門。 のち京都に上り小田海僊に学ぶ。 山水・花鳥を得意とする。 日根対山、前田暢堂とともに<対暢耕>と称せられた。 門人に吉嗣拝山、木村耕巖、秦金石らがいる。 明治17年没。享年78。 |
中野正剛 (なかの・せいごう) 1886~1943 |
大正・昭和初期の政治家。明治19年福岡市生れ。 幼名甚太郎、のち正剛に改名。 早稲田大学卒業後ジャーナリストとなり、 《東京朝日新聞》《東方時論》誌に健筆をふるう。 護憲派記者として反藩閥・反政友会の論陣をはり、 寺内正毅朝鮮総督の憲兵政治を非難した。 対独参戦・シベリア出兵に反対し、パリ講和会議での 日本外交を退嬰的(たいえいてき)旧外交と批判した。 総じて1910‐20年代の中野は〈内に民本主義外に (反アングロ・サクソン的)帝国主義〉と規定できる。 20年に代議士初当選(福岡1区,無所属)。 のち革新抑楽部、憲政会へと転じる。 憲政会、民政党の少壮幹部として議会で反政府の熱弁をふるう。 満州事変時に幣原外交・井上財政に反対して協力内閣運動を起こし、 民政党を脱党(1932)。一時国民同盟に所属するが、 二・二六事件後は全体主義政党東方会の党首となり、 〈アジア・モンロー主義的〉な対外硬運動を展開する。 日米開戦後、戦争遂行方針をめぐって東条英機政権と対立 (《戦時宰相論》(《朝日新聞》1943年1月1日号掲載))、 反東条重臣工作を企てて逮捕される。 釈放後昭和18年割腹自殺を遂げる。享年58。 |
中原南天棒 (なかはら・なんてんぼう) 1839~1924 |
明治大正期の禅僧 天保10年肥前東松浦郡生れ。本名鄧州。 大和圓福寺萬松菴の石應、久留米梅林寺の羅山らに参じ、 羅山の印可を得た。 周防徳山の大成寺に住山し、ついで松島瑞巖寺に入り、 明治35年兵庫県武庫郡の海清寺に住した。 乃木希典も帰依する。 大正14年2月12日没。享年87。 |
中林梧竹 (なかばやし・ごちく) 1827~1913 |
明治時代の書家。文政10年、佐賀生れ。 名彦四郎、のち隆経。字子達。 山内香雪・市河米庵に書を学び、 後年2回清国にわたり、潘存より書法を受け、 漢~六朝の碑帖を持ち帰った。 各時代の書の精髄をとって自己の天分を 盛りあげ、篆隷楷行草みな能く書いた。 確かな造形性、気宇の 大きい書風は特筆すべきである。 大正2年歿。享年87。 |
中林清淑 (なかばやし・せいしゅく) 1831~1912 |
天保2年、京都生れ。名邦子。中林竹洞の娘。 父に文人画をまなび、梅の絵をよくした。 明治45年歿。享年82。 |
中村貞以 (なかむら・ていい) 1900~1982 |
明治33年7月23日、大阪市船場生れ。 本名清貞。幼児期大火傷で両手の指が不自由となり、 のちに両手に絵筆を挟んで制作することになる。 大正8年北野恒富に入門、美人画の基礎を学ぶ。 京都を訪れた横山大観に激励されて以来大観を師と仰ぐ。 昭和3年島成園門下の高橋千代子と結婚。 日本美術院理事。横山大観記念館理事長。 障害を克服した合掌描きによって清楚な女性像を発表、 現代の美人画の第一人者としての歩みを続ける。 昭和57年3月12日歿。享年81。 |
中村汀女 (なかむら・ていじょ) 1900~1988 |
女流俳人の第一人者 明治33年4月11日、熊本市江津生れ。 本名破魔子(はまこ)。ホトトギス同人。 女流俳人4Tの一人 (星野立子、橋本多佳子、三橋鷹女) 戦後「風花」を創刊主宰。 文化功労者。熊本市名誉市民。 昭和63年9月20日没。享年88。 |
中村不折 (なかむら・ふせつ) 1866~1943 |
明治・大正期の画家・書家。慶応2年東京生。別号環山・孔固亭。 小山正太郎・浅井忠に洋画を学ぶ。渡仏しジャン=ポール=ローランスに師事。 太平洋美術学校長・美術協会審査員を歴任。 昭和18年 78歳で歿。 |
中村芳中 (なかむら・ほうちゅう) ?~1819 |
京都生れ。のち大阪で活躍。 尾形光琳に私淑。 寛政末から享和初め頃 江戸に下って「光琳画譜」を出版。 独特な形態感覚と色彩感覚 によってユーモラスな印象を 与える作品が多い。 |
中村正直 (なかむら・まさなお) 1832~1891 |
啓蒙学者・教育者・文学者。 天保3年、江戸麻布生れ。 幼名釧太郎のち敬輔、諱正直、号敬宇。 昌平坂学問所に学び、のち教授となる。 慶応2年幕府の英国留学生取締役を命ぜられイギリスに留学。 小石川の邸内に英学塾を設立、引き続き 同人社と称し、《同人社文学雑誌》を創刊。 この間明六社の結成に参加、《明六雑誌》に 〈西学一斑〉以下5編を寄稿し、啓蒙思想の普及に努めた。 福沢諭吉とならび〈江戸の聖人〉といわらた。 東京大学教授となり漢学を担当した。元老院議官。 東京女子高等師範学校長を兼任。貴族院議員に勅選。 明治24年歿。享年60。 |
二世中村蘭台 (なかむら・らんだい) 1892~1969 |
篆刻家。明治25年東京生れ。本名は秋作、字は子実。 初代中村蘭台の二男。父に篆刻を学ぶ。 昭和3年萬華鏡社を創立し、澤田篁斎・荒木柳城・ 西川寧らと絵画・竹工芸・彫金等の展覧会を催す。 昭和12年、謙慎書道会の審査員、昭和23年日展審査員に着任。 横山大観、川合玉堂や武者小路実篤、東山魁夷、 伊東深水など多くの著名日本画家・文人の印を手がける。 昭和36年篆刻界初の日本芸術院賞を受ける。 昭和44年歿。享年77。 |
中山博道 (なかやま・ひろみち) 1873~1958 |
明治~昭和期の剣道家。 明治6年2月、石川県生れ。 斉藤理則に山口一刀流を習い上京。 熾烈な修行で大森・長谷川流居合、 神道夢想流杖術を極めた。 明治以来、剣・居合・杖術 各範士の称号をもつ唯一の人。 明治34年道場有信館を開き、警視庁・ 宮内省・海兵・各大学で指南。 天覧試合の審判員をつとめた。 昭和33年12月14日歿。享年86。 |
名取春仙 (なとり・しゅんせん) 1886~1960 |
明治19年2月7日、山梨県櫛形生れ。 本名芳之助、別号春川・春僊。 幼少時東京に移住、同級に川端龍子、岡本一平。 久保田米僊、久保田金僊、平福百穂に師事。 明治40年東京朝日新聞社で新聞連載小説の 挿絵やスケッチ担当、二葉亭四迷の「平凡」が第一作。 伊東深水らとともに浮世絵版画を代表する画家として活躍。 日本美術院院友。 昭和35年3月30日、東京青山高徳寺で 妻とともに服毒自殺。享年74。 |
南摩羽峰 (なんま・うほう) ~1909 |
幕末・明治期の儒学者 東大教授など歴任 名綱紀、通称八之丞・三郎、字士張 会津若松生、師古賀謹堂ほか 明治42年歿 |
西垣宗興 (にしがき・そうこう) |
臨済宗大徳寺派萬年山極楽寺住職。別号文山。 |
西川雲径 (にしかわ・うんけい) |
師小室翠雲。山水花鳥画得意。 昭和14年現在、40歳で大阪市新花屋敷に住す。 没年不詳 |
西川春洞 (にしかわ・しゅんどう) |
明治期の書家。弘化4年生れ。 名元譲、別号如瓶山人、大夢道人、茄古山民など。 父は肥前唐津藩士、西川元琳で、書は祖父の亀年に習う。 6歳の時、藩主の命によって、楷書千字文をかいて神童といわらた。 漢学は平田彬斎に、書も後には中沢雪城に学んだ。 維新前には尊皇攘夷を唱え、勤皇の志士と交わる。 明治初年には大蔵省に出仕し、開成校の教授も勤めた。 子孫には西川寧、門下の人々には諸井春畦、諸井華畦、 武田霞洞、安本春湖、花房雲山、中村春坡などがいる。 大正4年8月10日没。享年69。 |
西沢笛畝 (にしざわ・てきほ) 1889~1965 |
明治22年1月1日、東京浅草生れ。 旧姓石川、本名昂一、別名比奈舎。 荒木寛畝のち十畝に師事。 結婚して西沢家に入婿。 文展・帝展など諸展に入選多数。 師風荒木派の花鳥画を継承し つつ近代的な花鳥画をめざす。 日本画院結成に同人として参加。 読画会の代表理事。 昭和40年歿。享年77。 |
西田天香 (にしだ・てんこう) 1872~1968 |
宗教的社会活動家。 明治5年滋賀県長浜生れ。 二宮尊徳の報徳思想に共感し、 北海道開拓民として移住。 開墾事業の監督となるが、 紛争調停に苦しむ。 「争いの因となるものは食べまい」と決意し、 三日三晩の断食籠坐の果て、 赤ん坊の泣き声を耳にして大霊覚、 そこに争わずとも恵まれる食があること、 生命の原点を見出した。 京都鹿ケ谷に『一燈園』を開設。 (現在は山科区) 昭和43年2月29日没。享年96。 |
西脇呉石 (にしわき・ごせき) 1879~ |
明治12年3月8日、福井県勝山市下元禄生れ。名は静。 漢学を富田鴎波につき、書を村田海石に学んだ。 福井師範を卒業し、文検習字科合格、福井高女、 東京青山師範、東京府立第三高女、大倉高等商業、 東京商科大学などに奉職し、文部省より委嘱 をうけて国定書方手本を揮毫した。 師村田海石没後は日下部鳴鶴につき、 また漢詩を国分青厓、岡崎春石に学び、 南画を長田雲堂、三谷耕雲、原田尾山に学んだ |
貫名菘翁 (ぬきな・すうおう) |
安永7年阿波(徳島)生れ。名苞、字子善、 通称政三郎・省吾・泰次郎などと改名し、 号を海仙、60歳より海叟、70歳以降は菘翁・摘菘翁・菘叟、 別号を海客・須静堂・三緘堂・方竹主人などという。 画は妻の父狩野派の矢野典博や日高鉄翁に、書を西宣之に学ぶ。 のち高野山に上り、空海をはじめ多くの古碑帖によって習書する。 須静塾を開き、書生に教授しながら各地を遊歴した。 晩年は京都下賀茂に隠居。 幕末の三筆といわれた。 文久3年5月6日没。享年86。 |
根本樵谷 (ねもと・しょうこく) 1859~1913 |
安政6年12月30日千葉県白鳥生れ。 本名郁次郎。号枕雪・錦雲堂など。 初め宮川堤月に学び、洋画を習う。 明治18年上京、杉溪雲樵に師事。 雲谷派を修める。 墨の馬や鯉の絵を得意とした。 大正2年1月8日歿。享年53。 |
根本雪蓬 (ねもと・せっぽう) 1878~? |
明治11年3月、千葉県市原生れ。 本名柳作。父は日本画家、根本樵谷。 初め横浜の矢内楳秀に学び、のち 荒木寛畝に師事する。 日月会の主任幹事ほか日本美術協会会員、 文墨協会委員をつとめ、孔雀の絵を得意とした。 昭和9年以降の消息は未詳。 |
野生司香雪 (のうす・こうせつ) 1885~1973 |
明治18年11月5日、香川県生れ。 本名述太(のぶた)。父は浄土真宗の役僧。 香川県立工芸学校彫金科を経て、 東京美術学校日本画科を卒業。 日本美術院の研究会員となり、院友となる。 インドの初転法輪寺の壁画に釈迦一代記を描く。 長野善光寺雲上殿の壁画を制作。 長野市に疎開のち渋温泉、小布施に移る。 昭和48年3月28日没。享年87。 |
野口小蕙 (のぐち・しょうけい) 1878~1944 |
明治11年1月11日、滋賀県蒲生郡生れ。 本名郁子(郁とも)。母は日本画家小蘋。 山梨県甲府で幼少期をおくり、15年一家で上京。 絵画共進会などに入選を重ね褒状を受ける。 日本美術協会・日本画会の会員。 一時期小室翠雲と結婚。 昭和19年4月2日歿。享年66。 |
野口小蘋 (のぐち・しょうひん) |
弘化4年1月11日大阪府生れ。 名親子、字清婉、松村春岱の長女。 日根対山に師事。 華族女学校教授、明治天皇の内親王の 常宮昌子内親王、周宮房子内親王の御用掛をつとめた。 奥原晴湖と共に明治時代の女流南画家の双璧といわれた。 帝室技芸員。大正6年2月17日没。71歳。 |
野田九浦 (のだ・きゅうほ) 1879~1971 |
明治12年12月22日、東京下谷生れ。本名道三。 父の転勤で幼少期を函館で過ごす。 28年寺崎広業に伴われ上京、その画塾に学び、 29年東京美術学校日本画家選科に入学するが、 31年美術学校騒動により師とともに退学、 創立された日本美術院の研究生となる。 また町田曲江と白馬会研究所で黒田清輝に洋画を学び、 渡欧をめざしてフランス語を習い、 正岡子規について俳句を学ぶ。 40年大阪朝日新聞社に入社(大正6年退社)、 夏目漱石の小説「坑夫」の挿絵を制作する。 文展・帝展などで受賞多数。 煌土社創設、日本画院同人、帝国芸術院会員、 日展運営会常務理事、(社)日展顧問、 金沢市立美術工芸学校教授(のち名誉教授) 歴史人物画に秀作を残す。 昭和46年11月2日、東京武蔵野で没。享年91。 |
のむら清六 (のむら・せいろく) 1916~? |
大正5年、山梨県生れ。 川端画学校専科卒業。新興美術院に参加。 画学校同窓の岩崎巴人・長崎莫人らと日本表現派を結成。 昭和50年、フランス美術賞パリ展大賞受賞。 中国・北京労働人民文化宮で彩墨展開催。 55年、東京・セントラル美術館で個展開催。 長野県南安曇郡穂高町に住す。 |
野本文雄 (のもと・ふみお) 1884~1958 |
明治17年長野県南安曇郡三郷村生れ。 長野県師範学校卒業。 松本市田町小学校に奉職するが3年間で退職。 川端画学校日本画科入学。 島木赤彦と交流し「アララギ」に投稿。 第2回帝展に初入選。(11回帝展まで数回入選) 銀嶺会を結成。短歌会「大原会」創設。 「せせらぎ会」創設。 自然描写にすぐれ、南画の技法を 駆使しながらさわやかな作品を描いた。 昭和33年没。享年75。 |
萩野由之 (はぎの・よしゆき) 1860~1924 |
歴史学者。万延1年新潟県佐渡国生。 1886年東京大学卒業後、学習院、東京高師各教授などを経て 1901年東京帝国大学教授に就任(1923年まで在職)。 古代法制の研究とともに、平安~ 戦国時代の古典文学の研究で知られ、 とくに《神皇正統記》《大鏡》《増鏡》などの 史書の解説や校定に大きな足跡を残した。 晩年には維新史に力を注ぎ, 《徳川慶喜公伝》(全8冊,1917)を監修し, 《王政復古の歴史》(1918)などを著した。 大正13年歿。享年65。 |
羽黒山政治 (はぐろやま・まさじ) |
大正3年11月18日、新潟県西蒲原郡中之口村生れ。 本名小林政治。相撲力士。身長179㎝、体重129.4kg 昭和8年19歳で立浪部屋へ入門。兄弟弟子に双葉山。 力あくまで強く、左四つ寄切り、吊出し、上手投げと速攻が得意。 昭和17年1月、第36代横綱に推挙され横綱をつとめること11年。 28年9月引退。引退後立浪を継ぎ、 時津風を助けて協会の運営に当たった。 昭和44年10月14日没。享年54。 幕内在位は39場所、 幕内成績321勝94敗1分け117休み、 勝率77%、優勝7回、 勲四等旭日小綬章受章。 |
橋本永邦 (はしもと・えいほう) 1886~1944 |
明治19年9月20日、東京京橋生れ。本名乾(つとむ) 父は日本画家橋本雅邦、兄は秀邦。 東京美術学校日本画科に入学、 寺崎広業、下村観山に学ぶ。 日本美術院同人。 昭和19年5月6日没。享年57。 |
橋本雅邦 (はしもと・がほう) 1835~1908 |
明治時代の日本画家。 天保6年7月27日、川越藩の絵師橋本晴園養邦の 子として江戸狩野邸内で生まれる。 幼名千太郎、別号は十雁斎、酔月画生など。 13歳で狩野勝川院雅信に入門、勝園雅邦(ただくに)の号を与えられる。 20歳のころには生涯の友狩野芳崖とともに塾頭にあげられた。 第1回内国絵画共進会に出品、受賞して画壇に認められた。 84年、フェノロサ、岡倉天心らによって鑑画会が創立され、芳崖とともにこれに参加。 88年、東京美術学校の創立とともに最初の日本画教授となる。 98年、天心に従い野に下り、日本美術院の創立に参画、その主幹となる。 ときには後進の菱田春草、横山大観らの朦朧(もうろう)調の長所をとりいれ、 また晩年は琳派の手法を試みるなど、近代日本画へのなかだちを果たした。 代表作に、美術学校時代の《白雲紅樹》《竜虎図潅風》などがある。 写実よりも心もちを第一義とした画論も伝わり、狩野派最後の巨匠といわれる。 明治41年1月13日歿。享年72。 |
長谷川玉峰 (はせがわ・ぎょくほう) |
文政5年京都生れ。名師盈、字士進、別号等斎。 師松村景文。人物花鳥画得意。 明治12年10月20日没。享年58。 |
畠山錦成 (はたけやま・きんせい) 1897~1995 |
明治30年9月5日、石川県金沢市生れ。 大正10年、東京美術学校日本画科卒業。 結城素明に師事。 川崎小虎、望月春江らと日本画院を結成。 東京女子美術専門学校で講師。 金沢に疎開して、金沢美術工芸専門学校 (金沢美術孝芸大学)教授となる。 日展会員。 平成7年1月18日歿。享年97。 |
畑仙齢 (はた・せんれい) 1865~1929 |
慶応元年4月15日、京都生れ。 名経長、字子益、別号彩雲・万象堂・半象外史など。 岸竹堂のち鈴木百年に師事。 今尾景年、久保田米僊、鈴木松年とともに 百年門下の四天王と称される。 日本画会幹事など歴任。 富山県立工芸学校に赴任、 また彩雲画塾を設けて後進の育成にあたる。 昭和4年3月30日歿。享年63。 |
服部擔風 (はっとり・たんぷう) 1867~1964 |
慶応3年愛知県海西郡生れ 幼名粂之丞 尾張藩儒者森村大朴に漢籍を学び 森春涛らの影響をうけた 名古屋に柳城吟社を創立 昭和39年歿。享年96 勲四等瑞宝章 |
浜口雄幸 (はまぐち・おさち) 1870~1931 |
大正・昭和期の財政家・政治家。 明治3年土佐の水口(みなぐち)家生れ。 同郷の浜口家の養子となった。95年東京帝国大学政治学科を卒業。 大蔵省に入り,山形県収税長,松山,熊本の各税務管理局長, 東京税務監督局長などを歴任。1904年以降は煙草専売局に勤務し, 07年専売局長官になった。この間に後藤新平の知遇をえ, 12年第3次桂太郎内閣の後藤逓相のもとで逓信次官に就任した。 14年第2次大隈重信内閣の大蔵次官となり,立憲同志会に参加, 15年第12回総選挙に高知市から立候補して当選し,以来6回連続当選した。 24年加藤高明内閣の蔵相となって税制整理にあたり, ついで第1次若槻礼次郎内閣の蔵相,のち内相を務めた。 27年立憲民政党の結成とともに総裁に就任し, 28年第1回普通選挙では与党政友会に伯仲する議席を確保して, 田中義一内閣を窮地に立たせた。 29年7月田中内閣総辞職のあとをうけて民政党内閣を組織し, その容貌から〈ライオン首相〉とあだ名され, 重厚・清廉な人柄で人気を集めた。 蔵相には井上準之助をあてて緊縮政策を推進し,30年1月金解禁を行った。 一方,外相に幣原喜重郎を起用して協調外交を展開, 日中関係の改善をはかるとともに,イギリス の提唱に応じてロンドン海軍軍縮会議に参加し, 若槻元首相,財部彪海相らを全権として派遣,財部不在の あいだ海相事務管理の職につき,軍部大臣武官制の例外をつくった。 日米妥協案に対する加藤寛治軍令部長らの強硬な反対を抑え, 元老西園寺公望の支持と30年2月の総選挙でえた絶対多数の 力を背景として,4月ロンドン海軍軍縮条約に調印,統帥権干犯を 叫ぶ政友会や右翼の攻撃に屈せず,条約否認の構えをみせた 枢密院にも断固たる態度で臨み,10月条約を批准させ, 戦前政党政治の一頂点を築いた。しかし,これに不満をもった 愛国社員佐郷屋留雄(さごやとめお)に11月14日東京駅で 狙撃されて重傷を負い,31年4月総辞職,8月26日死去した。 |
花井青巌 (はない・せいがん) |
明治28年愛知県生れ。 師高森砕巌。仏画を得意とする。 戦前南画会所属。 昭和45年現在刈谷市に住す。 歿年不明。 |
馬場一路 (ばば・いちろ) |
群馬県高崎出身。本名馬場一郎。 東京駅前丸ビルに文房具店「和風堂」を営む主人で、 信仰厚い人で観音施画を行い多くの書画を残した。 また文人との交友もあり、夏目漱石、岩波茂雄 らとも交流を物語る書画などが残っている。 生涯に33,787本もの観音施画など数多くの書画を残した。 一路堂は、昭和49年、未亡人の発願により慈眼院の 一隅に建立され、居士の遺墨が常時展覧されている。 著作には「一路居士雑染画集」「風漏集」などがあります。 |
林銑十郎 (はやし・せんじゅうろう) 1876~1943 |
陸軍軍人(大将) 第33代内閣総理大臣 正二位、勲一等、功四級 明治9年2月23日、石川県金沢市生れ。 日露戦争従軍、旅順攻撃に参加。 斎藤実、岡田啓介内閣で陸軍大臣。 昭和18年2月4日没。享年68。 |
原三溪 (はら・さんけい) 1868~1939 |
実業家、茶人。 慶応4年8月23日、岐阜市生れ。 青木久衛の長男。名は富太郎。 儒学者野村藤陰や草場船山に学ぶ。 上京して早稲田大学で政治学・経済学を学び、 跡見女学校の教師を務める。 横浜の豪商・原善三郎の孫・屋寿(やす)と結婚し原家に入る。 横浜市を本拠地として、絹の貿易により富を築いた。 また、富岡製糸場を中心とした製糸工場を各地に持つ。 帝国蚕糸社長、横浜興信銀行(横浜銀行)頭取。 関東大震災後は、横浜市復興会会長をつとめ、 復興支援のため私財を投じ衰微。 美術品の収集家として知られ、小林古径、前田青邨らを援助した。 横浜本牧に三溪園を作り、全国の古建築の建物を移築した。 昭和14年8月16日歿。享年72。 |
春木南華 (はるき・なんが) 1818~1866 |
文政元年生。春木南溟の長男。 名麟、通称扇之助、号讀書斎、煙波釣徒。 慶応2年6月17日没。享年48。 父南溟より先に他界した。 |
東久世通禧 (ひがしくぜ・みちとみ) 1833~1912 |
幕末期の尊王攘夷派の公卿。 天保4年生れ。幼名保丸、号竹亭・古帆軒。 文久3年8月18日の政変で京都を追われ、 七縁落の一人として長州へ下った。 慶応3京都へもどって参与となり、明治元年には外国事務取調掛、 ついで外国事務総督となり、新政府の外交事務を統括した。 開拓長官として箱館に赴任し、侍従長となり、 岩倉具視の欧米視察に同行。 帰国後、元老院議官、同副議長、枢密顧問官、 貴族院副議長、枢密院副議長を歴任した。伯爵。 明治45年1月4日歿。享年80。 |
比田井天来 (ひだい・てんらい) |
明治~昭和初期の書家。 明治5年1月23日、長野県北佐久郡協和村生まれ。 名は鴻、字万象・子漸、幼名常太郎、別号画沙・大樸など。 有隣塾の依田稼堂に漢学・書を学び、東京に出て日下部鳴鶴に書を学んだ。 また詩を岡本黄石につき、小石川哲学館で哲学を学び、 二松学舎に入り、金石文字学・経学などを学んだ。 陸軍幼年学校習字科教授、東京高等師範学校講師、東京美術学校(現在の 芸術大学)の習字講師、神奈川師範習字科講師、文検習字委員などつとめる。 大日本書道院を創立して総務長となり、帝国芸術院(現在の日本芸術院)会員。 昭和14年1月4日歿。享年68。 |
飛田周山 (ひだ・しゅうざん) |
明治10年2月26日、茨城県多賀郡生れ。本名正雄。 上京し、叔父の彫金家海野美盛の書生となり、 美盛のすすめで久保田米僊に入門するが、 のち京都に移り竹内栖鳳に師事する。 家の事情で33年東京に戻り、日本美術院の 研究所に入所、また橋本雅邦に師事する。 岡倉天心を茨城県五浦に案内する。 明治39年美盛の斡旋で文部省教科書編纂係嘱詫となり 国定教科書の挿絵を制作、昭和16年まで長期間従事。 文展・帝展・博覧会など受賞多数。 日本画院結成、創立同人。 昭和20年11月22日没。享年68。 |
日高鉄翁 (ひだか・てつおう) |
江戸後期の長崎臨済宗春徳寺の僧。 のちに雲竜寺に隠退した。寛政3年生れ。 画は石崎融思に学び、のち江稼圃に文人画を学ぶ。 当事木下逸雲や三浦梧門などとともに、長崎の三大南画家といわれた。 特に蘭が得意であり、詩文も書もすぐれていた。 門人には滝和亭・安田老山・大倉雨邨・川村雨谷などがいる。 明治4年12月7日没。享年81。 |
日根対山 (ひね・たいざん) 1812~1869 |
江戸後期の関西南画壇の名家 名盛長、字成言・小年、号対山・茅海・錦林子・同楽園。 和泉堺の人。京都に居住。 岡田半江・貫名海屋に師事。画は僧鉄翁に私淑。 梁川星巌・貫名海屋等と親交。 明治2年3月13日歿。享年57。 |
平井楳仙 (ひらい・ばいせん) 1889~1969 |
明治22年1月5日、京都市生れ。本名秀三。 京都市立美術工芸学校絵画科卒業、竹内栖鳳に師事。 入江波光・榊原紫峰らと桃花会を結成。 文展、帝展、博覧会などで受賞多数。 昭和44年8月30日没。享年80。 |
平野五岳 (ひらの・ごがく) |
文化6年3月26日、大分県日田市生れ。 幼名聞恵、名岳、字五岳、 号五岳・古竹園・滴翠楼・知雨園 職業僧家。広瀬淡窓に師事。 詩は白楽天に私淑、書は独学で、 絵は田能村竹田の画風を学ぶ。 明治26年3月3日没。享年83。 |
平福百穂 (ひらふく・ひゃくすい) 1877~1933 |
明治10年12月28日、秋田県角館生れ。 本名貞藏。父は円山四條派の画家穂庵。 父穂庵の指導を受けるが、父が旅行先の秋田で急逝。 鈴木百年に画才を認められ、郷土の儒学者から百穂の雅号を受ける。 上京して川端玉章の内弟子となり、同門の結城素明を知る。 国民新聞社に入社、約22年間在職。 无声会、珊瑚会、金鈴会を結成。 昭和8年10月30日、秋田県横手市で歿。享年55。 |
平山成信 (ひらやま・せいしん) 1854~1929 |
明治・大正期の官僚、安政元年江戸生 幕臣平山省斎の子 左院に出任、枢密顧問官 帝国女専・日本高女・静専女学校などの校長 日赤創立以来その理事となり、社長となる。 産業協会創立、帝展の創立に尽力 啓明会会長 昭和4年没。享年56。 |
広瀬東畝 (ひろせ・とうほ) 1875~1930 |
明治8年2月26日、高知県佐川生れ。 本名済。初め天野痩石に南画を学び、 上京して荒木寛畝に師事して南北合派を修める。 日本美術協会展で受賞を重ねる。 日本画会委員、読画会幹事、 東京高等工業学校図案科助教授。 文展、帝展に入選多数。 昭和5年1月27日歿。享年54。 |
広田弘毅 (ひろた・こうき) 1878~1948 |
外交官、政治家。明治11年福岡県生れ。 少年時代から頭山満の玄洋社に出入りし影響をうけた。 東京帝大法科大学卒業。 斎藤実内閣の外相、岡田啓介内閣にも留任。 二・二六事件後首相となり、当初外相を兼ねたが、 閣僚の人選をはじめ、軍部大臣現役武官制の復活、 〈国策の基準〉の決定など、軍部の意に追随した。 第1次近衛文麿内閣の外相となり、日中戦争では、 〈国民政府を対手とせず〉声明などの強硬策をとった。 40年以降重臣として重臣会議に加わり、45年6月マリク駐 日ソ連大使と戦争終結について会談したが成功しなかった。 戦後A 級戦犯として文官でただ一人絞首刑に処された。 昭和23年歿。享年71。 |
深田直城 (ふかだ・ちょくじょう) 1861~1947 |
文久元年7月14日、近江国膳所生れ。 本名政孝。別号秋月。 師森川曽文(四條派) 大阪に移住。晩年西宮に移る。 日本美術協会会員。 魚の絵を得意とした。 昭和22年歿。享年86。 |
福井江亭 (ふくい・こうてい) 1865~1937 |
慶応元年11月23日、江戸牛込生。 本名信之進(信之助とも)、通称天真堂。 初め洋画、のち南画を学び、 川端玉章に師事。 日本青年絵画協会の結成に参加。 日本画会の結成に評議員として参加。 素明、百穂らと无声会を結成。 名古屋高等工業学校教諭。 東京美術学校教授。 中国各地を巡遊。 千葉県市原の菊間村山荘 に籠り画作生活をおくる。 昭和12年3月8日没。享年71。 |
福岡青嵐 (ふくおか・せいらん) 1879~1954 |
明治12年、熊本県生れ。本名義雄。 36年東京美術学校日本画科選科卒業。 大正8年矢野橋村らと美術文芸の研究をめざす主潮社を結成、 13年橋村や洋画家斎藤与里らと私立の大阪美術学校を創設。 昭和5年第11回帝展に《太子伝》で入選、 唯一の官展出品となる。その後は青龍社社人となる。 一貫して青龍社展に出品する。 連作など歴史人物画を得意とする。 昭和29年12月11日没。享年75。 |
福島柳圃 (ふくしま・りゅうほ) |
文政3年神奈川県那珂郡湯本生れ。 通称重次郎、別号黙神艸堂。 江戸で柴田是真につき、さらに唐・宋・元・明の 古画蹟によって山水花鳥画を研究する。 明治22年10月23日没。享年70。 |
福田浩湖 (ふくだ・こうこ) 1883~1959 |
明治16年3月14日、東京本郷生。本名浩治。 佐竹永湖に師事、南画を学ぶ。 日本美術協会展で受賞を重ね、文展・帝展にも多数入選。 日本南画院の再興に尽力、最長老の同人として重きをなした。 昭和34年5月19日、東京で歿。享年76。 |
福田雅太郎 (ふくだ・まさたろう) 1866~1932 |
明治・大正期の陸軍軍人(大将) 慶応2年肥前長崎県大村生。 第5師団長、参謀次長、台湾軍司令官など歴任。 大将10年、大将。 関東大震災に際し、東京戒厳司 令官として治安対策にあたる。 甘粕事件に関連してアナーキストに狙撃されるが無事。 大正15年予備役に編入、 昭和5年枢密顧問官となった。 昭和7年歿。享年67。 |
福地桜痴 (ふくち・おうち) 1841~1906 |
明治期のジャーナリスト。天保12年肥前(長崎県)生。 名源一郎、幼名八十吉、号星泓・桜痴。 安政3年15歳の時から蘭学を学び、 江戸に出て英学を学び、 また幕府に出仕して通訳・翻訳の仕事にたずさわった。 渡欧中に言論とくに新聞に深い関心を抱くようになり、 またシェークスピアにも熱中した。 明治元年「江湖新聞」を発行して左幕の筆陣をはり、 新政府から逮捕、発行禁止の処分をうけた。 新政府に仕え、岩倉具視大使の欧米 巡遊に一等書記官として加わった。 「東京日日新聞」主筆。以後政府擁護の 立場で自由民権派批判の筆をふるった。 丸山作楽・水野寅次郎らと立憲帝政党を組織、 東京府会議長・東京株式取引所肝煎となる。 歌舞伎改良を提唱して歌舞伎座を創立した。 明治39年没。享年66。 |
藤井華浦 (ふじい・かほ) |
昭和前期の画家。 山口県防府市。師田中柏陰。 |
藤井達吉 (ふじい・たつきち) 1881~1964 |
明治14年6月6日愛知県碧海市生れ。 日本画を始め、陶芸、七宝、紙工、染色など 工芸のあらゆる分野で活躍した。 地場産業や伝統工芸の振興に力をいれる。 バーナード・リーチ、高村光太郎ら多くの芸術家と交流。 師も弟子もなく、生涯独身ですごす。 「孤高の芸術家」といわれた。 昭和39年8月27日岡崎市で歿。享年83。 |
藤岡紫峰 (ふじおか・しほう) 1880~1956 |
大正・昭和期の日本画家。名八郎。別号静観斎。 明治13年、茨城県行方郡汐来町生れ。 松本楓湖・川合玉堂に師事。 明治44年第5回文展に「五月雨の図」で初入選 以後文展、帝展へそれぞれ入選して、実力を発揮。 11回文展の「野趣四題」、12回文展の「花咲く里」などは代表作。 戦時中は常陸太田市に疎開し、画業にはげむ かたわら、美術振興のため尽力した。 昭和31年2月7日没。享年76。 |
藤島静村 (ふじしま・せいそん) |
文久3年盛岡生れ。 川口月村に四條派を学び、 のち雪舟・雪村らに雲谷派も学ぶ。 画号は月村より静村を貰う。 |
藤田价浩 (ふじた・かいこう) |
京都西芳寺(苔寺)前住職 古文協理事長 |
藤田東湖 (ふじた・とうこ) 1806~1855 |
文化3年常陸国水戸生。藤田幽谷の次男。 名彪(たけし)、幼名武次郎、通称虎之助・誠之進。 江戸へ出て文武を学ぶ。家督を継いで200石。 彰考館総裁代理。徳川斉昭のもとに郡奉行。 江戸通事、側用人など歴任。 藩政改革派の中心となって藩政の実権を掌握した。 保守派との対立が激化し、斉昭は謹慎、東湖は蟄居。 復帰後、海岸防禦掛、側用人となり江戸詰めとして活躍。 安政2年大地震のために江戸小石川の藩邸で圧死した。 |
藤山鶴城 (ふじやま・かくじょう) 1870~? |
明治3年12月8日、京都府舞鶴町生れ。 京都府画学校卒業 幸野楳嶺、野村文挙に師事して四条派を修める。 日本美術協会にて銅賞数回、 内外博覧会、共進会、展覧会などにて褒賞状十数回、 御用品となること数回に及ぶ。 38年岡侍従武官長に従い満鮮 戦地を視察し写生絵巻4巻を描く。 帝国絵画協会会員。 東京赤坂檜町に住す。没年不詳。 |
藤本鉄石 (ふじもと・てっせき) 1816~1863 |
幕末の尊攘派志士 文化13年備前国上道郡宇野村生れ。 名は真金,通称津之助,鉄石は号。岡山藩に仕える。 養父の死後1840年(天保11)脱藩して上京, 諸国を遊歴後伏見に私塾を開く。 大老井伊直弼の安政条約調印に憤激し尊攘激派となり, 63年(文久3)8月の天誅組大和挙兵には推されて総裁の一人となるが, 8月18日の政変により諸藩の討伐を受けることになり, 敗れて鷲家口で戦死した。文久3年歿。享年48。 |
古川大航 (ふるかわ・たいこう) ~1968 |
妙心寺派管長。629世。 別号宗琢・嶺南室。 埼玉県生れ。昭和43年没。 |
堀口大学 (ほりぐち・だいがく) 1892~1981 |
詩人、フランス文学者。 明治25年1月8日、東京本郷生れ。 幼児期から少年期は長岡で過ごす。 吉井勇の短歌「夏のおもひで」に感動して新詩社に入門。 「スバル」「三田文学」などに詩歌を発表。 父の任地に従い世界各国に住した。 処女詩集「月光とピエロ」、 処女歌集「パンの笛」を刊行。 以後も多数の出版を手がけ、著訳書は300点を超える。 三島由紀夫も堀口の訳文から大きな影響を受けた。 芸術院会員。文化勲章受章。 昭和56年3月15日歿。享年90。 |
前田利定 (まえだ・としさだ) 1874~1944 |
政治家、実業家。 明治7年12月10日旧七日市藩主・ 子爵前田利昭の長男として東京に生る。 東京帝大独法科卒業。 志願兵となり陸軍歩兵少尉に任官。 貴族院議員。 加藤友三郎内閣の逓信大臣、 清浦内閣の農商務大臣歴任。 安田銀行、東武鉄道、川崎窯業、 上毛鉄道会社などの重役を兼ねた。 和歌に長じ、竹柏会(佐々木信綱主宰)門下であった。 昭和19年10月2日歿。享年70。 |
前田暢堂 (まえだ・ちょうどう) 1817~1878 |
文化14年、阿波半田生れ。 名果、又は碩、字青牛、又は実甫、通称碩太郎、別号半田。 京都に住み中島来章の門に学び、のち山本楳逸についた。 山水、花鳥を得意とした。 明治11年10月25日歿。享年62。 |
前原一誠 (まえばら・いっせい) 1834~1876 |
天保5年3月20日、長門国(山口県萩)生れ。 吉田松陰の松下村塾に入門。 松陰処刑後は長崎で洋学を学んだ。 幕末、討幕運動に協力し、戊辰戦争では会津戦線で活躍。 明治政府では参議、兵部大輔。 大村益次郎の目指した「国民皆兵」路線(徴兵令)に反対し、 木戸孝允と対立、やがて大村路線の 後継者である山縣有朋に追われる形で下野し、 明治9年に不平士族を集めて萩の乱を引き起こした。 しかし即座に政府軍によって鎮圧され、捕らえられて処刑された。 明治9年12月3日没。享年45。 |
巻菱湖 (まき・りょうこ) 1777~1843 |
書家。安永6年、越後国巻町生れ。 名大任、字致遠・起巌、号菱湖・弘斎、通称右内。 幕末の三筆の一人(市河米庵・貫名菘翁) 菱湖の門下生は1万人を越えた。 亀田鵬斎に師事。 天保14年4月7日歿。享年67。 |
幕田青雲 (まくた・せいうん) 1864~1937 |
元治元年、栃木県宇都宮生れ。 師小室翠雲。 長男は幕田青坡。 昭和12年歿。 |
松井如流 (まつい・じょりゅう) 1900~1988 |
明治33年3月31日、秋田県横手市生れ。 吉田苞竹に師事。 日展参事。大東文化大名誉教授。 文部大臣賞。日本芸術院賞。 勲三等瑞宝章受章。 昭和63年1月16日没。享年87。 |
松方海東 (まつかた・かいとう) 1835~1924 |
公爵。明治期の政治家。名正義。幼名金次郎。 島津久光の小姓となり、その間、御側役大久保利通の指導を得る。 明治維新後、日田県知事・大蔵大輔・内務卿を経て 明治十四(1881)年の政変により参議兼大蔵卿に就任。 1892(明治二十五)年まで大蔵卿・蔵相として松方財政を展開、 日清戦争後も第二次伊藤内閣・第二次松方内閣・ 第二次山県内閣の閣僚として戦後経営を担当した。 その間1886年に銀本位制、1897年には金本位制を 確立するなど財政・金融制度を整備。 二度政権を担当し、第一次内閣では内相に品川弥二郎を擁立し、 選挙干渉などで民党と対立したが、第二次内閣では進歩党と提携、 大隈重信を外相として入閣させ松隈内閣と呼ばれた。 以後も内大臣に就任するなど、元老として活躍した。 大正13年没。享年90。 また子沢山で知られ有名なところで戦前の経済界の重鎮、 |
松平乗寛 (まつだいら・のりひろ) 1777~1839 |
三河西尾藩6万石松平(大給)家3代当主。 父乗完の老中在任中の死去により、 寛政5年16歳にて襲封。 寺社奉行、京都所司代、 老中と幕政で要職を務めた。 安永6年生、天保10年歿。享年43。 |
松田竹の嶋人 (まつだ・たけのしまびと) |
小説家、北海タイムス記者、東京生、札幌に住む 本名白井寅雄、号竹與、昭和14年歿 |
松永昇道 (まつなが・しょうどう) |
東寺第251代長者として、昭和初期に大きな業績を残した。 |
松永天章 (まつなが・てんしょう) |
明治12年6月24日、岐阜県不破郡垂井町生れ。 字實次、別号應文・樹鳳・正信など。 初め河村光文に四条派を学び、 のち川端玉章に師事し円山派を修めた。 花鳥を能くし特に鯉魚に長ずる。 諸種の画会に出品して受賞数十回。 御用品数回。帝国絵画協会会員。 美術研精会、日本画会、日本美術協会、 巽画会、天真会の会員 茶道にも通じた。没年不詳。 |
松野霞城 (まつの・かじょう) 1867~1927 |
慶応3年11月9日、江戸牛込生れ 本名順、字尚賢、通称勘之助、 号蕪園処士・流芳堂・双山堂など 母は椿椿山の門人 野口幽谷に師事 幽谷塾和楽堂の塾長をつとめる 日本画会委員 昭和2年7月7日、東京中野で歿。享年59。 |
松野自得 (まつの・じとく) |
明治25年生れ。師小室翠雲。山水得意。 東京谷中初音町に住した。没年不詳。 |
松林桂月 (まつばやし・けいげつ) 1876~1963 |
明治9年8月18日、山口県萩町生れ。 旧姓伊藤、本名篤、字子敬、別号香外・玉江魚人。 野口幽谷に師事。日本美術協会展に入賞を重ね、 環翠会画塾(のち天香画塾)を設ける。 帝展委員。帝国美術協会理事長。帝室技芸員。 日展運営会常任理事。文化勲章受章。 日本南画院会長。萩市名誉市民。 昭和38年5月22日、東京で没。享年87。 |
松村介石 (まつむら・かいせき) 1859~1939 |
明治~昭和初期のキリスト教指導者。 安政6年播磨国(兵庫県)生。旧姓森本。 安井息軒に儒教を学んだが、横浜の バラー英語塾で聖書を学びキリスト教に入信。 東京神田の基督青年会館で道徳教育講話を行い、 「リンコルン伝」「修養録」を著す。 儒教とキリスト教を結合して折衷的なキリスト教を 説く日本協会を起こし、のち道会と改称。 その信条は信神・修徳・愛隣・永生の4ヶ条であり、 機関紙「道」を発行。大倉孫兵衛・ 森村市左衛門ら財界の支持を得た。 昭和14年歿。享年81。 |
松村景文 (まつむら・けいぶん) 1779~1843 |
江戸後期の四條派の日本画家 安永8年、京都生れ。呉春の末弟。 名要人・直治、字士藻・号華溪。 兄より絵の指導を受け、 また円山応挙の写生風を学び一家を成す。 天保14年歿。享年65。 |
松村梅叟 (まつむら・ばいそう) 1884~1934 |
明治17年8月11日、京都生れ。 本名仁一郎。修竹軒主人・静山堂主人とも号す。 今尾景年に師事。 大正2年京都市立絵画専門学校別科卒業。 在学中の42年第3回文展にて初入選。 以後大正4年まで毎回入選褒状。 明治43年日英博覧会で銅賞を受賞。 京都美術協会や帝国絵画協会会員となる。 大正8年の帝展開設では日本自由画壇に参加、 壇友となり、9年同人となって定期展に出品。 11年同人の池田桂仙、玉舎春輝、 林文塘とともに中国を旅行。 昭和9年3月2日没。享年49。 |
松本奎堂 (まつもと・けいどう) 1831~1863 |
天誅組総裁、三河国刈谷藩士 天保2年生れ。奥田桐園に入門し朱子学を修める。 名古屋で塾を開く。 大阪に移り松林飯山・岡鹿門らと双松岡学舎を開塾。 上洛して藤本鉄石・吉村寅太郎らと交わる。 文久3年9月25日戦士。享年33。 |
松本楓湖 (まつもと・ふうこ) 1840~1923 |
天保11年9月4日茨城県河内郡小野村生れ。 幼名藤吉郎、名敬忠、号洋峨・永峨・安雅堂。 師沖一峨・佐竹永海・菊池容斎。 帝国美術院会員。 大正12年6月23日没。享年84. |
松本良順 (まつもと・りょうじゅん) 1832~1907 |
幕府の医官,日本の陸軍軍医制度の確立者。 天保3年6月16日江戸生れ。蘭方医佐藤泰然の次男で, 幕府の奥医師松本良甫の養子となる。 号は蘭疇(らんじゆ)。のちに松本順と称する。 坪井信道,竹内玄同らから蘭学を修め, 1857年(安政4)幕命で長崎に行き,ポンペに師事, 彼に協力して日本最初の洋式病院である長崎養生所を開設。 62年(文久2),江戸に帰り, 緒方洪庵の死のあとをうけて医学所頭取。 将軍家茂・慶喜の侍医を歴任。 戊辰戦争で会津まで行ったが,幕軍の敗北で横浜で捕らえられる。 まもなく自由の身となり,70年(明治3)早稲田に私立の蘭疇医院を設立。 翌年陸軍最初の軍医頭となり,日本の陸軍の医療体系の確立に貢献。 73年初代の陸軍軍医総監。 貴族院議員,男爵。 牛乳の飲用や海水浴の奨励など,民間の衛生にも意を用いた。 明治40年3月12日没。享年76。 |
松久休光 (まつひさ・きゅうこう) 1899~1956 |
明治32年2月8日、東京生れ。 本名茂。12歳で荒木寛畝に師事。 読画会で活躍。 帝展・新文展に入選を重ねる。 昭和31年8月6日歿。享年57。 |
真野暁亭 (まの・きょうてい) 1874~1934 |
明治7年1月13日生れ。通称八十五郎。 父は日本画家真野暁柳。 師河鍋暁斎、久保田米斎。 日月会、大東絵画協会、巽画会会員。 昭和9年8月11日没。享年60。 日本画家真野満は次男。 |
丸山石根 (まるやま・いわね) 1918~1999 |
日本画家。関西美連会長。 入江波光・中村岳陵に師事。 日展特選、大阪芸術賞受賞。 京絵を得意とした。 平成11年歿。享年80。 |
円山応震 (まるやま・おうしん) 1790~1838 |
寛政2年生れ。木下応受の子。 本家である円山応瑞の養子となる。 幼名辰五郎のち主馬之助、名仲恭、字百里、 別号星聚館、方壷子。 山水、人物、花鳥画が得意。 天保9年6月3日歿。享年47。 |
間宮英宗 (まみや・えいしゅう) 1871~1945 |
明治~昭和前期の臨済宗の僧。 方広寺525世。 明治4年10月1日、愛知西中野生れ。 諱義雄、道英宗、号青竜窟。 岐阜霊松院の郡芳学林に学び、 京都天龍寺僧堂の橋本峨山に師事。 静岡の青竜寺に入住。鎌倉円覚寺の釈宗演に参禅。 その印可を得て、京都臨川寺の住職、 静岡奥山の方広寺派管長となる。 昭和20年3月21日歿。享年75。 |
三浦樗良 (みうら・ちょら) 1729~1780 |
江戸中・後期の俳人 天明中興俳諧六家の一人 紀伊長島浦地蔵町生れ。 字冬卿、通称勘兵衛、別号無為庵・榎本庵等。 伊勢山田に無為庵(がいあん)を構えた。 、安永2年蕪村を知って親交。 同五年には京都へ移住。 安永9年歿。享年52。 |
宮本竹逕 (みやもと・ちっけい) ~2002 |
現代のかな書家 広島生れ。本名顕一. 「大字かな」を提唱 日本芸術院賞受賞 平成14年10月7日歿。享年90。 日展参事。 読売書法会顧問、日本書芸院名誉顧問、 日本かな書道会顧問、寒玉書道会会長。 |
三尾呉石 (みお・ごせき) 1885~1946 |
明治18年5月10日、東京日本橋生れ。本名秀太郎。 大橋翠石に師事。四条派を学ぶ。 虎の絵を得意とする。 東京勧業博覧会に《猛虎》で三等賞杯受賞 文展に《寒風猛威》・《村芝居》で入選 日本美術協会展に出品、日月会幹事 巽画会、浦和土曜会の会員 昭和21年没。享年61。 |
三木翠山 (みき・すいざん) 1887~1957 |
明治20年7月15日、兵庫県生れ。 本名斎一郎。師竹内栖鳳。 竹杖会で研鑽を積む。 文展・帝展にて入賞多数。 昭和32年3月25日歿。享年69。 |
三島中洲 (みしま・ちゅうしゅう) 1830~1919 |
幕末・明治期の漢学者。天保元年、備中生れ。 名毅、字遠叔、別号桐南・絵荘。 幼くして山田方谷に学び、のち江戸に出て、 昌平校に入り佐藤一斎・安積艮斎に学ぶ。 松山藩有終館の学頭になる。 麹町一番町に家塾二松学舎を設ける。 当時、慶応義塾・同人社と並んで三大塾といわれた。 重野安繹・川田甕江と並び、明治の三大文宗といわれた。 大昭8年没。享年90。 |
水田硯山 (みずた・けんざん) 1902~1988 |
明治35年12月14日、大阪市生れ 本名美朗(よしろう)、兄は南画家水田竹圃・水田黄牛 兄竹圃の指導を受け、京都に移住 日本南画院の再興に参加、理事、監事となる 日展会友、日本南画院顧問 昭和63年9月7日、京都市で歿。享年85。 |
水野錬太郎 (みずの・れんたろう) 1868~1949 |
明治~昭和期の内務官僚・政治家 明治元年、秋田藩士の長男として生。 東大卒。第一銀行から内務参事官・ 内相秘書官、神社・土木・地方各局長を歴任。 寺内・加藤友三郎・清浦各内閣の内相。 政友会。田中義一内閣の文相など歴任。 翼政会・旧政会各顧問。 敗戦後、戦犯に指名されたが釈放。 昭和24年歿。享年82。 |
三井親和 (みつい・しんな) 1700~1782 |
書家・武術家。元禄13年江戸生れ。 通称孫兵衛、号龍湖・万玉亭。 書を僧東湖に学び、細井広沢の門人となり、 門下四天王の1人といわれる。 篆書は染物にもなり<親和染>の名で流行。 弓馬射術もよくし、この門人も多い。 江戸深川の三十三間堂で千射を行い、 通矢480本だったという。 天明2年歿。享年83。 |
三井飯山 (みつい・はんざん) |
明治14年11月20日香川県彩歌郡生れ。 名蘊、字子清、通称犀二郎、別号竹風軒主人など。 大分杵築の十市王洋に南画を学び、 王洋没後、京都に出、田能村直入に師事。 日本南画協会会員。日本南画院結成。 昭和9年没。享年53。 |
皆川淇園 (みながわ・きえん) 1735~1807 |
江戸時代中期の儒学者 享保19年12月8日京都生れ。 名愿(げん)、字伯恭、通称文蔵。 父は皆川成慶(春洞)、弟は富士谷成章。 伊藤錦里らに儒学を学ぶ。 京都に弘道館(学問所)を開き、 柴野栗山らと詩社を起こす。 文化4年5月16日没。享年73。 |
宮川長春 (みやがわ・ちょうしゅん) |
江戸中期の浮世絵師。宮川派,勝川派の始祖。 肉筆画を専門とし,版画は作らなかった。 天和2年生まれ。尾張国宮川村の出身と伝えるが明らかではない。 通称を長左衛門といい,春旭堂と号して, はじめ両国広小路に住し,のち芝新堀町に移った。 絵は菱川師宣の作風を慕い,懐月堂の美人画風にも影響されて, 浮世絵肉筆画の正統を継承した。遊里と芝居町を中心に, 江戸の市民風俗をいきいきと報告した作品は, 掛幅や画巻をはじめ潅風画の大作にいたるまで数多く残っている。 1749年(寛延2)日光東照宮修復の事業に, 稲荷橋狩野家の当主春賀理信に従い一門を率いて参加するが, 翌年の暮れに賃金不払いの件で狩野家と紛争をおこし,まもなく没する。 長春の代りに伊豆新島に流された高弟一笑にかわって, 春水が画姓を勝宮川,さらに勝川と改め,肉筆画の伝統を守り継いだ。 勝川派の春章や春朗(損飾北斎)が肉筆画を得意としたのは, 長春に画系の源をつないでいるからである。 代表作として《見返り美人図》(大和文華館),《遊女聞香図》 《風俗図巻》(ともに東京国立博物館),《歌舞伎・吉原風俗図巻》などがある。 宝暦2年没。享年71。 |
宮川寅雄 (みやがわ・とらお) 1908~1984 |
戦後の評論家・美術史家。 明治41年10月10日東京生れ。 早大政経学部中退。戦前から共産党員として活躍(戦後除名)。 昭和41年文化大革命渦中の中国を訪問、 以来10数回訪中し、中国美術の我が国への紹介に尽力した。 著に「中国美術紀行」「会津八一の文学」など。 昭和59年12月25日没。享年77。 |
三宅呉暁 (みやけ・ごぎょう) 1864~1919 |
元治元年3月1日、京都生。 名守広、通称清三郎、別号水月庵・心遠斎など。 森川曽文に師事し四條派を学ぶ。 各種展覧会などで受賞多数。 明治30~40年まで京都市立美術工芸学校教諭。 大正8年8月26日歿。享年55。 日本画家三宅鳳白は次男 |
宮島詠士 (みやじま・えいし) 1867~1943 |
慶応3年山形県米沢生れ。名を吉美、通称大八。 東京外国語学校支那語科卒業。 渡中し保定の張廉卿をたずねて門人になる。 帰国し、中国語塾善隣書院を創設。 また、東京大学、東京外国語学校講師も兼任。 中国通として、政治家や軍人からも中国問題 については相談される程で、中国人にも知己が多く、 日中交友のためには蔭の力を尽くした人でした。 昭和18年7月9日没。享年77。 |
宮柊二 (みや・しゅうじ) 1912~1986 |
歌人。大正1年、新潟県堀之内町生れ。本名肇(はじめ)。 長岡中学在学中から作歌,相馬御風の《木蔭歌集》に投稿。 中学卒業後,家業の書店を手伝ったが,1932年上京, 翌年北原白秋に師事,白秋主宰の《多磨》が 創刊されて俊英として注目される。 39年応召されて中国大陸へ転戦,白秋の死を戦地で知る。 戦後第1歌集《群鶏》(1946)の清新な抒情で注目され, |
武者小路実篤 (むしゃのこうじ・さねあつ) 1885~1976 |
明治~昭和期の説家・画家・思想家。 明治18年東京生れ。別号無車。 学習院から東大哲学科社会学専修に進学したが、1年で中退。 学習院同窓の有島武郎・志賀直哉らと文学同人雑誌《白樺》を創刊。 自伝的作品《お目出たき人》を公刊し、《その妹》(1915)、 《或る青年の夢》(1916)などの戯曲を《白樺》に発表した。 18年、自己の生活改造と社会の改造をねがって、 代表作《幸福者》《友情》(以上1919)、《第三の隠者の |
武藤嘉亭 (むとう・かてい) |
明治43年生れ。師伊東深水・山川秀峰。 能画会同人。日展入21、帝文奉太展8、 区美審、美恊賞奨、佳5。 平成3年現在台東区元浅草に住す |
武藤山治 (むとう・さんじ) |
大正・昭和期の実業家・政治家。慶応3年、愛知県生れ。 慶応義塾卒業。渡米、タバコ製造所の見習職工として学ぶ。 帰国後、ジャパン‐ガゼット新聞社に勤務するかたわら、 博聞雑誌社、全国広告取扱所を設立した。 明治26年三井銀行に入り、神戸支店副支配人をへて、 27年鐘ヶ淵紡績(カネボウ)に入社し、本社支配人、 専務取締役、大正10年社長に就任。 12年実業同志会を創立、会長となり、 13年以降衆院議員当選3回。 昭和7年時事新報社に入り、帝人事件を摘発したが、 9年鎌倉で失業者に狙撃されて没した。68歳。 |
村上委山 (むらかみ・いざん) 1867~1936 |
慶応3年5月20日、京都生れ。 本名義和、字子守、号香露山房、白蓬画房。 明治3年、東京に移住。 阿部閑山に北宗画を学び、閑山没後、 滝和亭に師事して南画を習得。 後年は日本美術協会を中心に活動、 茶道や華道にも詳しくそれぞれ免許皆伝であった。 昭和11年10月15日、東京麻布で没。享年69。 |
村上鬼城 (むらかみ・きじょう) 1865~1938 |
明治~昭和初期の俳人。本名荘太郎。 慶応元年、江戸の鳥取藩邸に生れる。 司法官を志し明治義塾に学んだが、耳疾のため断念、 明治27年、高崎で代書人となる。 翌28年、正岡子規に教えを請い、のち高浜虚子に師事。 渡辺水巴、飯田蛇笏、原石鼎、前田普羅らと 並んで「ホトトギス」における代表的俳人 として大正初期の俳壇で活躍した。 大須賀乙字は小林一茶と対比して一茶 以来の境涯の俳人であると評した。 昭和13年歿。享年74。 |
村上元三 (むらかみ・げんぞう) |
昭和期の小説家。明治43年朝鮮元山府生れ。 青山学院中等部卒業。 長谷川伸の<劇作研究会>に参加、戯曲を書いていたが、 昭和15年「上総風土記」で直木賞受賞。 戦後、朝日新聞連載の「佐々木小次郎」が好評を博し 時代小説家として活躍。「新撰組」「源義経」 「水戸黄門」「高杉晋作」など、新聞小説で人気を博した。 |
村上三島 (むらかみ・さんとう) 1912~2005 |
大正元年8月25日、愛媛県大三島生れ。 従三位勲三等旭日中綬章。文化勲章受章者。 漢文は山中月山、中国語は高建夫、 書道は片山萬年・辻本史邑に師事。 平成17年11月20日没。享年93。 |
村瀬義徳 (むらせ・ぎとく) 1877~? |
明治10年3月、尾張国布袋町生れ。 上京して東京美術学校で洋画を修め、 寺崎広業に師事して狩野派を研究すること多年、 特に花鳥、山水、人物を能くする。 帝国絵画協会会員。 大正期、東京下谷区御徒町に住す。 画道の外六芸に通ずると伝う。 没年不詳。 |
村瀬玉田 (むらせ・ぎょくでん) 1852~1917 |
嘉永5年4月8日、京都生れ。 旧姓榎、本名徳温、通称清次郎、別号彩雲亭。 11歳で四条派の村瀬双石に師事。 15歳で養嗣子となる。 皇居造営に際し御用画を制作。 各種展覧会などで受賞。 四条派の伝統を継承しつつ近代感覚を 加味した作品は海外でも高い評価を受ける。 大正6年10月12日没。享年65。 |
村田栄輝 (むらた・えいき) |
明治・大正期の画家。 明治3年12月19日、東京赤坂生れ。 名栄三郎、号永挙・光斎・朴容。 22年鮮斎永濯に師事し狩野派を研究。 日本美術協会や博覧会などで受賞多数。 人物画得意。没年不詳。 |
望月長好 (もちづき・ちょうこう) 1619~1681 |
江戸前期の歌人。元和5年信濃生れ。 名兼友、のち広沢長孝、号小狭野屋・閑入軒。 京都に出て松永貞徳の門に入る。 晩年京都西郊広沢の池の辺に隠栖し、広沢と称した。 天和元年没。享年63。 |
本居宣長 (もとおり・のりなが) 1730~1801 |
江戸中後期の国学者・医師。 国学三大家の一人。 享保15年5月7日、伊勢国松阪生れ。 本姓小津。幼名富之助。 名栄貞・真良・宣長。通称弥四郎・健蔵。 号鈴屋・芝蘭・春庵・舜庵など。 朱子学者の堀景山に師事。 荻生徂徠や契沖に影響を受け国学の道を志す。 帰郷した宣長は医師を開業し、かたわら 「源氏物語」や「日本書紀」の研究に励んだ。 加茂真淵の書に出会って国学の研究に入る。 享和元年9月29日歿。享年72。 |
元田肇 (もとだ・はじめ) |
明治~昭和期の政党政治家。安政5年大分生れ。号国東。 1880年東京大学を卒業,代言人となる。 第1回総選挙に大分県から選出され,以後連続16回当選。 はじめ大成会,国民協会など,いわゆる吏党に属する。 1900年立憲政友会の創立に参加し,党幹部となる。 13年第1次山本権兵衛内閣の逓信大臣, 原敬内閣で鉄道大臣,高橋是清内閣に留任。 第55議会で衆議院議長に就任した。 30年の総選挙で落選して政界を引退したが, 32年政党人としてはじめて枢密顧問官に親任された。 昭和13年歿。享年81。 |
森戸國次 (もりと・くにじ) |
明治37年12月8日、東京深川生れ。 京都絵画専門学校に入学、同研究科卒業。 西村五雲のち安田靭彦に師事。 日展特選依属、日月社委員。 動物が得意。 |
森広陵 (もり・こうりょう) 1875~ |
明治8年11月、群馬県前橋市生れ。 名廉。字子廉。父は森霞巌(南宗派) 師寺崎広業。 帝国絵画協会会員。美術研精会委員。 真美会、大東絵画会幹事。 大正期、東京池之端に住す。 没年不詳。 |
森本修古 (もりもと・しゅうこ) |
昭和前期の画家。 西山翠嶂に師事。 兵庫県武庫郡魚崎町海岸に住す。 |
諸橋止軒 (もろはし・しけん) 1883~1982 |
漢学者。 明治16年6月4日、新潟県三条市生れ。名は轍次。 東京文理科大教授・静嘉堂文庫長・都留文科大初代学長。 『大漢和辞典』の編著を行った。 文化勲章受章。勲一等瑞宝章。 著書に『漢学界の懐古』等がある。 昭和57年12月8日歿。享年99才。 |
矢沢弦月 (やざわ・げんげつ) 1866~1952 |
明治19年1月22日、長野県上諏訪町生れ。 本名貞明。師久保田金僊・寺崎広業。 戦時中は報道班員として従軍。 東京女子高等師範学校講師、 東京美術学校日本画科講師、 日本美術学校教授、 日展運営会参事。 昭和27年1月26日歿。享年66。 |
安岡正篤 (やすおか・まさひろ) 1898~1983 |
陽明学者、東洋思想家 明治31年2月13日、大阪市中央区生れ。 東京帝国大学の卒業記念として執筆され出版された 「王陽明研究」が反響を呼ぶ。 文部省に入省するも半年で辞し、東洋思想研究所 ・金鶏学院・日本農士学校などを次々と創設。 2・26事件の首謀者西田税らに影響を与えた一人とも言われる。 戦時中は大東亜省顧問として外交政策などに関わった。 敗戦後、安岡が創設した各団体や学校はGHQにより解散を 生涯の多くは東洋古典の研究と人材育成に捧げた。 |
安田善次郎 (やすだ・ぜんじろう) 1838~1921 |
明治大正期の実業家。 天保9年越中富山生れ。 両替屋を開き成功。安田屋と称した。 第三国立銀行創設。 第四十一国立銀行、 安田銀行を創立。 日比谷公会堂・東大安田講堂を寄付した。 大磯の別邸で刺殺された。 大正10年歿。享年83。 |
安田半圃 (やすだ・はんぽ) 1889~1947 |
明治22年新潟県生れ。 本名太郎。別号光見・鶴伴居。 水田竹圃に師事、南画を修める。 日本南画院同人としても活躍。 熱海伊豆山に疎開中の昭和22年9月8日、 東京の病院で歿。享年58。 |
山内容堂 (やまうち・ようどう) 1827~1872 |
文政10年生れ。幕末の土佐藩主。 大政奉還を建白したことで有名。 豊信(とよしげ)と名のる。別号は鯨海酔侯, 九十九洋外史,酔擁美人楼など。 一橋慶喜を将軍継嗣に擁立する動きに参画。しかしことは成らず, 安政の大獄の強圧のなかで隠退したが,謹慎を命ぜられた。 将軍後見職一橋慶喜らに朝幕間の調和を説き,公武合体をはかった。 他方63年土佐帰国後は勤王党を抑圧する。 その後形勢を観望していたが,武力討幕の方向がたかまった 67年(慶応3)になって大政奉還の建白書を幕府に提出し, 王政復古後も徳川慶喜の朝議参与を求めた。 開明的藩主として雄藩連合体制の実現を 求めたが,結果的には実現しなかった。 新政府で要職を歴任するが,所を得ず,詩と酒に日を送ったという。 明治5年6月20日歿、享年46。 |
八木岡春山 (やぎおか・しゅんざん) 1879~1941 |
明治12年12月12日、東京深川生れ。 本名亮之助。下條桂谷に師事。 日本美術協会理事・審査員。 昭和16年8月27日東京で歿。享年61。 |
柳原白蓮 (やなぎはら・びゃくれん) 1885~1967 |
明治18年、東京生れ。歌人。 本名晒子(あきこ)。柳原前光の次女。 叔母愛子(なるこ)は大正天皇の母。 東洋英和女学校卒。 北小路資武と離婚して九州の炭鉱王伊藤伝右衛門に再嫁。 |
柳原義光 (やなぎはら・よしみつ) |
伯爵、貴族院議員 号華山。柳原白蓮の兄。 白蓮の離婚騒動や娘徳子の不良華族事件、 自分自身にも同性愛疑惑が発覚し、 天皇家に近い一族が世間から 猛烈な非難を浴びて権威を失墜した。 |
山岡山泉 (やまおか・さんせん) 1871~1943 |
明治4年、奈良県生れ 本名千太郎 摸写絵を能する 昭和18年歿。享年73。 |
山岡鉄舟 (やまおか・てっしゅう) 1836~1888 |
幕末三舟の一人。天保7年江戸生れ。 名高歩、字猛虎、通称鉄太郎、旧姓小野。 身長190cmの巨漢で、「鬼鉄」の異名をもつ剣豪。 講武所剣術の教授方世話役となり、文久3年 「新選組」の前身、「鎮撫隊」の組長として200人 からの荒くれを引き連れて、京都に登る。 山岡の赤心が海舟を動かし、江戸城無血開城の道を切り開く。 維新後は、静岡藩権大参事を経て新政府に出仕、 明治天皇の側近となり、侍従、内宮少輔を歴任する。 明治21年没。享年53。 |
山縣有朋 (やまがた・ありとも) 1838~1922 |
明治・大正期の陸軍軍人(元帥)・政治家。 天保9年長門(山口県)生れ。 名小輔・狂介、維新後有朋と改名。 |
山縣伊三郎 (やまがた・いさぶろう) 1857~1927 |
安政4年12月23日、萩藩士の二男に生れる。 文久元年、叔父山縣有朋の養嗣子となる。 枢密顧問官、公爵。素空と号す。 昭和2年9月24日歿。享年71。 |
山下巌 (やました・いわお) 1898~1977 |
明治31年11月20日、鹿児島市生れ。 大正3年上京,川合玉堂門下の山内多門に師事。 日本画会展などで受賞を重ね、帝展・文展に入選。 師多門没後、玉堂の長流画塾に入門、 のち児玉希望の戊辰会に参加、 また三光会を結成。 昭和52年2月22日没。享年78。 |
山下竹斎 (やました・ちくさい) 1885~1973 |
明治18年7月17日、京都生れ。 本名覚太郎。師山元春挙。 文展・帝展などで活躍。 昭和48年没。享年89。 |
山田敬中 (やまだ・けいちゅう) 1868~1934 |
慶応4年4月2日東京浅草生れ。 旧姓島根、本名忠蔵、別号可得・年忠・南窓・南斎。 月岡芳年に入門、浮世絵を学び、芳年のすすめで 川端玉章に師事、円山派を修める。 日本美術院創立に参加、正員となる。 日本美術協会会員、天真会、美術研精会顧問など。 昭和9年1月21日歿。享年65。 日本画家山田申吾は次男。 |
山田研斎 (やまだ・けんさい) |
刀剣研師。中央刀剣会(刀剣鑑賞会)理事長。 禅を天龍寺派大森曹玄より印加を受。 書は横山雪堂に師事。 |
山村耕花 (やまむら・こうか) 1885~1942 |
明治18年1月2日、東京品川生れ。 本名豊成、生家は品川不動。 師尾形月耕。報知新聞社入社。 日本美術院同人。 中国古代の陶磁器などの蒐集家。 従軍画家として中国の戦地に赴く。 昭和17年1月25日没。享年57。 |
山本暁邦 (やまもと・ぎょうほう) |
明治20年栃木県宇都宮生れ。名弘友。 佐竹永湖、真野暁亭に師事。 山水、人物に堪能。 各種展覧会にて受賞有り。 貴族より御用命を拝すること数回。 帝国絵画協会の会員。 大正時代東京に住す。 没年不詳。 |
山本紅雲 (やまもと・こううん) 1896~1993 |
明治29年11月16日、兵庫県伊丹生れ 旧姓岡田、本名利三郎 竹内栖鳳に師事 文展・帝展などに入選多数 平成5年6月19日、京都市で歿。享年96。 |
山本玄峰 (やまもと・げんぽう) 1865~1961 |
明治~昭和期の臨済宗の僧。 慶応元年、紀伊(和歌山県)生れ。号的翁。 路傍に捨てられていたのを拾われ岡本家に養われる。 青年時代は山仕事と筏師の労働に従っていたが、 眼病を治すための四国霊場巡礼が契機となり、 明治24年26歳で高知の雲蹊寺山本太玄のもとで出家、 山本姓になる。各地の禅寺で修業したが、 48歳から8年間修行した京都の円福寺宗般の印可を得る。 大正3年三島の龍澤寺に入山、再興にあたり、 さらに原の松蔭寺、犬山の瑞泉寺も復興する。 大正末期から東京の白山道場・ 龍雲院で接心の会をもつようになり、 政・財界などに多数の信者と支持者をつくる。 昭和22年臨済宗妙心寺派管長。 昭和36年没。享年97。 |
山本達雄 (やまもと・たつお) 1856~1947 |
明治~昭和前期の政治家、実業家。 安政3年豊後(大分県)生。三菱商業卒。 岡山県立商法講習所教頭。 大阪府立商法講習所教頭。 三菱に入社。日本郵船元山(朝鮮)支店支配人。 日本郵船東京支店副支配人。 日本銀行に入社。営業局長。 1898~1903年まで第5代総裁。 日本勧業銀行総裁。第2次西園寺内閣の蔵相。 農商務相、内相も歴任。 財界人の政界進出のパイオニア的存在。 昭和22年没。享年92。 |
山川永雅 (やまかわ・えいが) |
明治11年12月、東京生れ。本名峰次郎。 17歳で佐竹永湖に入門、2年程のち小堀鞆音に師事。 安田靭彦らと紫紅会(紅児会)を結成。 日本美術協会展、連合絵画共進会などに入選、受賞多数。 東京勧業博覧会で褒状を受け、文展・帝展に入選多数。 昭和22年没。享年69。 |
山口弘達 (やまぐち・ひろよし) 1860~1932 |
常陸牛久藩1万石山口家第12代当主 万延元年3月23日生れ。 父弘敞。名長次郎、君道。 文久2年8月3日弱冠3歳で家督相続 従二位、周防守、牛久県知事 昭和7年7月18日没。享年73。 |
山下巌 (やました・いわお) 1898~1977 |
明治31年11月20日、鹿児島市生れ。 大正3年上京,川合玉堂門下の山内多門に師事。 日本画会展などで受賞を重ね、帝展・文展に入選。 師多門没後、玉堂の長流画塾に入門、 のち児玉希望の戊辰会に参加、 また三光会を結成。 昭和52年2月22日没。享年78。 |
山田秋畝 (やまだ・しゅうほ) 1887~? |
明治20年熊本県生れ。 師寺崎広業・木島桜谷。 美人画を得意とする。 没年不詳。 |
山田東洋 (やまだ・とうよう) |
明治~昭和初期の画家。新潟県柏崎生れ。 東京洋画学校で学ぶ。日本各地旅に出た。 朱衣のダルマを油絵で描く事を得意とした。 晩年は鉄斎風の山水画も描く。 昭和21年歿。享年80。 |
山田無文 (やまだ・むもん) 1900~1988 |
昭和時代の臨済宗妙心寺派の僧。 明治32年愛知の稲武に生まれる。 号は太室・通仙洞。 1921年に南禅寺金地院の河野大圭について得度。 30年天龍寺の僧堂へ移り関精拙に師事。 49年妙心寺の霊雲院住職、 禅文化研究所所長。花園大学学長に就任。 55年に妙心寺の住職となる。 昭和63年没。享年89。 |
山中信天翁 (やまなか・しんてんおう) 1822~1885 |
文政5年、愛知県碧海郡生れ。 名静逸、通称七左衛門、別号二水など。 大阪に出て篠崎小竹に入門。 のち、伊勢に行って斎藤拙堂の塾で内弟子となる。 明治2年登米県知事に任ぜられたが程なくやめ、、 伏見宮家や閑院宮家の家令となった。 京都下賀茂に住居を構えて、 詩、書、画、篆刻に余生を送った。 明治18年5月22日没。享年64歳。 |
結城素明 (ゆうき・そめい) 1875~1957 |
明治8年12月10日、東京本所生れ。 旧姓森田。本名貞松。 18年親類の結城家の養嗣子となり、 24年川端玉章の天真画塾に入門。 東京美術学校日本画科卒業、 西洋画科に再入学中退。 自然主義を綱領とする无声会を結成。 金鈴社結成。大日美術院結成。 東京美術学校教授。 東京女子高等師範学校教授。 帝国美術院会員。 昭和32年3月24日没。享年81。 |
幸松春浦 (ゆきまつ・しゅんぽ) 1897~1962 |
明治30年6月30日、大分市生れ。 本名猪六。19歳で大阪に出、姫島竹外に師事。 のち京都の水田竹圃の画塾に入門。 帝展入選多数。帝展改組では第一部会に参加。 昭和37年3月6日歿。享年64。 |
横井金谷 (よこい・きんこく) 1761~1832 |
江戸後期の画家。 宝暦11年、栗太郡下笠村(草津市)生れ。 はじめ浄土宗の僧侶であったが、 後に山伏となって諸国を放浪したという。 彼は若いときから絵を独習し、与謝蕪村に傾倒して いたため、紀楳亭とともに「近江蕪村」とも称された。 63歳で坂本に住居を定め、草庵「常楽房」を営んだ。 天保3年(1832)72歳で没するまで、ここで暮らした。 天保3年歿。享年72。 |
横田仙草 (よこた・せんそう) 1895~1962 |
明治28年10月17日、東京生れ。 本名専三、初号蕉雨。早稲田実業学校卒業。 五島耕畝や織田観潮に日本画の手ほどきを受ける。 京都を経て大正11年に大阪・高島屋宣伝部につとめるが、 2年ほどで帰京、小林古径に師事、また速見御舟に指導を受ける。 日本美術院院友、院展などに入選を重ねる。 昭和37年12月30日歿。享年67。 |
横山松雲 (よこやま・しょううん) 1884~1964 |
明治17年、群馬県太田生れ。 本名晶次郎、号聴鴬窓主人・蝸牛草蘆主人など。 師小室翠雲。大東南宗院結成に参加。 日本南画院同人。 昭和39年没。享年79。 |
横山大観 (よこやま・たいかん) 1868~1958 |
明治~昭和前期の日本画家 明治元年茨城県水戸市生れ。 89年新設の東京美術学校日本画科第1回生として橋本雅邦に学び、 とくに校長岡倉天心に信頼され終生その強い感化をうける。 天心の辞職とともに日本美術院の創立に参加,その正員となる。 天心の要望で茨城県の五浦(いずら)に移住。 13年天心が没すると,その遺志を継いで日本美術院の 再興を志し,翌年,観山,安田靫彦,今村紫紅らを集めて 再興院展を設立,その後40年余,主宰者として運営 にあたり日本画壇の一大勢力に育てあげた。 昭和33年歿。享年91。 |
吉井勇 (よしい・いさむ) 1886~1960 |
大正・昭和期の歌人・作家。明治19年10月8日東京生れ。 伯爵吉井幸蔵の次男。早大政経科中退。 中学卒業後の1905年新詩社に入り、《明星》に短歌を発表。 《スバル》創刊後は同人として活躍、戯曲にも手を染めた。 第1歌集《酒(さか)ほがひ》、戯曲集《午後三時》、 《梢園歌集》、《俳諧亭句楽》、歌集《人間経》、など刊行。 爵位返上,妻との離別,土佐隠棲などの変動期を経る。 戦後,歌会始選者や芸術院会員となる。 昭和35年に肺癌で没するまで文筆する。 晩年の代表作に小説集《蝦蟆鉄拐(がま てつかい)》、歌集《形影抄》などがある。 昭和35年11月19日歿。享年75。 |
吉江喬松 (よしえ・たかまつ) 1880~1940 |
フランス文学者・評論家。 明治13年、長野県生れ。号孤雁。 早稲田英文科卒。中沢臨川・窪田空穂・水野葉舟と親交。 国木田独歩主宰の近事画報社入社。「新古文林」編集。 早稲田仏文科創設・主任教授。 著書『近代詩講和』散文集『緑雲』『青空』など 昭和15年没。享年61。 |
吉田茂 (よしだ・しげる) 1878~1967 |
第2次大戦後の日本の保守政治を代表する政治家。 土佐自由党の士 竹内綱の五男として明治11年、東京に生まれる。 東京帝国大学(東大)政治科を卒業し、外務省に入る。 東久邇宮稔彦内閣の外相、幣原喜重郎内閣にも留任。 公職追放となった鳩山一郎の後を受けて日本自由党総裁。 憲法改正、農地改革などを実施。 自由民主党結成、総裁。自由党創立。 サンフランシスコ講和会議に主席全権委員として出席し、 講和条約、日米安全保障条約を締結。 内閣を5次にわたり組織した。 衆議院解散〈バカヤロー解散〉 昭和42年歿。享年90。国葬 |
吉田翠鳳 (よしだ・すいほう) |
明治44年埼玉県生れ 師大橋翠石・三尾呉石 虎画得意 |
吉野秀雄 (よしの・ひでお) 1902~1967 |
昭和期の歌人 明治35年7月3日、群馬県高崎生れ。 慶応義塾理財科(経済学部の前身) に進んだが,肺患にかかって中退。 病床で正岡子規の作品,歌論を 読んで感激したことが契機となって 作歌を始め,これ以後,宿痾との闘いをとおして みずからも万葉調,写生説の実践をつづけていった。 やがて会津八一の門人となり,この狷介 孤高の師の影響下に学芸の素養を深め, 私家版の歌集を出すことはあっても,あり余る 才能を広く世に問うことをあえて自制していたが, 第2次大戦後に歌集《寒宙(かんせん)集》(1947)を刊行, 歌壇にデビューしたときにはすでに 大家の風を樹立し畢(おお)せていた。 歌風あくまで高雅にして率直,堂々たる 〈ますらおぶり〉の調べを湛(たた)える秀歌群 は次の《晴陰集》(1958)で頂点を極めた。 良寛研究書のほか多数の美術鑑賞,旅行記,随筆 を残し,また書家としても第一級の境地を極めた。 昭和42年7月13日歿。享年66。 |
米内光政 (よない・みつまさ) 1880~1948 |
大正・昭和前期の海軍軍人(大将)・政治家 明治13年3月2日、旧盛岡藩士米内受政の長男として盛岡に生まれる。 盛岡中学を経て海軍兵学校へ進み、卒業後海軍 少尉に任官、日露戦争では海軍中尉として従軍した。 後にロシアやポーランドなどヨーロッパに駐在し、 その地の実情を直に見聞した。 昭和12年(1937)には林内閣のもと海軍大臣に就任し、 陸軍の主張する三国同盟に反対した。 この反戦主義の姿勢は終戦まで変わらなかった。 天皇の信頼も厚く、昭和15年(1940)内閣総理大臣に就任、 しかし陸軍の反対に会い半年後に退任した。 太平洋戦争末期には小磯内閣のもとで4期目の 海軍大臣として入閣、終戦のために尽力する。 終戦後も海軍大臣に留任し、海軍省廃省の 責任者として日本海軍の最期を見届けた。 昭和23年4月20日没。享年69。 |
米山朴庵 (よねやま・ぼくあん) 1864~1928 |
元治元年9月29日、東桂の境に生れた。 本名登(旧名和蔵)、画号朴庵、停雲閣、渓素軒、六石堂。 8歳のとき米山喜七の養子となり、滝和亭の門に入り、 和亭とともに千葉県の野田醤油醸造業の 茂木宅に寄寓して絵を描き以降親交を深めた。 谷村の小池宅にも出入し作品を残している。 朴庵は画界の派閥関係や師のえこひいきが嫌いで、 当時の展覧会へは出品しなかったが、 名声を欲しない立派な芸術家であった。 昭和3年、東京若宮町の自宅で没。享年64。 |
頼聿庵 (らい・いつあん) 1801~1856 |
享和元年2月20日、父山陽の幽居中に生れる。 名元協、字承緒、通称餘一、別号春嶂。 4歳にして祖父春水の養嗣景議に兄事し、 大叔父杏坪の薫陶を受け、 景議歿後、春水の嫡子たることを許される。 春水没後、広島の宗家を嗣ぎ、学問所儒員。 奥詰格、三百石。 安政3年8月30日歿。享年56。 |
頼山陽 (らい・さんよう) 1781~1832 |
歴史家、思想家、漢詩人、文人。 幼名久太郎、名襄(のぼる)、字子成、 号山陽・三十六峰外史。 頼春水の子。頼杏坪は叔父。 頼三樹三郎は三男。 中国文学者頼惟勤は子孫 尾藤二洲に師事。 天保3年9月23日歿。享年53。 |
頼支峰 (らい・しほう) 1822~1889 |
幕末・明治期の儒学者。 文政5年京都生まれ。頼山陽の次子。 頼三樹三郎の兄。名は復、字は子剛。 師後藤松陰、牧百峰。 明治元年、大学二等教授になり、 のち辞任して京都に帰る。 明治22年没。67才。 |
頼三樹三郎 (らい・みきさぶろう) 1825~1859 |
幕末期の尊皇攘夷派志士 文政8年7月11日、京都三本木生れ。 名醇、通称三木八、号鴨崖。 頼山陽の三男。 後藤松陰、篠崎小竹、 佐藤一斎、梁川星巌らに学ぶ。 安政の大獄で捕らえられ幽閉され、 のち江戸小塚原刑場で斬首される。 安政6年11月1日没。享年35。 |
冷泉為恭 (れいぜい・ためちか) 1823~1864 |
文政6年9月17日狩野永泰其同の三男に生る。 名晋三、永恭、別名岡田、号心蓮。 冷泉の姓は無断で名乗ったもので、公家ではない。 復古大和絵画家。 関白九条尚忠に仕える近侍となる。 佐幕派であった為に、尊皇攘夷派から命を狙われ、 紀伊国粉河寺、堺から丹波国へ逃れる。 文久4年5月5日大和丹波市の鍵屋の辻で 誘い出され長州藩士大楽源太郎らの凶刃に倒る。享年42。 |
冷泉為村 (れいぜい・ためむら) 1712~1774 |
江戸中期の公卿・歌人 正徳2年生れ。為久の子。法号澄覚。 正二位。権大納言。 霊元天皇から<古今伝授>を受ける。 冷泉家中興の祖といわれる。 門下に石野広通・萩原宗固・柳原保光らがいる。 安永3年没。享年63。 |
若狭成業 (わかさ・せいぎょう) 1887~1957 |
明治20年1月1日秋田市生れ。 名忠太郎。別号如岳・物外。 師小野崎如水(穂庵門)・寺崎広業。 大正初期より京都に移住。 王一亭、呉昌碩らと親交。 昭和32年7月16日歿。享年71。 |
渡辺華山 (わたなべ・かざん) |
寛政5年9月16日、父が三河田原藩士で側用人だったので、 江戸半蔵門外、田原藩の屋敷内で生れる。 幼名虎之助、名定静、字子安、通称登、別号全楽堂。 白川芝山に入門するが月謝を払えず師からことわられ、 その事を知った金子金陵が無月謝で教える。 漢学は佐藤一斎に学ぶ。 金陵没後は文晁の許へゆき友人のように大事にされた。 勤皇思想のため幕府に捕らえられ、入牢後蟄居を命ぜられ、 蟄居中門人の福田半香が江戸で崋山の 為に画会をおこして奔走したので、 世間から蟄居中に門人を使って画会し金を集め 上をおそれぬ振舞いだなどと言われ、 藩主に迷惑がかかってはと自刃して果てた。 天保12年10月11日。享年49。 |
渡辺清 (わたなべ・きよし) 1778~1861 |
江戸後期の画家。尾張藩絵師。 宝暦元年、尾張生れ。別号雪朝斎周渓。 狩野派を学び、のち土佐光貞・田中訥言に就き、 復興大和派画家として活躍。 中林竹洞・山本梅逸らと親交。 文久元年5月7日歿。享年84。 |
渡辺公観 (わたなべ・こうかん) 1878~1938 |
明治11年1月20日、滋賀県大津生れ。 本名耕平、別号狂魚洞・遊魚洞。 京都市立美術工芸学校中退。 森川曽文に師事。四條派を学ぶ。 日本自由画壇を結成。 昭和13年7月29日、京都で歿。享年60。 |
渡辺省亭 (わたなべ・せいてい) 1851~1918 |
嘉永4年12月27日江田神田生れ。 旧姓吉川、名義復、良助。 師菊池容斎。 新しい感覚による華麗な 花鳥画で海外で高い評価を得る。 晩年は展覧会審査に不信をいだき 公開の場には出品しなかった。 大正7年4月2日歿、享年66。 |