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合わせ箱 | 品物が本来の箱ではなく、それらしい別の箱の事 |
糸 印 | 小型の銅製の印鑑。室町時代に明から輸入される生糸 につけられていたもので、到着時に目方の正当なことを 確かめたうえ、受領書にこれを捺印して送り返したもの |
裏 箔 | 絵絹の裏に金箔をはってあるものを呼ぶ |
売り立て | 古美術品を売る場合は、品物を陳列公開して下見を行い、 その後に入札や競り売りによって売り立てをするのが普通 |
花 押 | 印鑑の代わりに判を書くこと。書判(かきはん)ともよばれる 自筆のサインが草書体になり、さらに絵模様になったもの 一生に一種類の花押を使うとはかぎらない |
書付け | 品物の鑑定を紙に書いて添えるものを呼ぶが、箱に認めておく 場合(箱書)もある。 |
柄取り | 掛軸の表装だけを剥ぎ取って、ほかの掛軸や 額装などの表具に転用してしまうこと |
極密 | 書画で図が細かく隅から隅までびっしりと手を抜かずに書き込んであるさま 単に細かく書き込まれているのみで、美的な感覚のんじものは除かれる |
共箱 | 作品を入れた箱の蓋などに、それを製作した作家の署名などが書いてあること 箱に作家や作家に縁故のある人が署名したものは、内容証明でもあり、 歴史性の証明である |
落款 | 書画の末尾や絵画の余白へ、作者自身が製作年月日や 雅号姓名などを書き捺印する事 |
紙本【本紙】 | 和紙・麻・三椏(みつまた)・楮(こうぞ)・雁皮(がんぴ)等の植物繊維で作られる。 主な和紙に雲肌麻紙・白麻紙・鳥の子紙など。 |
絹本【本紙】 | 平織りの生絹を使用するのが一般的。 |
絖本【本紙】 | 光沢のある絹で中国産の物を最上としている。 |
薄美濃紙 | 精選された楮を原料とする薄くて強い紙。 表装の裏打に最も多く使われるほか画用本紙としても使われる。 |
細川紙 | 厚くて丈夫な楮紙。主に襖や屏風の下張りに使うが、 日本画の裏打にも使われることが多い。 |
雲肌麻紙 | 天平期の麻紙を日本画用紙として開発された。 楮と麻を主原料とする厚くて丈夫な紙。 |
鳥子紙 | 雁皮を原料とした日本独自の滑らかで光沢のある紙。 厚さはさまざま。障屏画の本紙に使われることが多い。 |
三椏局紙 | 三椏は近世から紙の原料となったが、明治期には優れた印刷用紙と して紙幣などに使われた。また、希少な雁皮に代わる原料ともなる。 |
紺紙 | 蓼藍で紺色に染めた紙。紫根で染めた紫紙に代わって 平安時代から金字経に多く使われるようになった。 |
日本で創られた様式で、真・行・草の三体があり、各体ごとに三様式がある。ただし、草には真の様式はない。
【真】 | 真・行・草の三体があり、仏画やお題目などに使われる。天地を柱にも回して中縁を囲む、いわゆる総縁にする。 |
【行】 | 真・行・草の三体があり、最も一般に使用される。幢補〈どうほえ〉とも呼ばれる。 柱の幅は真より広くとり6センチ(二寸)以上。柱の幅が3センチ(一寸)ぐらいの狭いものを、特に半幢補と呼ぶ。単に幢補というときは行の行を指す。 |
【草】 | 行・草の二体があり真はない。茶掛け向きとされる。輪補〈りんぽ〉とも呼ばれる。 柱を幢?より狭くし、2センチ(七分)ぐらい。単に輪?というときは、草の行を指す。 |
日本で創られた様式で、真・行・草の三体があり、各体ごとに三様式がある。ただし、草には真の様式はない。
【袋仕立・丸表具】 | 天地に中縁と別の裂を用いず一種類の裂で囲んだもの。 |
【切り仕立・見切り表具】 | 袋仕立に一文字をつけたもの。 |
【明朝仕立】 | 表具の両側に、6ミリ(二分)から15ミリ(五分)くらいの細い縁を取った様式。 |
【支那表具・唐表具】 | 表具の両側に細い縁の幅を明朝仕立より広く、15ミリ(五分)以上とったもの。太明朝とも称す。 |
【本袋表装】 | 風帯を略したもの。 |
一文字 | 書画の本体の上下に配する最も大切な部分で、上等の布を使用。 |
中廻し | 中縁とも言う。本紙を取り巻く部分で、表具の好悪を決定する。 |
天 地 | 上下とも言う。中廻しより質の下がる材料を使用。 |
風 帯 | 本仕立は一文字と同じ上質の裂地を使用。 仏画の表具・二段表具では中廻しと同じ裂地を使用することがある。 |
露・花 | 風帯の先にある小さなフサの事。 |
軸 頭 軸 先 |
軸木の両端に付けるもので、その形状に利休型・撥型がある。 表具の幅に揃えて布で覆う「切り軸」形式もある。 象牙・竹・紫檀・水晶・陶製・漆塗り・金属などの材質を用いている。 |
八 宗 | 発装とも書く。軸装の最上部に位置し、掛け紐を付ける処。 木芯を角型・かまぼこ型に細工している。 |
啄 木 | 紐ともいう。平打・袋打などの織糸を使用。 |
山水画とは?
風景画の総称で、最も古い物は京都東寺所蔵山水屏風の藤原時代の作品と思われます。
山水画の大家としては、支那に於て馬遠・夏珪、我邦に於は周文・雪舟などがいます。
内容あるいは形式などに於て種類の区分があります、春景山水・夏景山水・秋景山水・冬景山水・雨景山水・雪景山水などはその内容について名付けられた物に対して、米鮎山水・破墨山水・水墨山水・青綠山水・金碧山水・樓閣山水などはその形式について名付けられたものです。
絶句とは?
漢詩の近体詩のひとつ。起・承・転・結の四句からなるもの。
一句が五言のものと七言のものとがあり、六朝の楽府に源を発し、唐に至って盛行、古体詩と対峠。
その平仄は律詩の半截に則る。一句七字からなる漢詩の一体を四句書した絶句を七言絶句(28文字)、略して七絶、一句五字からなる漢詩の一体を四句書した絶句を五言絶句(20文字)、略して五絶と言う。
律詩とは 八句からなり第三句と四句と、第五句と六句とが対句をなすもの。五言律(40文字)と七言律(56文字)とがある。
俳句とは?
俳諧発句の略でもと発句といい、俳諧連歌の初句を称したが、後に独立して一体となった。
五・七・五の十七音を本体とし、古来必ず季を入れるならいであり、室町時代の末頃から、俳諧連歌の発句として行われたが、芭蕉以後は発句のみでも行われるようになり、明治に至って、正岡子規が俳句革新を企てて、新派俳句が勃興し、子規没後、定型と花鳥諷詠を旨とするホトトギス派に対し、定型律によらぬ自由律及び季題の観念を撤廃することを主張する新傾向俳句も生まれた。
蘭亭修禊(らんていしゅうけい)
蘭亭曲水(きょくすい)
書家・文人として著名であった王羲之(おうぎし)は、永和九年3月3日、41人の有名人を蘭亭(中国福建省東北部)に招き、水を浴びて身を清める修禊の儀式を行った。その後、流觴(りゅうしょう)曲水の宴をはる。曲がりくねった小川の周りに招かれた文雅の士が集まり、川上から流された觴(さかずき)が自分の前に辿り付くまでに詩を作り、もし出来なければ罰に酒を飲まされるという遊びを行った。この時、25人が一首または二首を作ったといわれ、その時の詩を集めて出来た詩集が「蘭亭集」で、それに王羲之が序文を付した.。一般に王羲之の「蘭亭序」と呼ばれているのがそれである。
この時の修禊の儀式や曲水の宴の様子がしばしば画題として描かれる。
虎溪三笑(こけいさんしょう)
東林訪問(とうりんほうもん)
中国六朝の時代、東晋の名僧であった恵遠は六経、老荘に精通していただ、出家をする。蘆山が幽棲に適するのを見て恵遠の為に東林寺が建てられた。戒律を重んじ、俗塵から離れようとする清信の徒が期せずして集まり、白蓮社が結ばれる。戒律を重んじる恵遠は蘆山と俗界を隔てる虎渓より出ない主義を厳守していただ、ある日、陶淵明と陸修静の二人がここに訪ね、大いに清談して時を過ごした。やがて両人が帰る時、いつものように恵遠は虎渓まで送ったが、溪を数百歩過ぎてそのことに気付き、三人手を打って大笑して別れたという。
猿候捕月(えんこうほげつ)
手長猿が片手で岸辺の枝につかまり、一方の手で水面に映る月を取ろうとしている図を呼ぶ。
この図は仏教からでたもので、みだりに大望空想を描くことを風刺したものといわれている。
滑稽さのなかに雅味がある。
書体には 楷書・行書・草書・篆書・隷書がある。
【楷書】 | 隷書から転化した字形の方正なもの、魏(三国)の鍾ようこれをよくし大いに流行。 |
【行書】 | 楷書と草書との中間の書、楷書の画をやや崩したもの、後漢の劉升徳に始まるという。 |
【草書】 | 篆隷を簡略にしたもの、俗に行書を更にくずし、点画を略したものいう。 |
【篆書】 | 大篆と小篆の二種がある。 |
【隷書】 | 徒隷即ち賤役者にも解しやすい書、奏の雲陽の程ばくが小篆の繁雑を省いて作ったものという、漢代になってまた装飾的になったが、後世これを漢隷又は八分といって古い隷書と区別したが、一般に隷書といえば漢隷を指す。 |
画所(えどころ) | 一般には宮廷の画所だけのように思われていましたが、 宮廷、寺院、神社、幕府の四種類があって、 この画所の長官を別当、又は長者とよび、 その下に画師と呼ばれる専門画家がいた。 |
法印・法眼・法橋 | 学徳すぐれた僧に宮廷から与えられた僧位。 のちに僧正、僧都、律師に相当した。 室町時代になると俗人の画家でも形式だけ僧籍に入って僧位を獲得し、 江戸時代も同様で、後にはこの位が画家の身分上の階級位になったが、 この階級位は、明治6年(1873)に廃止された。 |
奥 絵 師 | 狩野探幽が元和元年(1621)に京都から 江戸に移って徳川幕府の御用絵師になり、 つづいて弟の尚信も幕府につかえて、 鍛治橋・中橋・木挽町に邸をあたえられ、狩野三家が生れ、 更に常信の次男峯信が浜町に分家して 四家となり、幕府より一定の扶持を貰った。 一番格式の高い御用絵師で、狩野探幽などは 当時二百石後に三百三十石の待遇をうけた。 |
表 絵 師 | やはり徳川幕府の御用絵師で、狩野家奥絵師の一族や 門人が独立して一家をかまえ、御家人格二十人扶持で、 奥絵師よりは一段低い格式だった。 駿河台狩野家を筆頭に、山下・深川水場・御徒士町・麻布一本松・ 神田松永町・芝愛宕下・根岸御行松・築地小田原・金杉片町・ 猿屋町代地・分家・本所緑町・稲荷町・勝田の十五狩野家だった。 |
帝室技芸員 | 帝室(宮中)の御用をはたすための専属美術家のことで、 ずっと昔の宮廷画家、院の画家、禁裡御用画家などと呼ばれた人々と同様。 明治23年(1890)10月に初めて美術家に設けられた。 昭和19年以降は発令されていません。 |
帝室技芸員 拝命者名 (日本画家) |
田崎草雲・森寛斎・柴田是真・狩野永悳・守住貫魚・橋本雅邦・ 野口遊谷・滝和亭・幸野楳嶺・山名貫義・川端玉章・荒木寛畝・ 熊谷直彦・望月玉泉・今尾景年・野口小蘋・寺崎広業・富岡鉄斎・山本春挙・ 小堀鞆音・下村観山・竹内栖鳳・川合玉堂・横山大観・橋本関雪・安田靭彦・ 菊池契月・小室翠雲・上村松園・松林桂月・鏑木清方・西山翠峰・小林古径・ 前田青邨・堂本印象・岸竹堂 |
帝国美術院 | 明治40年(1907)文部省が設けた美術審査委員会に始まり、 大正8年(1919)に内閣より発令されて新たに出来たもの。 文部大臣の管理に属し、官制による展覧会や美術研究所を置き、 美術の発達を目的とした団体で、帝国美術院の院長及び会員は 勅任官の待遇をうけ、文部大臣の奏請により、 内閣より命ぜられた美術家の方々だった。 |
帝国芸術院 | 帝国美術院からひきつづき昭和12年(1937)に、文部大臣の管理に属し、 芸術の発達を図り、文化向上に資する目的でつくられた。 第一部(美術部門)、第二部(文芸部門)、第三部(音楽・演劇・舞踊)の三部。 第一部門に日本画・洋画・彫塑・工芸の外にこの時より、書・建築の二科ふえた。 第二部門は小説戯曲・詩歌・評論翻訳。 第三部門は音楽(邦楽・洋楽・雅楽・能楽)・演劇・舞踊。 会員の定員は美術部50名、文芸部30名、芸能部20名の100名以内で、 昭和22年(1947)までつづいた。 |
日本芸術院 | 帝国芸術院よりひきつづき政令をもって、昭和22年12月4日改名。 院令第一条に、「日本美術院は芸術上の 功績顕著な芸術家を優遇するための栄誉機関とする」 とあるように、会員に推挙されば者は、 斯道の最高の栄誉を与えられたことになる。 昭和36年(1961)6月6日、日本芸術院の会員が増員され、 美術部56名、文芸37名、芸能27名の120名以内の定員改正になった。 |
文化勲章 | 昭和12年(1937)2月11日に公布された文化勲章令にもとづいて、 毎年1回特に優れた日本文化の発達に大きな功績のあった文化功績者 (学問・芸術・芸能)に授与される勲章。(日本の最高の栄誉) 年金とともに毎年11月3日文化の日に授章されます。 |
文化功労者 | 年金法にもとづいて、文化の発達に貢献した功労者にたいし年金が贈られ、 毎年11月中に顕彰されます。 |
【土佐派】
大和絵を職とする家系。平安時代以来の伝統であるが、画職を専らとするに至ったのは吉野時代以後で、その頃から朝廷の絵所の長官たる預を世襲して、大和絵の中心的家系となり、後世大和絵を直ちに土佐派と称するに至った。
しかし厳密には、室町時代に漢画の影響を受けて一種の遒勁な趣を加えた後の土佐派の画風を土佐派という。
土佐派の画家中、最も傑出した光長・光信・光起の三人を土佐三筆といい大和絵土佐派を代表する三名家。
【住吉派】
大和絵の一派。土佐派の分派。江戸初期の住吉具慶を祖とし優雅繊麗を特色とする。
具慶は幕府の絵師となり、法眼、狩野派に雁行、江戸大和絵の本拠をなした。宝永二年没。
住吉派門人に、山名貫義・松岡映丘・津端道彦・橋本明治・山口蓬春・杉山寧などがいる。
【狩野派】
狩野正信を祖とし、その子元信が和漢諸流を綜合して狩野派の典型を確立、江戸時代に探幽出でて画壇に重きをなす。
宗家を中橋狩野といい、分家の鍜治橋・木挽町をあわせて狩野三家と称。また別に狩野山楽の家を京狩野家という。
狩野派(木挽町狩野)門人に、橋本雅邦・菱田春草・下村観山・横山大観・川合玉堂・寺崎広業などがいる。
【容齋派】
菊池容齋を祖とする。容齋は狩野派を基礎としあらゆる古今諸派の画蹟を探求し、更に早くより西洋画法をも研究した。然るに洋画法をよく融和し巧みに和画に応用した。門人に示した画意十五則があるが、それは実に容齋派の容齋派たる源泉であって、各自新機軸を出させ、更にその門人に新機軸を出させ師風を墨守する事の不可は問わない、とされている。
その大意は流派に拘泥せず、自ら工夫して新しい何かを発見し、粉本は古代風俗の参考のみ、町絵師は筆力なく、写生派は生気なし、画は人物を本とし須く皇国の英傑を描くべし。画を作るには書筆を用ふべし。など
門人に松本楓湖・高橋廣湖・今村興宗・今村紫紅・渡邊省亭・中島亨齋・鈴木華邨・尾形月耕・梶田半古などがいる。
【円山派】
円山応挙を祖とする。写生的画風と西洋画の遠近法を研究し特色とする。
門人に源琦・長沢蘆雪・山口素絢・奥文鳴・吉村孝敬・森徹山・山跡鶴嶺・木下応寿・福知白瑛・亀岡規礼を応挙門の十哲という。
他に円山派では松村呉春・皆川淇園・中島来章・幸野楳嶺・川端玉章・菱田春草・平福百穂・木村武山・結城素明・杉山寧・東山魁夷など、
円山派Ⅱでは渡辺南岳・大西椿年・森寛斉・山元春挙・上田萬秋・土田麦僊・小杉放庵など、
四条円山派は竹内栖鳳・福田平八郎・橋本関雪・西山翠嶂・堂本印象 など
【文晁派】
谷文晁を祖とする。大和絵を能くすると共に、洋画の法も学び画風を工夫して江戸文人画壇の重鎮となった。
南北合派、渡辺崋山や田能村竹田の南画文人画派などに分かれる。
門下に 立原杏所・高久靄崖・金子金陵・高芙蓉・大西椿年・田崎草雲・春木南溟・荒木寛畝・岡田半江・滝和亭などがいる。
【歌川派(浮世絵系)】
寛文頃、菱川師宣によって大成された風俗画の一流派。遊女・芸妓・俳優・武者の似顔絵や遊里・演劇・美人を描いた。
その様式に肉筆と版画がもてはやされ、世界的にも著名。
作家として、鳥居清忠・西川祐信・喜多川歌麿・安藤広重・歌川豊国・葛飾北斎・五姓田芳柳・河鍋暁斉・水野年方・鏑木清方・荒井寛方・池田輝方・伊東深水 などがいる。
南禅寺派管長
開山 | 無関普門(むかんふもん)…建暦2~正応4 | |
初代 | 少林梅嶺(しょうりんばいれい)…明治17~ | |
2代 | 勝峰大徹(かつみねだいてつ)…明治20~ | |
3代 | 松山舜応(まつやましゅんおう)…明治23~明治29 | |
4代 | 豊田毒湛(とよだどくたん)…明治29~明治42 | |
5代 | 河野霧海(こうのむかい)…明治42~昭和3 | |
6代 | 赤井義勇(あかいぎゆう)…昭和3~昭和8 | |
7代 | 加藤至道(かとうしどう)…昭和8~昭和15 | |
8代 | 嶋田菊僊(しまだきくせん)…昭和15~昭和34 | |
9代 | 柴山全慶(しばやまぜんけい)…昭和34~昭和49 | |
10代 | 勝平宗徹(かつひらそうてつ)…昭和49~昭和58 | |
11代 | 塩沢大定(しおざわだいじょう)…昭和59~ | |
12代 | 中村文峰(なかむら・ぶんぽう) |
建仁寺派管長
開山 | 明庵栄西(みょうあんえいさい)…永治1~健保3 |
初代 | 荊叟東王文(けいそうとうもん) |
2代 | 石窓紹球(せきそうじょうきゅう) |
3代 | 斎藤龍関(さいとうりゅうかん)…明治22~明治25 |
4代 | 竹田黙雷(たけだもくらい)…明治25~昭和5 |
5代 | 竹田穎川(たけだえいせん)…昭和6~昭和20 |
6代 | 中村泰祐(なかむらたいゆう)…昭和21~昭和29 |
7代 | 竹田益州(たけだえきしゅう)…昭和29~平成1 |
8代 | 湊 葆州(みなとほしゅう)…平成1~平成11 |
9代 | 小堀泰巌(こぼりたいがん)…平成11~ |