相生垣秋津
(あいおいがき・しゅうしん)
1896〜1967 |
日本画家。明治29年4月29日兵庫県生れ。
本名三次(さんじ)。川端画学校に学ぶ。師川合玉堂。
関東大震災のためやむなく帰郷、実家の履物製造販売を継ぐ。
仕事のかたわら俳句に親しみ俳画を描き、『ホトトギス』同人となる。
昭和42年4月27日高砂市で歿。享年70。 |
会津八一
(あいづ・やいち)
1881〜1956 |
歌人、美術史家、書家。明治14年8月1日、新潟県古町通生れ。
雅号、秋艸道人・渾斎。早稲田大学名誉教授。新潟市名誉市民。
昭和31年11月21日歿。享年75。 |
青木月斗
(あおき・げっと)
1879〜1949 |
明治12年11月20日、大阪市生れ。
本名新護。初号月兎。薬種問屋の家業を継ぐ。
少年時代より句作、30年三日月会を結成。
32年「車百合」創刊に際しては、正岡子規から
「俳諧の西の奉行や月の秋」の祝句を受けた。
関西俳壇の重鎮。
昭和24年3月17日没。享年71。 |
青木石農
(あおき・せきのう)
1889〜1968 |
大正〜昭和期の日本画家。
明治22年、長野県小県郡生れ。
旧姓原。本名丈夫(たけお)
南画家笹澤檪亭に師事。
信濃美術会結成に参加、委員のち会長。
昭和43年歿。享年78。 |
青木大乗
(あおき・だいじょう)
1891〜1979 |
大正・昭和期の画家。
明治24年5月1日、大阪市天王寺生れ。
本名精一郎。初号宏峰。天王寺中学校を卒業。
同級に小説家宇野浩二や洋画家寺内萬治郎、耳野卯三郎らがいた。
関西美術院で洋画を、京都市立絵画専門学校で日本画を学ぶ。
大日本美術院を素明・小虎らと結成。
昭和27年大日本美術院解散以降は無所属作家
として個展を中心に精力的に制作を続ける。
昭和38年大阪芸術賞受賞。
昭和54年4月5日歿。享年87。 |
青柳琴僊
(あおやぎ・きんせん)
1867〜1962 |
慶応3年5月1日、群馬県月夜野生れ。本名金之助。
郷里の画家林青山に学び、自ら燕山と号す。
児玉果亭の作品に感銘し、長野県渋温泉の果亭に入門、琴僊と改号。
日本美術協会会員。群馬県文化協議会文化功労賞受賞。
昭和37年2月22日歿。享年94。 |
青柳八十二
(あおやぎ・やそじ)
1925〜1989 |
昭和期の日本画家。
大正14年、新潟県生れ。
日本美術院院友。
平成元年歿。享年64。 |
赤井伸生
(あかい・しんせい)
1899〜1967 |
明治32年生れ。本名正方。
師木村武山・安田靫彦。
日本美術院院友。
昭和42年4月23日歿。享年68。 |
赤井龍民
(あかい・りゅうみん)
1898〜1945 |
明治31年、兵庫県生れ。本名義一。一時龍眠と記す。
大正7年京都に出、菊池契月に師事。帝展入選多数。
昭和20年12月1日、旅行先の北海道で急逝。享年47。 |
赤羽雪邦
(あかばね・せっぽう)
1865〜1928 |
日本画家。慶應元年信濃国東筑摩郡生れ。通称順次、別号知足。
師仙石翠淵・尾崎雪翁・橋本雅邦。
東京美術学校一期生として入学するが、在学中病気の為右足切断。
昭和3年8月25日歿。享年63. |
赤松雲嶺
(あかまつ・うんれい)
1892〜1958 |
明治25年12月12日、大阪市生れ。本名好亮。
7歳のとき小山雲泉に入門、師没後は姫島竹外に師事。
文展・帝展に入選多数。文部省買上。
日本南画院同人。画塾墨雲社を主宰。
昭和33年10月16日歿。享年65。 |
秋葉長生
(あきば・ちょうせい)
1911〜1978 |
日本画家。明治44年4月3日、千葉県生れ。
本名武(たけし)。川端画学校入学、山口蓬春の内弟子となる。
日展会員。昭和53年5月12日歿。享年67。 |
暁烏敏
(あけがらす・はや)
1877〜1954 |
明治〜昭和期の真宗大谷派(東本願寺)の僧。
明治10年石川県の明達寺生れ。
金沢共立尋常中学、京都大谷尋常中学を終え、1896年真宗大学に入学。
同年、清沢満之らによる東本願寺の改革運動に参加、
大学改革派委員となり退学処分を受ける。
翌年復学し、99年に卒業して明達寺の住職となる。
東京の浩々洞において清沢の教えをうけ、精神主義に傾倒、
以後それによる伝道活動に尽力した。
寺内に香草社を創立して著述を出版し、
文教院を設けて聖徳太子を奉賛した。
1951年大谷派の宗務総長となり、同朋生活運動を展開した。
昭和29年歿。享年78。 |
朝井観波
(あさい・かんぱ)
1897〜1985 |
明治30年6月4日、東京本郷生れ。本名行五。
川端画学校のち日本美術院研究所に学ぶ。
荒井寛方に随いインドを訪れアジャンター壁画を摸写。
日本美術院院友となるが、平福百穂の画風にひかれ、脱退。
荒木十畝に師事、読画会に属す。帝展・文展に入選。
昭和60年11月6日歿。享年88。 |
浅井柳塘
(あさい・りゅうとう)
1842〜1907 |
天保13年、京都(阿波国とも)生れ。名龍。字子祥。別号白山。
谷口靄山に師事して南画を学び、貫名海屋に書を学ぶ。
また、長崎に遊学して木下逸雲、日高鉄翁らに指導を受ける。
京都府画学校の開校にともない出仕として任用される。
山水・花鳥を得意とし、詩文や書にも長じた。
明治40年11月23日京都市で歿。享年65。 |
安積艮斎
(あさか・ごんさい) |
江戸・二本松藩の儒者。昌平黌教授。
岩代郡山生れ。本姓安藤氏。
名重信・信、通称祐助、字思順・子明、号見山楼。
師佐藤一斎・林述斎
万延元年没。 |
朝倉文夫
(あさくら・ふみお)
1833〜1964 |
彫刻家。明治16年大分県生れ。
東京美術学校(東京芸大)卒業。
初期文展に連続受賞、以後、官展の審査員。
東京美術学校教授。
朝倉彫塑塾で後進を指導。
芸術院会員。文化勲章受章。
自然主義的技法にすぐれた。
昭和39年歿。享年82。 |
浅田宗伯
(あさだ・そうはく)
1814〜1894 |
漢方医の名家。信州筑摩郡栗田村の人。
初名直民、のち惟常、通称宗伯、字識此、別号栗園。
高遠藩に遊んで医学を修め、上京して中西吉益らの門を
たたいて傷寒論を究める傍ら儒学を頼山陽に学んだ。
慶応二年、将軍昭徳公の病気を診察。
天章院始め大奥の侍医となり、法眼に叙せられた。
明治27年3月16日没。享年81。 |
麻田辨自
(あさだ・べんじ)
1899〜1984 |
明治32年12月14日、京都船井郡生れ。
旧姓中西、本名辨次。
京都市立美術工芸学校卒業。
在校中入江波光に私淑。
上村松園の画弟子麻田ツル(直園)と結婚。
西村五雲塾(晨鳥社)に入塾。
師五雲歿後は山口華楊らとともに新・晨鳥社結成。
京都市文化功労者、京都府美術工芸功労者。
昭和59年10月29日京都市で歿。享年84。
日本画家麻田鷹司は長男、
洋画家麻田浩は次男。 |
朝比奈宗源
(あさひな・そうげん)
1891〜1979 |
臨済宗の僧。円覚寺派管長。
明治24年1月9日、静岡県生れ。号別峰。
日大宗教専門部卒。駒沢大教授。
京都妙心寺、鎌倉円覚寺で修行。
『碧巌録訳註』『臨済録訳註』等の著がある。
昭和54年歿、享年88。 |
足利紫山
(あしかが・しざん)
1859〜1959 |
明治〜昭和期の臨済宗の僧。
方広寺526・529世。
臨済宗十三派合同初代管長。
安政6年4月11日、尾張一宮(愛知)生れ。
諱恵温・宗温、幼名重太郎、号無為室・閑雲室。
麟祥院臨済宗僧校卒。8歳で出家。
今北洪川に師事。安井息軒に漢字を学ぶ。
大分万寿寺の住職。
方広寺派管長。臨済宗初代管長。
社会福祉事業に尽力した。
昭和34年12月30日歿。享年101。 |
渥美芙峰
(あつみ・ふほう)
1893〜1973 |
明治26年3月17日、山梨県生れ。本名守雄。
東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。
岸浪百艸居に師事。
昭和26年最初の個展を日本橋三越本店で開催、
以後個展を中心に制作発表、その回数は22回におよぶ。
芙峰門展を主宰、俳句にも長ずる。
昭和48年8月27日歿。享年80。 |
阿出川真水
(あでがわ・しんすい)
1877〜1943 |
明治10年12月24日、東京日本橋生れ。
旧姓巌名。本名準。通称庄蔵。別号掬碧楼・高遠居。
父は劇場画家。是真・桃水・玉章・玉堂らに四條派を学ぶ。
烏合会、日本画会、日月会、下萠会に属す。
昭和18年3月24日歿。享年65。 |
跡部白烏
(あとべ・はくう
1900〜1973 |
明治33年9月28日、熊本県生れ。
本名正人。別号萬沙太。
早稲田大学中退、画家を志して堅山南風に師事。
日本美術院院友。大調和会委員。
昭和48年8月4日歿。享年72。 |
跡見花蹊
(あとみ・かけい)
1840〜1926 |
天保11年4月9日、摂津国(大阪市)木津村生れ。
名竜野、別号木花・西成・不言など。
京都に出、宮原節庵に漢学・詩文・書を学び、
円山応立、中島来章に丸山派、日根対山に南画を学ぶ。
父が開いた大阪中之島の私塾を手伝うと共に後藤松陰に詩文を学ぶ。
慶応2年京都に戻り、私塾を新築して開設、百人に近い
門下生が集まり、学校経営の才能を開花させる。
明治3年一家で東京に移住、神田三崎町に私塾を開く。
8年跡見学校を神田・仲猿楽町に創設、20年小石川に移転、
翌21年私立跡見女学校として開校する。
書画にすぐれ明治5年33歳のとき明治天皇の
御前に召されて、御前揮毫する光栄に浴した。
大正8年校長を退き名誉校長となる。
大正15年1月10日没。85歳。 |
跡見玉枝
(あとみ・ぎょくし)
1858〜1943 |
画家。安政6年4月、江戸生れ。
旧紀州新宮藩士跡見勝三の娘。
名勝子、別号不言庵。
従姉の跡見花蹊・長谷川玉峰に
四條派を、望月玉泉に望月派を学ぶ。
神田今川小路に画の私塾を開く。
日本美術協会会員。内親王御用掛をつとめる。
特に桜花の写生画を得意とし、昭和8年から皇室の委属により
御苑の桜を写生、画帖を献上するなどたびたび献上画を制作した。
昭和18年8月7日歿。享年84。 |
穴山勝堂
(あなやま・しょうどう)
1890〜1971 |
明治23年2月3日、山梨県御坂生れ。本名義平。
45年東京美術学校図画師範科卒業。
松岡映丘に師事。
大正10年新興大和絵会を結成。
国画会の結成に同人。
第一部会の結成に実行委員。
日本画院の結成に参加・同人。
帝展・文展にて特選・無鑑査出品。
19年山梨県一宮町に疎開。
昭和46年7月23日没。享年81。 |
綾岡有真
(あやおか・ゆうしん)
1846〜1910 |
弘化3年7月29日生れ。本姓池田。通称房吉。
柴田是真に師事。花鳥画を得意とし、是真の高弟の一人として活躍。
書画の版下作りをしていた父綾岡輝松を継いで書画や図案の制作に従事する。
明治43年4月3日歿。享年63。 |
荒井寛方
(あらい・かんぽう)
1878〜1945 |
明治11年8月15日、栃木県塩谷郡生れ。
本名寛十郎。父は上絵師で滝和亭に学んだ。
32年画家を志して上京、水野年方に入門。
翌年寛方の雅号を受ける。
35年国華社に入社、仏画の摸写に約十年間従事。
文展・院展などで受賞多数。
法隆寺金堂壁画摸写に従事。
当麻寺天井画を制作。
昭和20年4月16日急逝。享年66。 |
新井勝利
(あらい・しょうり)
1895〜1972 |
明治28年3月6日、東京京橋生れ。
父は美術商新井可翁。
梶田半古の画塾に入門、のち安田靭彦に師事。
5年間、捜真女学校の図画教師を勤める。
海軍報道班員として従軍、南方に赴く。
多摩美術大学教授。日本美術院評議員。
後年は古典文学に取り組む。
昭和47年6月21日歿。享年77。 |
新井石禅
(あらい・せきぜん)
1864〜1927 |
明治・大正期の禅僧(曹洞宗)
元治1年陸奥(福島県)生れ。
12歳で出家、明治12年東京駒込吉祥寺内の
曹洞宗本校に学び、のち曹洞宗大学林学監兼教授。
名古屋の護国院、小田原の最乗寺の住職を経て、
大正9年曹洞宗本山鶴見の総持寺貫主となった。
昭和2年歿。享年65。 |
荒木寛一
(あらき・かんいち)
1827〜1911 |
文政10年5月10日生れ。
名縄。字子正。別号梅隠斎。
父は南画家荒木寛快。
父に学ぶとともに江崎寛斎に師事。
内国絵画共進会で銅賞。
明治44年歿。享年84。
荒木寛友は子息。寛畝は義弟。 |
荒木寛畝
(あらき・かんぽ)
1831〜1915 |
天保2年6月16日、江戸芝生れ。
旧姓田中、幼名光三郎、号達庵。
荒木寛快に師事。
12歳のとき養嗣子となる。
安政6年山内容堂の知遇を得て
土佐藩絵所預りとなる。
帝室技芸員。
南北合派に洋画を加味して
新機軸を出して一派を成し、
花鳥画に秀作を遺す。
大正4年6月2日歿。83歳。
荒木寛一は義兄。 |
荒木寛友
(あらき・かんゆう)
1849〜1920 |
嘉永2年12月、江戸生れ。名鐸。
父は南画家荒木寛一。
初め父につき、のち山本琴谷に入門、南北合派を学ぶ。
福岡の秋月藩主黒田家につかえ、明治維新後は太政官などに出仕。
10年興公職を辞して画業に専念。
日本南画協会会員。日本美術協会会員。
皇室の御所などの襖絵、屏風等を描く。
31年華族女学校教師。33年日本美術協会委員。
大正9年11月23日歿。享年70。 |
荒木月畝
(あらき・げっぽ)
1873〜1934 |
明治6年2月15日、栃木県足利生れ。本名米子。
初め田崎草雲に学び、のち荒木寛畝・十畝に師事。
大正11年東京本郷に白光堂塾研究会(白光会)
を興して多くの子女に日本画を教授する。
13年女性日本画家による翠紅会の結成に会員として参加。
昭和9年11月18日歿。享年61。 |
荒木十畝
(あらき・じっぽ)
1872〜1944 |
明治5年3月15日、長崎県大村生れ。
旧姓朝長、本名悌二郎。初号琴湖。師荒木寛畝。
明治26年師寛畝の娘鈴と結婚、
荒木家の養嗣子となり画号を十畝に改める。
読画会会長、帝国美術院会員。
昭和19年9月11日歿。享年72。 |
荒木探令
(あらき・たんれい)
1857〜1931 |
安政4年1月10日、羽前国(山形県)新庄生れ。
名守純、丈太郎。鍛治橋狩野家の探美に師事。
日本美術協会委員。日本画会結成に評議員・副主任幹事。
美術同志会専務委員。皇室の御用画を制作。
大正5年狩野姓を名乗ることを許され、狩野派の復興に尽力。
昭和6年4月9日歿。享年73。 |
櫟文峰
(あららぎ・ぶんぼう)
1891〜1970 |
明治24年7月16日、岐阜県高山生れ。本名順造。
京都に出、加藤英舟に師事、四條派を学ぶ。
京都市立絵画専門学校別科卒業、橋本関雪に師事。
昭和3年雪庵の雅号を受ける。
寺院からの揮毫の依頼に応じ、師の画塾展に出品する程度で、
世俗的なことに淡白であった。戦後の26年ごろ妻子を京都に残し、
単身で高山に帰郷、画作三昧の生活をおくる。
昭和45年没。享年79。 |
在原古玩
(ありはら・こがん)
1829〜1922 |
文政12年8月4日、江戸小石川生れ。
本姓古屋。名重壽。別号鳩杖翁・昔男軒など。
荒井尚春に師事、土佐派を学ぶ。
日本美術協会会員。日本画会、日本漆工会会員。
大正11年8月13日歿。享年93。 |
阿波野青畝
(あわの・せいほ)
1899〜1991 |
大正・昭和期の俳人。
明治32年2月10日奈良県生れ。本名敏雄。旧姓橋本。
「ホトトギス」派の俳句を学び、昭和初期には
水原秋桜子・山口誓子・高野素十とともに〈4S〉と称され
「ホトトギス」黄金時代を築くのに大いに貢献した。
俳誌「かつらぎ」創刊・主宰。
勲四等瑞宝章受章。
平成3年12月22日歿。享年93。 |
安藤耕斎
(あんどう・こうさい)
1862〜1939 |
文久2年12月8日、信濃国下川路生れ。
本名茂一。初号炯潭(けいたん)。
明治21年初代村会議員、29年下川路村助役、
30年伊那銀行創立発起人、下川路村村長、
32年村長を辞任して下川路郵便局長という職歴の間、
富岡鉄斎に私淑し入門が許され、30年から耕斎の雅号を用いる。
40年代の初め公職を辞して南画の制作に専念。
44年京都に出、鉄斎を訪ね教えを受け、
近隣を遊歴して揮毫をするなど大正15年まで滞在する。
昭和8年個展を日本橋・白木屋で開催、
その後も11年、13年と日本橋・白木屋で鉄斎展を開催
するとともに鉄斎の画風を継いだ自作を出品する。
昭和14年2月3日歿。享年76。 |
安東聖空
(あんどう・せいくう)
1893〜1983 |
書家。明治26年8月19日、兵庫県赤穂郡船坂村梨ケ原生れ
大正3年兵庫県立姫路師範卒業
9年文検習字科合格
11年兵庫県立第一神戸高等女子学校教諭となり20年近く勤務
14年5月正筆会を興し会長となり、月刊「かなとうた」発行
昭和34年日本書芸院会長となり顧問
36年日本芸術院賞受賞
関西かな書道界の重鎮で、戦前は東方書道会に所属し、
戦後日展審査員、新日展評議員など歴任
昭和58年歿。享年91。 |
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飯島光峨
(いいじま・こうが)
1829〜1900 |
文政12年5月、江戸生れ。
名義明、別号後素堂。
沖一峨に師事、南宋画を修める。
同門に佐竹永湖、松本楓湖らがいる。
明治33年2月11日没。享年70。 |
池大雅
(いけ・たいが)
1723〜1776 |
江戸中期の文人画家。
幼名又次郎、のちに勤、耕、無名などと改め、
字は公敏、子職、貨成など。
大雅堂、待賈堂、九霞山樵、三岳道者、霞樵、
玉海、竹居、子井、鳧滸釣叟などの号がある。
享保8年生。京都西陣に生まれたと推定される。
6歳の年、知恩院古門前袋町に移住、ここで香月茅庵に漢文の素読、
7歳の年に川端檀王寺内の清光院一井に書道を学ぶ。
15歳の年にはすでに待賈堂、袖亀堂などと号して扇屋を構え、生計を立てる。
高芙蓉、韓天寿らち親交。
流麗な中に堅牢な構築性を示す独特の書は、
江戸書道史上有数のものである。
また大雅の妻池玉瀾(1728‐84)も閨秀(けいしゆう)画家として著名で、
大雅の教えを受けながらも、その感性豊かな
女性特有の柔和な様式は大いに人気を得た。 安永5年歿。享年54。 |
飯田九一
(いいだ・くいち)
1892〜1970 |
明治25年10月17日、神奈川県横浜市北綱島町生れ。
東京美術学校に入り、寺崎広業、結城素明に指導をうけ、
卒業後川合玉堂に師事。久邇宮邸御居間の格天井の揮毫を拝命。
横浜文化賞、神奈川県文化賞受賞。香蘭会主宰。
昭和45年1月24日歿。 |
猪飼敬所
(いかい・けいしょ)
1761〜1845 |
江戸後期の儒学者。宝暦11年近江生。
名彦博(よしひろ)、幼名安次郎、字敬文。
京都儒学者の代表者
幼少より記憶力に優れ、学を志し岩垣龍渓の門に入る。
のち京都西陣に塾を開き、以後50年間門人の教育にあたる。
また各地で経書を教え、晩年には津藩主の招きで
津に移り、弘化2年ここで85歳の生涯を閉じた。 |
猪飼嘯谷
(いかい・しょうこく)
1881〜1939 |
明治14年4月12日、京都生れ。本名敬眞。通称宇吉。
谷口香喬に師事、歴史画を学ぶ。
京都市立美術工芸学校図案科を卒業、のち助教諭。
青竹会主宰。昭和14年6月16日歿。享年58。 |
生田花朝女
(いくた・かちょうじょ)
1889〜1978 |
明治22年11月22日、大阪市生れ。
本名稔。初号花朝。父は国学者生田南水。
大正2年菅楯彦に師事、大和絵や有職故実などを学ぶ。
のち北野恒富にも指導を受け白耀社に属する。
大阪の風物を描き続け、大阪市民文化賞、大阪府芸術賞受賞。
昭和53年3月29日没。享年88。 |
井口華秋
(いぐち・かしゅう)
1880〜1930 |
明治13年3月、京都(大阪とも)生れ。本名陣三郎。
竹内栖鳳に師事。
西山翠嶂、西村五雲とともに栖鳳塾の三羽烏と言われた。
池田桂仙、林文塘らと自由な制作をめざして日本自由画壇を結成。
昭和5年7月12日没。享年50。 |
池上秀畝
(いけがみ・しゅうほ)
1874〜1944 |
明治7年10月11日、長野県高遠生れ。
本名国次郎。初号国山。父は四條派の画家池上秀華。
荒木寛畝の読画堂塾に入塾、内弟子となる。
画塾伝神洞画塾をおこして主宰。目黒雅叙園壁画、装飾画制作。
雄大華麗な山水画、花鳥画の実力作家として活躍。
昭和19年5月26日没。享年69。
妻豊子も緑畝と号した同門の日本画家。 |
池上文僊
(いけがみ・ぶんせん)
1887〜1921 |
明治20年11月15日、東京生れ。
本名藤五郎。師野村文挙。
四條派を学ぶとともに諸家の画風を研鑽、
仏画、禅画を得意とする。
達磨百図を描き禅画堂の号をおくられる。
大正10年1月19日没。享年33。 |
池沢青峰
(いけざわ・せいほう)
1899〜1960 |
明治32年、大阪市生れ。
本名吉太郎。
師蔦谷龍岬・安田靫彦。
帝展、新文展などで入選。
昭和35年9月20日没。享年61。 |
池田栄廣
(いけだ・えいこう)
1901〜1992 |
明治34年11月26日、広島県生れ。
本名栄。堂本印象画塾東丘社に入塾。
戦後は安田靫彦に師事。
帝展、文展、日展、院展で入選。
日本美術院特待。
平成4年2月25日没。享年90。 |
池田桂仙
(いけだ・けいせん)
1863〜1931 |
文久3年9月2日、伊勢国(三重県)津生れ。
本名勝次郎(政昌とも)。父は南画家雲樵。
京都府画学校に入学(のち退学)
日本南画協会の結成に参加、幹事となる。
日本自由画壇を結成
日本南画院結成
京都南画壇の三元老と称される
文展、博覧会、共進会などで受賞多数。
昭和6年12月27日京都市で没。享年68。 |
池田虹影
(いけだ・こうえい)
1892〜1956 |
明治25年12月16日、岐阜県郡上八幡生れ。
旧姓橋本、本名晴治郎。京都に出、竹内栖鳳に師事。
昭和11年、池田桂仙の姪星子と結婚。
桂仙の未亡人たくが没し、その遺志で池田家を嗣ぐ。
昭和31年9月17日没。享年63。 |
池田恒象
(いけだ・こうしょう)
1915〜1983 |
大正4年8月18日、愛知県生れ。本名勇。
師堂本印象・三輪晁勢。
文展、日展で入選を重ねる。日展会友。
昭和58年6月1日京都市で没。享年67。 |
池田幸太郎
(いけだ・こうたろう)
1895〜1976 |
明治28年3月28日、佐賀県生れ。
川端画学校に学び、東京美術学校日本画科卒業。
師結城素明。東京の風景を描き続ける。
日本画府の理事。昭和51年8月16日没。享年81。 |
池田孤邨
(いけだ・こそん)
1804〜1866 |
江戸後期の画家
文化元年越後生れ。名三信。
酒井抱一の家で働きながら画を学ぶ。
尾形光琳や明の画からも影響を受けた。
慶応2年没。享年63。 |
池田蕉園
(いけだ・しょうえん)
1886〜1917 |
明治19年5月13日、東京神田生れ。
旧姓榊原、本名百合子(ゆりとも記す)。
15歳の時水野年方に入門。
年方没後、川合玉堂に師事。
同門の池田輝方と結婚、おしどり画家として知られる。
博覧会や文展などで多数受賞。
大正6年12月1日没。享年31。 |
池田輝方
(いけだ・てるかた)
1883〜1921 |
明治16年1月(3月とも)4日、東京京橋生れ。本名正四郎。
水野年方の内弟子となり、一時岡山に滞在。
鏑木清方、大野静方らと烏合会結成、巽画会会員。
明治40年川合玉堂に師事。
44年同門の榊原蕉園と結婚。
大正6年妻蕉園を失う。
石井林響らとともに如水会結成に参加。
浮世絵の流れをくむ風俗画家として活躍するが、
長らく肺を患い、大正10年5月6日急逝。享年38。 |
池田遙邨
(いけだ・ようそん)
1895〜1988 |
明治28年11月1日、岡山県生れ。
本名昇一。父の転勤で各地に移り住む。
洋画家松原三五郎の天彩画塾に入塾。
大正2年水彩画による個展を福山で開催、
小野竹喬と出会う。のち日本画に興味をもつ。
竹内栖鳳の画塾竹杖会に入門。遙村と号す。
京都市立絵画専門学校別科卒業、研究科修了。
在学中、京都市立外国語学校仏文科に通う。
大正15年この頃から遙邨の号を用いる。
画塾青塔社を設け、日展評議員となる。
日展顧問。文化功労者。文化勲章受章。
昭和63年9月26日京都市で没。享年92。
日本画家池田道夫は長男。 |
池田洛中
(いけだ・らくちゅう)
1903〜1982 |
明治36年8月31日、京都市生れ。
本名彦太郎。大正8年、加藤英舟に入門、
京都市立絵画専門学校別科卒業、研究科修了。
昭和8年、堂本印象の画塾東丘社入塾。
16年退塾し、川端龍子主宰の青龍社に参加。
昭和57年5月27日京都市で没。享年78。 |
石坂泰三
(いしざか・たいぞう)
1886〜1975 |
大正・昭和期の財界人。
明治19年埼玉県生れ。
逓信省をへて第一生命に入りのち社長に就任。
その間、工業倶楽部専務理事、第一相互貯蓄銀行会長、
生命保険協会理事などの役職を歴任した。
敗戦後公職追放され、解除後、東芝社長のち会長。
その間、生産性本部会長、経団連第2代会長。
日本万国博覧会協会会長、国有財産中央審議会会長、
保険審議会会長、日本原子力事業・埼玉銀行会長のほか、
数十社の取締役・相談役・参与などを兼ね、
工業倶楽部理事長、日経連顧問、経団連
・日本生産性本部名誉会長となった。
昭和50年歿。享年90。 |
泉川白水
(いずみかわ・はくすい)
1872〜1965 |
明治5年10月18日、秋田県横手市四日町下丁生れ。
幼時に尾崎行雄邸に預けられる。本名良之助。
早稲田大政治科中退、群会議員、郡参事員、町会議員。
大正14年武者小路実篤らと煙雲倶楽部を結成。
翌15年新南画を創立し高島屋で個展。
総理大臣賞。県の国宝重要美術調査委員。
横手市文化功労賞。県文化功労章。
俳句・短歌・書画をよくした。
昭和40年2月4日歿。享年94。 |
泉山三六
(いずみやま・さんろく) |
戦後の政治家。明治29年山形県生。
昭和23年第2次吉田内閣の蔵相兼
経済安定本部長官に起用されたが、
予算委員会に泥酔して出席し、
就任後2ヶ月で引責辞職した。
<トラ大臣>の異名をとった。
昭和56年歿。享年86。 |
伊勢門水
(いせ・もんすい)
1859〜1932 |
安政6年2月25日生れ。本名水野宇右衛門、幼名代次郎。
芸名は屋号の「伊勢屋」にちなみ、
さらに本名を「水の上の門」と洒落て門水と号した。
6歳で4世早川幸八に入門。
前田青邨画伯が「銭を出して買いたいと思うのは門水の画だ」と言った。
昭和7年1月15日没。享年74。 |
井芹蘇水
(いぜり・そすい) |
明治15年熊本県生れ。名一二.師山名貫義 |
市河米庵
(いちかわ・べいあん)
1779〜1858 |
安永8年9月16日生。
市河寛斎の子。名三亥、字孔陽、通称小左衛門、
号米庵・亦顛・楽斎・百筆斎・金洞山人・小山林堂・金羽山人。
寛政7年頃、林述斎の門に入り、柴野栗山に学び、
寛政11年、書塾小山林堂を開いた。
文化8年、富山藩に仕え、後に加賀藩に仕えた。
書の門人は5000人、諸侯の門人も200人を越え、
巻菱湖・貫名海屋とともに幕末三筆と称された。
安政5年7月18日没。享年80。 |
伊東紅雲
(いとう・こううん)
1880〜1939 |
明治13年7月11日、東京生れ
本名常辰。師邨田丹陵
土佐派を修め、故実に詳しく
歴史画の制作を続けた
昭和14年4月2日没。享年58。 |
伊藤晴雨
(いとう・せいう)
1882〜1961 |
明治15年3月3日、東京浅草生れ。
本名一(はじめ)、初め静雨と号す。
父は彫金師で、彫刻師に奉公しながら絵を独習、
のち出奔して野沢堤雨に琳派を学ぶ。
明治の末年新聞社で挿絵などを手がけ、
のち松竹で新派の絵看板などを担当し、
大正12年関東大震災後は新国劇に入り、
さらに風俗考証などの著述活動を展開する。
風俗画家としても知られ、若い頃から責め絵、
縛り絵を描き、多くの女性をモデルとしたが
その一人にお葉(佐々木兼代)がいて
後に竹久夢二、藤島武二のモデルとなる。
昭和36年1月28日歿。享年78。 |
伊藤東涯
(いとう・とうがい)
1670〜1738 |
江戸中期の儒学者。
寛文10年伊藤仁斎の長男として京都堀河に生れる。
名長胤、源蔵、号慥々斎。子に東所。
古義堂第2代を継ぐ。
儒学上の東涯の思想は、仁斎に残存した
朱子学的要素を一掃し、仁斎の心情的道徳論を
客観秩序重視の方向に転換して、徂徠学に接近する。
語学・史学・考証学・博物学など、仁斎未踏の分野も東涯によって開拓された。
新井白石、荻生徂徠らとも親交。36年所司代より帯刀許可。
著書は《周易経翼通釈》《訓幼字義》《古今学変》《経史博論》
《制度通》《用字格》《名物六帖》《紹述先生文集》など。
東涯の原稿・日記・門人帳などは天理図書館古義堂文庫に収蔵されている。
元文1年歿。享年69。 |
伊藤博文
(いとう・ひろぶみ)
1841〜1909 |
天保12年9月2日周防国熊毛郡生れ。
松下村塾に入門。
慶応元年、赤間関で高杉晋作と共に挙兵。
明治18年初代内閣総理大臣。
明治33年立憲政友会設立、総裁。
明治42年10月26日韓国ハルビンで狙撃される。享年69。 |
伊東巳代治
(いとう・みよじ)
1857〜1934 |
明治〜昭和初期の官僚政治家
安政4年長崎生れ。
従二位勲一等 伯爵
明治15年 憲法制定準備のため伊藤博文に随行、渡欧
明治31年 第3次伊藤内閣の農商務相
明治32年 枢密顧問官
東京日日新聞社長。天皇制維持に努力
晩年は政友会と通じ幣原外交を非難
若槻礼次郎内閣を崩壊させる
昭和9年2月19日没 |
伊藤明瑞
(いとう・めいずい)
1889〜1948 |
明治22年2月奈良県生。本名宮本正雄。
3歳で草書を自由自在に書いた。
五歳のとき明治神宮の前で御前揮毫する。
明治天皇は大変感心され、
明治の瑞才であると誉められ、
伊藤博文の姓を受け伊藤明瑞の名を賜った。
昭和23年11月13日歿。享年59。 |
伊藤龍涯
(いとう・りゅうがい)
1880〜1960 |
明治13年9月15日、東京八丁堀生れ。
本名繁延(しげのぶ)。
東京美術学校日本画科選科卒業、
寺崎広業に師事。歴史人物画に秀でる。
昭和35年7月31日歿。享年79。 |
伊東祐亨
(いとう・ゆうこう) |
明治期の海軍軍人(元帥)、号碧海。
天保14年生れ。薩摩藩士祐典の子。
神戸の勝海舟の塾に入り航海術を学ぶ。
薩英戦争に参加。維新後、創設期の海軍で、
春日・扶桑などの艦長となり、
明治19年少将、25年中将に進み、
日清戦争には連合艦隊司令長官。
戦後海軍軍令部長となり、31年大将、
日露戦争には大本営海軍幕僚長となった。
39年元帥。陸軍の山縣有朋とならぶ海軍の重鎮で、
薩摩閥の長老として海軍部内に強い藩閥勢力を培った。
大正3年没。享年71。 |
伊藤容真
(いとう・ようしん) |
明治・大正期の日本画家。本名文助。
慶応2年秋田県山本郡山本町森岳生れ。 医師を志し上京するが、画業にいそしむようになる。
菊池容斎門下と言われているが、誤りであろう。
有識故実と大和絵を研究し、容斎に私淑したか、
又は、梶田半古・松本楓湖らに師事したのであろう。
大正10年没。 |
乾南陽
(いぬい・なんよう)
1870〜1940 |
明治3年8月13日、高知県土佐郡生れ。
本名長光。東京美術学校日本画科卒業。
橋本雅邦・山名貫義・下村観山に師事。
明治神宮聖徳記念絵画館壁画作成。
東台邦画会、日本画会会員。
昭和15年6月29日歿。享年69。 |
犬養毅
(いぬかい・つよし)
1855〜1932 |
安政2年、備中国(岡山県)庭瀬藩の郷士の家に生る。
通称は仙次郎,木堂と号した。
慶応義塾に入学。《郵便報知新聞》記者として西南戦争に従軍した。
立憲改進党の結成に参加,86年《朝野新聞》に移る。
第1回総選挙に岡山県第3区から立候補当選,以後第18回総選挙まで連続当選。
42年間にわたって衆議院に議席を保持した。
進歩党の結成に参加,長州閥・自由党に対抗するため醍摩閥に接近し,
第2次松方正義内閣と提携した。
自由・進歩両党が憲政党に合同し隈板(わいはん)内閣が
成立すると,尾崎行雄辞任後の文相となった。
憲政党分裂後は憲政本党筆頭総務に就任し,
いわゆる桂園時代を野党の闘士として送り,
山県系官僚と結んで政権接近を策す改革派に対し,
非改革派を率いて抗争を重ねた。
この間,日本に亡命した金玉均,孫文らを庇護し,中国革命同盟会
結成を援助するなど,大陸問題への強い関心ぶりを示した。
1910年立憲国民党を結成し,大正政変に際しては
桂太郎の新党に党員の過半を奪われたが,政友会の尾崎行雄らと
提携して護憲運動の先頭に立ち,尾崎とともに〈憲政の神様〉と併称された。
しかし第1次山本権兵衛内閣には好意をよせ,
シーメンス事件にもあいまいな態度をとり,
17年寺内内閣の臨時外交調査会に参加して人気を落とした。
18年以降普通選挙を唱え,22年革新抑楽部を結成し,
翌年第2次山本内閣の逓相となった。
24年憲政会,政友会と結んで第2次護憲運動を推進し,
護憲3派内閣の逓相となったが,25年普選法が成立すると
革新抑楽部を政友会へ合同させ,政界を引退した。
しかし後援者の要請でみずからの欠員による補欠選挙に当選,
29年田中義一急死後の政友会総裁に迎えられ,ロンドン条約問題では軍部,
政友会に呼応して浜口内閣の統帥権干犯を攻撃した(統帥権干犯問題)。
31年12月政友会内閣を組織し,金輸出再禁止をおこない,
軍部に同調しつつも満州事変の収拾をはかったが成功せず,
議会政治擁護の主張で軍部急進派の攻撃の的となり,五・一五事件で射殺された。
犬養内閣は第2次大戦前における最後の政党内閣であった。 |
稲塚鳳堂 (いねづか・ほうどう) |
昭和年中の日本画家。
長野県三輪生れ。
師望月金鳳。 動物画を得意とする。 |
井上円了
(いのうえ・えんりょ)
1858〜1919 |
明治期の仏教哲学者。
明治20年、哲学館(東洋大学)創設。
安政5年、新潟県の真宗大谷派の寺に生れる。
幼名岸丸、号甫水。
明治19年「真理金針」、20年「仏教活論序論」を刊行して、
キリスト教を批判し、西欧の観念論哲学・エネルギー論などを
利用して仏に哲学的基礎をあたえようとした。
27年雑誌「東洋哲学」を創刊、32年には「破唯物論」を刊行するなど
精力的に執筆活動をつづけ、仏教と東洋哲学の啓蒙につとめた。
大正8年、中国巡遊中に大連で客死した。62歳。
|
井上馨
(いのうえ・かおる)
1835〜1915 |
天保6年生れ。幕末・維新〜大正初期の政治家。
財界とくに三井財閥との縁が深い。
長州藩士の井上家は田地1町、畑4〜5反をもつ100石の地侍であったが、
彼は幕末期一時志道(しじ)家の養子となり、のち井上家に復帰。
聞多の名は1860年(万延1)、藩主毛利敬親(たかちか)の
小姓役のとき藩主からもらったものである。号は世外。
明倫館に学び、また蘭学、英学、砲術などを修業し、
高杉晋作らと尊攘運動に参加した。
藩命で伊藤博文ら4名とともにロンドンへ密航したが、
翌64年(元治1)四国連合艦隊の下関攻撃計画を知り、
急きょ伊藤と帰国、幕府の長州征伐と連合艦隊攻撃の
はざまにあった長州藩のために講和を周旋した。
この間、反対派に襲われて重傷、母の看護で一命をとりとめた。
65年(慶応1)奇兵諸隊の鴻城軍総督となり、以後長州藩討幕運動に参画、
68年(明治1)以後の新政府にあっては、参与、外国事務掛、
会計官判事、造幣頭、民部大輔、大蔵大輔となり、
73年、各省の政費増加を不可として渋沢栄一とともに辞職した。
また、尾去沢銅山事件などに関与し、先収会社などをおこして実業に手をのばした。
元老院議官、特命副全権弁理大使として日朝修好条規(江華条約)を結ぶ。
参議兼工部縁、法制局長官、外務縁など。
85年の第1次伊藤博文内閣では外相として欧化政策をとり、批判をうけて辞職。
その後、農商務、内務、大蔵の各大臣を歴任、1901年には組閣の
命をうけたが失敗し、晩年は元老の一人として政界に臨んだ。
大正4年歿。享年81。 |
井上金峨
(いのうえ・きんが)
1732〜1784 |
江戸中期の儒者。折衷学派。
名は立元、字は純縁、通称は文平、金峨は号。
享保17年江戸生。父は常陸笠間藩医。
はじめ川口熊峰に仁斎学、ついで井上蘭台に徂徠学を学んだが、
やがて一家言を立てて折衷学の提唱者の一人となった。
一生民間にあって、門下に亀田鵬斎、吉田篁各、山本北山らがいた。
天明4年歿。享年53。
著書に《大学古義》《易学折衷》《経義緒言》《経義折衷》
《読学則》《師弁》《匡正録》《霞城講義》などのほか、
文集《焦余稿》,随筆《病間長語》などがある。 |
今井景樹
(いまい・けいじゅ)
1891〜1965 |
明治24年、三重県鈴鹿郡関町生れ。
名は康。師今尾景年。円山派を修める。
昭和42年歿。享年77。 |
今尾景年
(いまお・けいねん)
1845〜1924 |
弘化2年8月12日京都生。
幼名猪三郎、名永勤、字子裕、号聊自楽・養素斎。
浮世絵師梅川東居に学び、のち鈴木百年に入門。
友禅図案に従事しながら力をつける。
帝室技芸員。
華麗で精緻な花鳥画は国内外から高い評価を得た。
大正13年10月5日京都市で没。享年79。 |
今中素友
(いまなか・そゆう)
1886〜1959 |
明治19年1月10日、福岡県生れ。
本名善蔵、別号知章・草江軒など。
初め博多の上田鉄耕に学び、
画家を志し上京して川合玉堂に師事。
文展・帝展などで入選多数。
昭和34年8月1日歿。享年73。 |
井村常山
(いむら・じょうざん)
1843〜1925 |
天保14年三河(愛知県)生れ。名貫一。
明治初年には名古屋で警官をしていたが、
後に茨城県鹿島根本寺の住職となり空潭といった。
書は大竹蒋塘に学び、自ら一家をなす。
画は山本梅荘に、なお中国の「願若波」について六法をうけ、
大いに師の気格に似て、南画の山水を得意とした。
一旦郷里に帰ったが、再び上京し、また鹿島の根本寺に着て
ここに一生を終える。大正14年。享年85。 |
入江為守
(いりえ・ためもり) |
大正・昭和期の御歌所長
皇太后宮大夫、子爵
明治元年、京都の冷泉家に生れる
歌学を父に、漢詩を神田香巌・国府青崖らに学ぶ |
岩倉具視
(いわくら・ともみ)
1825〜1883 |
幕末・維新期の公卿・政治家。幼名周丸(かねまる)、号対岳。
中納言堀川康親の次男、岩倉具慶の養嗣子。
安政元年、孝明天皇の侍従となる。
公武合体を唱える。王政復古を画策。
新政府において,議定,副総裁,権大納言,
大納言,右大臣など,中枢に位置した。
この間,69年(明治2)には正二位に叙せられ,
永世禄5000石を下賜されている。
71年,特命全権大使として木戸孝允,大久保利通,
伊藤博文らとともに米欧に出かけて12ヵ国を回覧,
アメリカではグラント大統領に謁し,ドイツでは
ビスマルクやモルトケと会見したりした(岩倉使節団)。
従一位、勲一等、旭日大綬章、華族会館長。
年第十五銀行(華族銀行)、81年日本鉄道会社創設。
外遊,士族反乱,対朝鮮・台湾問題,〈漸次国家立憲ノ政体〉
樹立の詔勅などの過程で,天皇制の制度的確立を念頭におき,
自由民権運動とはまっこうから対抗した。
明治憲法の基本構想をつくり,明治14年の政変後,
政局の主導権を握った伊藤博文をドイツに派遣,
明治憲法起草の準備にあたらせたが,
83年(明治16年)病死した。国葬,翌年正一位を追贈。
|
岩崎巴人
(いわさき・はじん)
1917〜 |
異色日本画家・禅林寺派僧侶。
大正6年、東京都生れ。名は弥寿彦。
川端画学校夜間部入学、日本画専攻。
師小林古径。
昭和16年戦争に召集され、21年除隊。
昭和52年僧籍に入る。
千葉県館山市に住す。 |
巌谷一六
(いわや・いちろく) |
明治期の政治家・書家。天保5年2月1日近江生れ。
水口藩の侍医の子。名は修、字誠卿、別号迂堂・古梅など。
京都で医学を学ぶ傍ら書を中沢雪城に学ぶ。
安政元年帰郷し勤王を唱え、明治元年徴士議政官史官。
24年貴族院議員。初め巻菱湖や趙孟ふの書風を学ぶが、
13年楊守敬の来朝時教えを受け、書風は一変し、一六流をなした。
明治38年7月11日歿。享年71。 |
巌谷小波
(いわや・さざなみ)
1870〜1933 |
明治・大正期の小説家・童話作家。
明治3年、東京生れ。本名季雄。
尾崎紅葉らの<硯友社>同人として
小説などを書き新進作家として知られたが、
明治24年創作童話の「こがね丸」
を発表し新生面を開いた。
博文館に入社。
「日本昔噺」や「日本お伽噺」を出版。
文部省の各種委員として活躍。
童話口演、後進の養成など児童
文学に貢献した功績は大きい。
楽天居の俳号をもつ俳人でもある。
昭和8年没。享年64。 |
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上田義山
(うえだ・ぎざん)
1891〜1972 |
臨済宗大徳寺派510世。
京都大徳寺塔頭高桐院に住す。
室号無為室・閑雲室。 |
上原古年
(うえはら・こねん)
1877〜1940 |
明治10年12月16日、東京浅草生れ。
本名千之助。梶田半古・松本楓湖に師事。
紅児会会員、巽画会評議員、国画玉成会幹事。
昭和15年歿。享年62。 |
植中直斎
(うえなか・ちょくさい)
1885〜1977 |
明治18年10月1日、奈良県山辺郡生れ。
本名直治、別号無畏鎧。
師深田直斎・橋本雅邦・山元春挙。
鎌倉で宗教家田中智学の教えを受け、西宮で療養。
京都大学で沢村専太郎に美術史の指導を受ける。
日本自由画壇結成。帝展推薦。
歴史風俗画を得意とした。
昭和52年8月12日没。享年91。 |
植村和堂
(うえむら・わどう)
1906〜2002 |
明治39年東京生れ。
相沢春洋・益田石華・田中親美に師事。
毎日書道会名誉会員。かな書道作家協会会長。
NHK通信講座「写経」講師。筆の里工房「写経」講師。
清和書道会主宰。
平成12年7月歿。享年97。 |
臼田亜浪
(うすだ・あろう)
1879〜1951 |
大正・昭和期の俳人。
長野県生れ。本名卯一郎。
はじめ新聞界に入り、「やまと新聞」編集長などとなっ
たが、俳詩「石楠」を創刊・主宰し、俳句に専念した。
高浜虚子や大須賀乙字の影響を受
けながら独自の俳論を展開した。
その特徴は形式的には俳句17音に立脚し一句
一章という一行詩をそこに達成しようとしたこと、
内容的には自然との合一を図る<自然感>
の主張と<まこと>の探求があげられる。
ホトトギス派や新傾向派を批判し、一派をなした。
昭和26年歿。享年73。 |
内田良平
(うちだ・りょうへい)
1874〜1937 |
国家主義(右翼)運動の指導者。明治7年、福岡県生れ。
玄洋社社長平岡浩太郎の甥。玄洋社幹部内田良五郎の三男。
黒竜会の創立者。対露同志会に参加し、ロシアとの開戦を主張。
日韓合邦推進団体である一進会とともに、日韓併合実現に奔走。
辛亥革命に当たっては、宮崎滔天らと有隣会を組織。
満蒙独立構想を主張、大正デモクラシー運動高揚期には
白虹事件(1918)をはじめ、デモクラシー運動の排撃につとめた。
宮中某重大事件・ロシア飢饉救済運動・排日移民法反対などで活躍。
加藤高明首相暗殺未遂事件で入獄。
大日本生産党を結成し、総裁。満蒙独立運動を推進した。
昭和12年歿。享年64。 |
海上胤平
(うながみ・たねひら)
1829〜1916 |
明治時代の歌人。
文政12年、下総(千葉県)海上郡三川村生れ。
賢胤の三子。通称六郎、別号椎園。
初め山岡鉄舟、千葉周作の門に剣を学び、
また諸国に武者修行する。
のち紀州候に仕え、加納諸平の下に国学を究めた。
明治2年水原縣(越後)に出仕し、
のち山形地方裁判所判事補など歴任。
晩年には家塾を開いて、歌学の教授に没頭。
大正5年4月2日歿。享年88。 |
宇野信夫
(うの・のぶお)
1904〜 |
昭和期の劇作家。
明治37年東京生れ。慶応大卒。
新作歌舞伎の作者として知られた。
6代目尾上菊五郎との提携は特に強かった。
江戸下町情緒の人情話と怪談的趣向がみられる。 |
浦上春琴
(うらがみ・しゅんきん)
1779〜1846 |
安永8年生れ。浦上玉堂の子。名選。字伯挙。
通称喜一郎、別号睡庵・二卿・文鏡亭など。
父玉堂に教えを受ける。
各地の名勝を歩き、写生と、また古画蹟の研究
とで父におとらぬ画風をもって一家をなした。
弘化3年5月2日歿。享年68。 |
雲華大含
(うんげ・だいふく)
1773〜1850 |
東本願寺派の僧
安永2年豊前の満徳寺生れ
別号鴻雪舎・染香人・枳車園など。
京都に出て仏教の学問を学び、雲華院に住した。
天保5年には高倉学寮の講師となり、
当時の南画家竹田や木米などと交って
自分も詩文書画を得意として、
特に墨蘭がすぐれていた。
嘉永3年10月8日没。享年78。 |
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江木翼
(えぎ・たすく) |
大正・昭和期の政治家。
明治6年山口県生れ。東京大学卒業。
神奈川県事務官、法制局参事官を歴任、拓殖局部長。
第3次桂内閣、大隈内閣、加藤護憲三派内閣の書記官長。
勅撰貴院議員、法学博士、加藤高明内閣の法相、
浜口内閣、若槻内閣の鉄道相。
読書家として知られ、将来立憲民政党の総裁と目されていた。
昭和7年没。享年60。 |
江馬天江
(えま・てんこう)
1825〜1901 |
勤皇の詩人
文政8年11月3日、滋賀県坂田郡(長浜市)生れ。
大阪に赴き医師江馬榴園の養子となる。
緒方洪庵に洋書を学び、梁川星巌に詩を学ぶ。
明治34年3月8日没。享年77。
文人画家の板倉槐堂は実兄。 |
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大石順教
(おおいし・じゅんきょう)
1888〜1968 |
真言宗尼僧、社会事業家、書家
明治21年大阪道頓堀の鮨屋生れ。
妻吉と名乗って芸者をしていたとき、
養父の起した明治犯罪史上有名な
堀江六人切り事件の巻添え
になり両腕を切り落とされた。
その後旅回りの三遊亭金馬一座に加わった頃、
クチバシですべてをするカナリヤを見て発奮、
口に筆をくわえて書画を学んだ。
のちに日本画家山口草平と結婚、
一男一女をもうけたが37歳で離別。
その間に日本画の手ほどきを受けた。
昭和8年高野山で金山穆韶について得度、
11年真言宗山階派勧修寺の塔頭として
仏光院を建立、住職となり、同派宗会議員もつとめた。
身障者の教育・社会復帰に乗出し、更生施設「憩いの家」を建てて
身障者の生活の面倒をみる一方、お茶、お花、習字などを教えた。
絵画は南画が主で、31年日展に入選、41年西独ミュンヘンで
個展を開くなど、世界身体障害者芸術家協会会員として活躍。
昭和43年4月21日没。享年81。 |
大江良起
(おおえ・りょうき)
1874〜? |
明治7年京都生れ
師幸野楳嶺
舞妓などを主に描いた
可愛らしい画をよくする |
大木遠吉
(おおき・えんきち)
1871〜1926 |
明治・大正期の政治家。大木喬任の長男。
幼児、病弱のため通学しなかった。
明治33年爵位(伯爵)をつぎ貴院議員となる。
政友会の原敬と親交を結び、政界で活躍、
大正9年原内閣の司法相となる。
またアジア問題にも関心をもち、東京同交会、
国民外交同盟会などにも関係し、
貴院内部で異色な存在であった。
大正15年歿。享年56。 |
大口鯛二
(おおぐち・たいじ)
1864〜1920 |
元治元年4月7日、名古屋生れ。
名鯛二、号周魚・旅師・多比之など。
初め伊東祐命につき、明治22年
宮内省御歌所に入ってからは、
高崎正風の教えをうけた。
千種会創設。門下5万人。
本願寺三十六人集を発見。
愛弟子に尾上柴舟(八郎)。
大正9年10月13日歿。享年57。 |
大河内夜江
(おおこうち・やこう)
1893〜1957 |
明治26年1月7日山梨県東山梨郡生れ。
本名政宜(せいぎ)。菊池契月に師事。
京都市立絵画専門学校選科卒業。
帝展、美術展などで受賞多数。
昭和32年11月27日没。享年64。 |
大須賀乙字
(おおすが・おつじ)
1881〜1920 |
明治・大正期の俳人
明治14年、福島県生れ。本名績(いさお)。
1904年に東京帝大へ進学、
同時期に河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)に入門
〈雁鳴いて大粒な雨落しけり〉などの句をつくり,喜谷六花、
小沢碧童とともに碧梧桐門の三羽烏と称された。
08年2月,評論〈俳句界の新傾向〉を発表,最近の句には
従来の直叙的な表現にかわる暗示的な傾向がある,と指摘した。
碧梧桐はこの意見を,自我を表現する俳句の新しい傾向として
受けとり,新傾向俳句運動を展開した。だが乙字は,自説の根拠を
俳諧の象徴的表現に求め,伝統を重視して碧梧桐に対立した。
大正9年歿、享年40。 |
太田秋民
(おおた・しゅうみん)
1884〜1950 |
明治17年福島県生れ。本名益三郎。
東京美術学校日本画科卒業。
師荒木寛畝。
文展、帝展に入選多数。
昭和25年6月15日歿。享年66。 |
太田道灌
(おおた・どうかん)
1432〜1486 |
室町後期の武将。
永享4年生れ。太田道真(資清)の子。
幼名鶴千代、元服して持資(もちすけ)のち資長(すけなが)。
仏門に帰依して以降は道灌の号をもちいた。
左衛門大夫とも称した。姓は源姓を称した。
官位は正五位下備中守。
扇谷上杉家の家臣
江戸城・川越城を築城
古今の兵書を読み、世に〈軍法師範〉と称され、
とくに〈足軽の軍法〉を得意とした。
和歌にも通じ、建仁寺の僧や万里集九
らを江戸城に招いて歌会を催した。
当主の上杉定正によって暗殺された。
文明18年7月26日歿。享年54。 |
大田南畝
(おおた・なんぽ)
1749〜1823 |
江戸後期の狂歌師。寛延2年生れ。
本名覃。通称直次郎。号を蜀山人、
四方赤良、杏花園、晩桜山人など多数有り。
17歳で家督を継ぐ。
松崎観海・沢田東江に師事。
文政6年4月6日歿。享年75。 |
大田垣蓮月
(おおたがき・れんげつ)
1791〜1875 |
幕末期の女流歌人。
寛政3年伊賀国上野藩主藤堂氏の娘。
名誠(のぶ)、号連月。
歌道は千種有功に学び、武技にも長じた。
出家して京都に住む。
晩年は京都西賀茂の神光院境内に住んだ。
明治8年歿。享年85。 |
大谷光暢
(おおたに・こうちょう) |
東本願寺24世。
父光演(句佛)。
平成5年歿。享年90。 |
大谷光演
(おおたに・こうえん)
1875〜1943 |
明治後期の東本願寺法主・俳人。
真宗大谷派第23世。
明治8年、京都生れ。第2世光瑩(現如)の次男。
幼名光養麿、法名彰如、俳号句仏。
明治41年法主となるが、鉱山事業に失敗して、
大正14年退く。書画をよくする文人で、
とくに俳句はホトトギス系で河東碧梧桐についた。
昭和18年没。享年69。 |
大智勝観
(おおち・しょうかん)
1882〜1958 |
明治15年1月1日、愛媛県今治生れ。
本名大智恒一(つねいち)
東京美術学校日本画科卒業。
日露戦争に従軍、負傷して復員、
帰郷して治療、再び上京する。
文展、院展などで受賞。日展参事。
昭和33年8月8日東京杉並区で没。享年76。 |
大鳥圭介
(おおとり・けいすけ)
1832〜1911 |
天保3年、兵庫県赤穂郡生れ。
幕末の軍人,明治の政治家。
播州赤穂の医師の子で1866年(慶応2)幕臣となった。
諱(いみな)は純章,号は如風。
漢学を備前の閑谷黌,蘭学を大坂の適塾に学び,
さらに江戸に出て江川英敏の塾に身を寄せて幕府に推薦された。
歩兵差図役頭取,歩兵頭と陸軍幹部の道を歩む。
江戸開城を不満として幕兵を率いて脱走,宇都宮,会津に転戦,
榎本武揚と合流して北海道に至った(五稜郭の戦)。
69年(明治2)降伏入獄,72年出獄すると開拓使御用掛,
大蔵小丞,陸軍省出仕,工部省出仕等を経て82年工部
大学長に就任した。学習院長,華族女学校長も務める。
89年特命全権公使として清国に駐在,93年朝鮮駐在公使を兼ねた。
日清戦争の始まる前,病気帰国中だった圭介は
命を帯びて朝鮮に急行,内政改革要求をつきつけて
王宮に兵を入れ,開戦の口実をつくる役割を果たした。
戦争が始まると任を解かれ帰国して枢密顧問官,1900年男爵となった。
明治44年没。享年80。 |
大西良慶
(おおにし・りょうけい)
1875〜1983 |
清水寺貫主。北法相宗の僧。
明治8年12月21日、奈良県生れ。
号無隠。
奈良興福寺の千早定朝に従い出家。
法隆寺の佐伯定胤に唯識を学ぶ。
興福寺231世。法相宗管長。
清水寺を本山とする北法相宗設立、初代管長。
仏教会の要職を歴任。
昭和58年2月15日没。享年108。
余談;昭和51年鹿児島に生れた、
日本初の五つ子の名付け親としても有名。 |
大野伴睦
(おおの・ばんぼく)
1890〜1964 |
戦後保守党の党人政治家。明治23年岐阜県生れ。
明大専門部生のとき護憲運動で騒擾罪に問われる。
そのまま政友会の院外団員となり、1922年東京市会議員。
30年岐阜県から衆議院議員に当選、
翼賛選挙で落選したほかは連続13回当選。
この間、吉田茂内閣・鳩山一郎内閣を、
主として自由党、自民党の総務役として支える。
衆議院議長2回。岸信介内閣のあと、党人派を総結集して
総裁選に挑んだが、官僚出身の池田勇人に敗れた。
党内派閥の力関係を巧みにあやつる寝わざ、腹芸を得意とした。
昭和39年歿。享年75。
|
大野百練
(おおの・ひゃくれん) |
元治元年、岐阜県大垣戸田藩士の子として生れる。
名鉄之助、別号野鉄・水竹居山人など。
叔父斎藤百竹に書を学び、後に漢学を藩学の
儒官野村藤蔭につき、漢詩を菱田海鴎に学んだ。 父に早く死に別れたので、14歳で小学校の教員になり
家計を助けながら苦学し、明治29年33歳の時から
大垣中学校の教諭となり、24年間奉職した。
大正11年3月、東京平和博覧会で銀牌。
大正14年、日本書道作振会審査員、
泰東書道院創設で総務、審査員。
その他日本美術協会、平安書道会、
関西書道会などの審査員。
昭和13年、日満書道親善使節として渡満。
興亜書道連盟理事・総務。
昭和16年2月26日没。享年78。 |
大林千萬樹
(おおばやし・ちまき)
1887〜1959 |
明治20年1月、岡山県生れ。
師富岡永洗・川合玉堂。
巽画会会員。東京勧業博覧会受賞。
第1回院展から第4回院展まで美人画で連続入選。
日本美術院院友。奈良、名古屋、京都に転居。
戦後は各地に移住する。
昭和34年4月26日没。享年72。 |
大町桂月
(おおまち・けいげつ)
1869〜1925 |
明治・大正期の詩人・随筆家。
明治2年、高知県生れ。本名芳衛。
東大在学中「帝国文学」の編集委員
となり同誌上に新体詩や評論を発表。
明治29年同窓の塩井雨江・武島羽衣と共著で
「美文韻文花紅葉」を出版、<大学派>と呼ばれた。
地方の中学教師を務めた後、博文館に入社、「文芸倶楽部」
「太陽」などに随筆を書き美文書家として知られた。
晩年は旅を愛し、遠く朝鮮・満州にも赴き、
独特な美文で書かれた,紀行文は広く読まれた。
大正14年没。享年57。 |
大森曹玄
(おおもり・そうげん) |
臨済宗天竜寺派中野高歩院で「鉄舟会」師家として
剣・禅・書を指導した花園大学長等歴任。
山梨県生れ。号的翁。 |
大八木也香
(おおやぎ・やこう) |
大正期の日本画家。
明治7年6月27日東京入谷生れ。也香楊壽生の子。
名義之助、別号金鏡、正香、大文、居を善楽堂と称す。
三田利徳に就き漢学を修め、画を父及び佐竹永湖に学び、
専ら文晁派を修め、山水を能する。
美術協会・日本画会などで受賞多数。
東宮職及び宮内省御用品各1回。
帝国絵画協会、日本美術協会会員。
酒、音楽、謡曲を嗜好とした。 |
岡倉秋水
(おかくら・しゅうすい)
1868〜1950 |
明治元年12月11日、福井生れ。本名覚平。
岡倉天心の甥。
狩野芳崖に師事。
東京美術学校絵画科に入学するが、のち
東京高等女子師範学校の図書教諭となる。
明治30年から45年まで学習院教授。
日月会結成、主任幹事。
関東大震災後、京都に移住。
昭和25年12月30日没。享年82。 |
岡不崩
(おか・ふほう)
|
明治2年7月、福井県大野町生れ。
本姓名和、幼名又太郎、字吉壽、別号南山亭・楽只園
狩野芳崖に師事し北宗派を究め、特に山水・花図を能くする。
東京美術学校設立に際し第1回に入学。
翌年抜推されて高等師範学校講師となる。
同士と共に真美会を創立。
全国連合絵画展覧会審査員。
大東絵画協会評議員理事。
帝国絵画協会会員。
没年不詳。
|
岡田蘇水
(おかだ・そすい)
1880〜1942 |
明治13年6月2日栃木県田辺町生れ。
本名喜一郎(喜市郎とも)
33年上京、佐竹永湖に師事。
日本美術協会展、日本画会展、日本南宋画会展など
で受賞を重ね、日本美術協会委員となる。
40年東京勧業博覧会に《観瀑》で褒状。
大正元年第6回文展の第一科に《楳花書屋》で初入選。
以後6年第11回文展まで連続入選する。
昭和17年10月3日東京上野で没。享年62。 |
岡田華郷
(おかだ・かきょう)
1894〜1981 |
明治27年、東京生まれ。
本名源次郎。拈華荘とも号す。
吉川霊華に師事、大和絵を学ぶ。
大正14年第6回帝展に<西王母>で入選、
唯一の官展出品となる。
昭和56年歿。享年87。 |
尾形月耕
(おがた・げっこう)
1859〜1920 |
安政6年9月15日、江戸京橋生れ。
本姓鏡、のち田井。本名正之助。
独学で日本画を学び、新聞挿絵や
錦絵でその名を知られるようになる。
明治24年岡倉天心らの日本青年絵画協会の
結成に参加、日本美術院の創立に正員として参加。
美術展や博覧会などで受賞多数。
大正9年10月1日没。享年61。 |
尾形月山
(おがた・げつさん)
1887〜1967 |
明治20年9月10日、東京京橋生。
本姓田井、本名正子(まさつぐ)、初め月三と号す。
父尾形月耕に手ほどきを受け、その後は独学する。
6歳にして展覧会に出品する。
大正9年から月山と号す。
伊豆修善寺に疎開し、戦後もこの地で画作する。
昭和42年12月27日没。享年80。 |
岡野知十
(おかの・ちじゅう)
1860〜1932 |
安政7年、北海道日高生れ。
本名敬胤、通称正之助、号正味、旧姓木川。
明治28年、毎日新聞に『俳壇風聞記』を連載、
当時の俳壇を新派の子規派をはじめ尾崎紅葉らの新派、
また伝統旧派までを広く見渡しながら興趣深く語る。
これで評判を得『半面 』を創刊、新々派と称し半面派を形成した。
俳句の史的研究をし、多くの俳書を収集。
その蔵書は東大図書館に「知十文庫」として収められている。
フランス文学者岡野馨は彼の実子。
明治34年『半面』創刊。
著書『俳諧と画趣』『蕪村その他』『味余』(小唄集)、
『晋基角』『雨華抱一』『俳諧風聞記』『湯島法楽』、
編著『一茶大江丸全集』『也有全集』など。
没後、句集『鶯日』が刊行される。
昭和7年8月13日没。享年73。 |
岡本一平
(おかもと・いっぺい)
1886〜1948 |
大正・昭和前期の漫画家。
明治19年函館生れ。東京美術学校卒業。
妻かの子は小説家、子太郎は洋画家。
在学中、藤島武二に師事。
東京朝日新聞社に入社し、漫画を描いた。
その描写は人間生活の機微にふれ、
その独特な漫文とともに多くの人々に親しまれ、
政治漫画に一時期を画した。
妻この子と共に参禅などして仏教の影響を受けた。
昭和23年没。享年63。 |
岡本亮彦
(おかもと・すけひこ)
1823〜1883 |
文政6年生れ。旧姓小栗、名澄、字子朗、
通称司馬、別号畔生・暁翠園など。
尾州半田の郷土小栗半七の子で、
京都に行って岡本豊彦の門に学び、
山水花鳥を得意とし、
岡本豊彦没後、岡本姓をついだ。
明治16年11月18日、金沢旅行中没。61歳。 |
岡本秋暉
(おかもと・しゅうき)
1785〜1862 |
画家。天明5年生れ。字秋翁、通称祐之丞。
小田原藩大久保候の家臣で、画を大西圭斎に師事。
渡辺華山と親交。花鳥が得意。
文久2年9月4日。享年78。 |
小川瓦木
(おがわ・がぼく)
|
現代書家。墨象系作家。
明治44年千葉県生。師上田桑鳩。
東洋書芸術院会長、一煌会主宰、
東洋書人連合代表、産経国際書会顧問
|
小川千甕
(おがわ・せんよう) |
明治15年10月3日、京都市生れ。本名多三郎。
仏画師北村敬重の徒弟となり、かたわら
関西美術院で浅井忠に洋画を学び、 浅井の没後は京都市立陶磁器試験場の技手となるが、
上京し挿絵画家の道を歩み、小説家小川煙村の縁で、
『ホトトギス』の挿絵も制作する。
平福百穂・小川芋銭らと珊瑚会を結成。
南画家への通を辿り大東南宗院委員となる。
詩歌や書にも優れ、島木赤彦に
学んで『アララギ』に短歌を寄せる。
昭和46年2月8日没。享年88。
|
小川平吉
(おがわ・へいきち)
1869〜1942 |
明治2年、長野県生れ。
帝国大学法科大学卒業後,弁護士を開業。
1901年近衛篤麿の東亜同文書院に
参加し,03年以降代議士当選10回。
日露戦争に際し対露同志会の先頭にたって主戦論を展開し,
講和条約反対の日比谷焼打事件で一時下獄。
原敬総裁下の立憲政友会の幹事,総務委員,
国勢院総裁を経て,加藤高明内閣の法相,
田中義一内閣の鉄相をつとめる。
29年在任中の五私鉄疑獄,
売勲事件で実刑を受け政界を引退した。
昭和17年歿。享年74。 |
荻生天泉
(おぎゅう・てんせん)
1882〜1947 |
明治15年4月28日、福島県二本松生れ。
本名守俊。東京美術学校日本画科卒。
橋本雅邦に師事、狩野派を学ぶ。
第1回文展で入選、その後双葉会展、
巽画会展、美術研精会展で受賞を重ねる。
美術研精会委員、双葉会幹事をつとめる。
以後帝展に連続10回入選、ほか官展で活躍。
昭和22年10月9日没。享年65。 |
荻原井泉水
(おぎわら・せいせんすい) |
大正・昭和期の俳人。
明治17年6月16日、東京生れ。
本名藤吉。東京大学言語学科卒業。
中学時代、老鼠堂永機の「俳諧自在」
によって俳句をつくりはじめる。
「読売新聞」俳壇、秋声会、半面派、日本派などに
関心をよせ、河東碧梧桐の新傾向俳句運動に参加。
ゲーテの短詩、シラーの2行詩に心酔し、新しい俳句をめざした。
象徴的、心境的、求心的、散文詩的な
多様な傾向を示し、これを層雲調と呼んだ。
「原泉」「長流」「大江」「四海」の4句集が、
井泉水の生涯の句をさぐるに便利なものである。
芸術院会員。種田山頭火・尾崎放哉の師にあたる。
昭和51年5月20日没。享年93。 |
奥谷秋石
(おくたに・しゅうせき)
1871〜1936 |
明治4年、大阪生れ。本名常次郎。
洗耳洞、曲水園などとも号す。
初め重春塘、のち森寛斎に
師事し円山派を学ぶ。
山水得意。
昭和11年歿。享年65。 |
奥原晴湖
(おくはら・せいこ)
1837〜1913 |
天保8年8月15日、下総国(千葉県)古河生れ。
旧姓池田、幼名節、初め谷文晁の門人で
古河藩士牧田水石に師事して石芳と号す。
元治2年江戸に遊学するため関宿藩士
奥原家の養女となり、江戸に出る。
号を晴湖と改め、上野に住まいを定め墨吐煙雲楼と名付ける。
慶応4年彰義隊の灘を避けて一時熊谷に移るが間もなく戻る。
明治維新後は鄭板橋に私淑。
明治4年画塾を開設、多くの門人が入門する。
5年皇后御前で揮毫、24年熊谷に隠棲する。
明治期を代表する女性画家の一人として活躍。
大正2年7月28日歿。享年75。 |
尾崎行雄
(おざき・いくお)
1859〜1954 |
日本近代の代表的自由主義政治家。号は咢堂。
安政6年、神奈川県津久井町生れ。
慶応義塾中退後新聞記者となり,1882年立憲改進党創立に参画。
87年の三大事件建白運動では,保安条例による東京退去処分を受けた。
90年第1回総選挙に三重県から当選,以後25回連続当選,代議士生活63年。
98年大隈重信内閣の文相となったが,日本に
共和制を想定した演説が不敬と非難されて辞職。
1900年立憲政友会の創立に参加。03‐12年東京市長。
13年第1次護憲運動には犬養毅とともに桂太郎内閣
打倒の陣頭に立ち〈護憲の神〉とうたわれた。
桂内閣打倒後政友会の山本権兵衛内閣支持に抗議して脱党,中正会を結成。
14年大隈内閣の法相に就任,
16年憲政会に加わる。
第1次世界大戦後いちはやく普通選挙運動の先頭に立ち,
労働者のデモに加わり,憲政会幹部と対立。
21年脱党,翌年革新抑楽部に加わる。
25年治安維持法制定に最後まで反対。
同年革新抑楽部解体後は無所属となった。
以後、軍国主義化に反対,戦時下の43年翼賛選挙を攻撃,
不敬罪で告発されたが翌年大審院で無罪となった。
53年の総選挙で落選し引退,国会から名誉議員の称号を贈られた。
60年,尾崎記念館(現在は衆議院憲政記念館)が国会前に建設。
昭和29年歿。享年95。 |
小沢蘆庵
(おざわ・ろあん) |
江戸中・後期の歌人
享保8年、尾張国生れ
冷泉為村に和歌を学ぶが破門
京都において和歌四天王と称された
享和元年没。享年79。 |
尾関宗園
(おぜき・そうえん)
1932〜 |
奈良県生れ。号桃林。
国立奈良教育大学国文学部卒業
奈良大和郡山慈光院住職
尾関南岳和尚に師事
33歳で大徳寺塔頭大仙院住職になる
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小田海僊
(おだ・かいせん)
1785〜1862 |
江戸後期の画家。
天明5年、長州赤間関生れ。
通称良平、字巨海・百合など。
京都に出て松村呉春に学び、
同門の松村景文・岡本豊彦と名声を争った。
後に友人頼山陽の影響を受けて南画に転じる。
中国元明時代の古画跡を研究し一家をなした。
弟子に大庭学僊・羽様西崖らがいる。
文久2年8月24日没。享年78。 |
織田観潮
(おだ・かんちょう) |
明治22年12月31日、東京根岸生まれ。本名定次。
尾竹国観に師事、大和絵を学ぶ。
帝展改組では第一部会の結成に参加。
歴史画、特に物語の世界を描き続ける。
昭和36年歿。享年71。 |
尾竹国観
(おだけ・こっかん)
1880〜1945 |
明治13年4月21日、新潟県生れ。
本名亀吉。兄の越堂、竹坡ともに日本画家。
高橋太華、小堀鞆音に師事して歴史画を学ぶ。
院展、文展、勧業博覧会などで受賞多数。
昭和20年5月18日、疎開先で没。享年65。 |
尾竹竹坡
(おだけ・ちくは)
1878〜1936 |
明治11年1月11日、新潟県生。
本名染吉。兄越堂、弟国観。
笹田雲石に南画を学び、
上京して川端玉章に師事。
大正4年美術行政への不満など
から総選挙に立候補して落選。
昭和11年6月2日、東京本郷で没。58歳。 |
尾上柴舟
(おのえ・さいしゅう)
1876〜1957 |
明治〜昭和期の歌人・書家。
明治9年岡山県生れ。本名八郎。
落合直文の<あさ香社>に入り歌を学ぶ。
明治35年金子薫園と共に「叙景詩」を出版、
<明星派>に対して叙景詩運動を進めた。
38年<事前草社>を結成、作歌につとめる。
書家としても有名で「平安朝時代の草仮名の研究」
「歌と草仮名」の著書がある。
女子学習院などの教授をつとめ、
昭和12年芸術院会員となった。
昭和32年没。享年82。 |
小原国芳
(おばら・くによし)
1887〜1977 |
玉川学園の創設者。明治20年、鹿児島県生れ。
京都大学哲学科卒業。西田西田幾多郎・小西重直に師事。
沢柳政太郎らと成城小学校(成城学園)の経営に尽力。
武蔵野の地に玉川学園を創立。
教育理念は〈全人教育〉の名でよばれている。
昭和52年歿。享年91。 |
折口信夫
(おりくち・しのぶ)
1887〜1953 |
国文学者、民俗学者、歌人、詩人。明治20年、大阪生れ。
歌人・詩人としては釈迢空(しやくちようくう)と名のった。
民俗学的国文学、日本芸能史論の創始者であって、〈折口学〉と称される。
[歌人・詩人として]
少年期から短歌に親しみ、《万葉集》を読破。
《アララギ》同人。のち北原白秋、古泉千樫らと《日光》同人。
さらに鳥船社を結成して活躍を続ける。芸術院賞受賞。
[民俗学者として]
民俗学的国文学といわれる〈折口学〉が打ちたてらた。
主著《古代研究》3巻、〈国文学篇〉、〈民俗学篇〉(2冊)が相次いで出された。
生涯の師とした柳田国男の民俗学とはかなり方法を異にしている。
文学博士。 母校国学院大学教授、慶応義塾大学教授。
生涯独身。特異な小説《死者の書》(1943)は学問の創作化であるとともに、
信夫の同性への愛の苦しみ、悲しさもひそかに込められているといわれる。
昭和28年歿。享年67。. |