西園寺公望
(さいおんじ・きんもち) |
明治〜昭和前期の政治家・公爵。
嘉永2年生れ。号陶庵、名望一郎。
徳大寺公純の次男、西園寺家の養子、
徳大寺実則の弟、住友友純の実兄。
王政復古にあたり参与、戊辰戦争では山陰道鎮撫総督,
会津口征討大参謀となり,越後府知事となった。
京都の邸内に家塾立命館を開いた。
1870年(明治3)パリに留学し,法学者アコラス ⊇mile Acollas に
学んで自由思想の洗礼をうけ,パリの自由な生活を楽しんだ。
80年、明治法律学校(明治大学の前身)の創設に加わり,
81年には中江兆民,松田正久らと《東洋自由新聞》を発刊して社長兼主筆
政府は退社を画策したが西園寺は拒絶し,天皇の内勅でやむなく辞職した。
明治14年の政変(1881)に際し参事院がおかれ,
参議伊藤博文が同議長を兼ねると,西園寺は同議官補となり,
82年には伊藤の憲法取調べに随行して渡欧した。
84年の華族令で侯爵となり,オーストリア,
ドイツ各公使,貴族院副議長等を歴任した。
日清戦争中から伊藤の第2次,第3次内閣の文相。
第2の教育勅語の発布を考えた。
96年には陸奥宗光,竹越与三郎らと雑誌を創刊し,《世界之日本》と名づけた。
陶庵と号し,首相となってからの1907年6月には森宝外,
田山花袋,幸田露伴らの文士を東京駿河台の本邸に招いて
雨声会と名づけた雅会を開き,これは数年間続いた。
西園寺は1900年の伊藤の立憲政友会創立に参画したが,
その直後に枢密院議長となり,一時は臨時首相も務めた。
第2代政友会総裁となり,松田正久と
原敬とを総務として党勢立直しに当たらせた。
日露戦争後の06年1月に桂太郎から政権を受け継ぎ,
以後交代に政権を担当して桂園時代と呼ばれた。
08年の総選挙で政友会は絶対多数を占めたが,その直後に
社会主義者の取締りが手ぬるいとの山県の上奏で辞職した。
また,西園寺は政権に恬淡(てんたん)で原の不満を買っていた。
11年に第2次内閣を作ったが,翌12年末には陸軍の倒閣策謀で辞任し,
その際元老に加えられた。ついで第3次桂内閣ができると護憲運動が
広がり政友会が内閣不信任案を出すと,大正天皇は西園寺を呼んで
政争回避を命じたが,西園寺は総裁辞任を上奏し,政友会は
方針を変えず,桂は内閣を投げ出した。後継内閣は山本権兵衛の
準政友会内閣となった。西園寺は慰留を拒み,原が第3代政友会総裁となったが,
1918年の米騒動後の政変では原への大命
降下に尽力し,最初の政党内閣を作らせた。
19年にはパリ講和会議の首席全権となり,
その功で20年に公爵となった。
大正末期からは最後の元老として後継首相推薦の重責を双肩に担い,
興津の別邸坐漁荘には政客たちが絶えず,〈興津詣で〉と呼ばれた。
元老としては当初総選挙を公平に行わせようと中間内閣を推したが,
1924年の護憲三派運動以後は政党内閣を推す慣行となり,〈憲政の常道〉と呼ばれた。
さらに立憲政治確立のため宮中や枢密院の人選にも配慮したが,
政党とくに政友会は政権獲得のため特権勢力とも結託して西園寺を嘆かせた。
大恐慌の渦中で満州事変がおこり軍部ファシズムの嵐が広がると,
国民の不満を皇室に向けないように意を用い,五・一五事件後には
重臣と協議して中間内閣を作らせ,事態の鎮静を期待した。
だが二・二六事件で軍部が実権をにぎり宇垣一成の組閣も阻止されると,
西園寺は元老辞退の意を強め,後継首相の推薦も
逐次内大臣中心の方式に改められた。
第1次近衛文麿内閣のもとで日中戦争がおこりファシズム体制が進むと,
彼は批判を強め,40年の第2次近衛内閣の成立には同意を拒んだ。
ついで日独伊三国同盟が結ばれるなかで
西園寺は91歳の生涯を閉じた。(国葬、昭和15年) |
西郷従徳
(さいごう・じゅうとく)
1878〜1946 |
陸軍大佐、貴族院侯爵議員。
明治11年10月21日生れ。
西郷従道の次男。西郷隆盛の甥。
妻は岩倉具定の二女。長男は西郷従吾。
昭和21年2月6日歿。享年69。 |
斎藤弓弦
(さいとう・きゅうげん)
1881〜1974 |
明治十四年三月五日宮城県伊具郡丸森町横町六十六番地生れ。
本名は亀治。別号は灑山。帝室技芸員だった小堀鞆音に師事して土佐派を研究する。
明治三六年美術協会に高綱、紫式部、小督局、茸狩、忠度等を出品して各二等賞を受賞。大正二年明治絵画会に雪月花を出品して三等賞を受賞。第十回日本画会に出品の蜂丸の図は東宮職、第四回明治絵画会に出品の三幅対松竹梅の図は皇后宮職の御用品となる。大正三年第八回文展で初入選、その後も文展・帝展で入選するかたわら、教科書の挿画も手がける。帝国絵画協会会員。戦後は地元に帰り、創作に励んだ。昭和四十九年没。
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斎藤暁文
(さいとう・ぎょうぶん) |
安政6年上野国生れ。
暁斎派を修める。
大正年間群馬県に住す。 |
斎藤拙堂
(さいとう・せつどう)
1797〜1865 |
江戸後期の津藩儒学者。寛政9年江戸生れ。
名正謙、字有終、通称徳蔵、別号鉄研学人、辞官後拙斎。
師古賀精里。
ペリー来航とその対策のために、「海防策」を著した。
慶応1年歿。享年69。 |
斎藤実
(さいとう・まこと)
1858〜1936
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明治〜昭和期の海軍軍人(大将)・政治家。
安政5年生まれ。水沢(岩手県)藩士斎藤耕平の子。
海軍参謀本部に出仕、ついで海軍省勤務・侍従武官から
和泉・富士各副長、秋津洲・厳島各艦長。海軍次官に就任、
軍務局長・艦政本部長・教育本部長を兼任して西園寺内閣の
海相。ジュネーブ軍縮会議全権委員。枢密顧問官。
朝鮮総督。内大臣。昭和11年2・26事件で暗殺された。享年79。 |
佐伯良謙
(さえき・りょうけん) |
法相宗法隆寺管長
佐伯定胤長老の後を継ぐ |
酒井三良
(さかい・さんりょう)
1897〜1969 |
明治30年2月16日福島県生れ。
本名三良(さぶろう)、三良子の落款を用いる。
坂内青嵐に師事して日本画を学ぶ。
梧水という号を用い習作展に入選。
大正10年小川芋銭を知り、終生の親交が始まる。
昭和13年私淑した芋銭を失い、以後奥村土牛らと旅行。
戦後は横山大観のすすめで茨城県五浦に移る。
日本美術院評議員・監事。
文部大臣賞受賞。
農村の生活や自然を詩情豊に描き続けた。
昭和44年6月8日歿。享年72。 |
酒井忠正
(さかい・ただまさ)
1893〜1971 |
政治家。号斗山、幼名元彦。
明治26年6月10日東京本郷生。
旧備後福山藩主・伯爵阿部正垣の次男。
旧姫路藩主・伯爵酒井忠興の養嗣子。
帝国農会会長。貴族院副議長。
阿部内閣の農林大臣。
中央競馬会理事長、横綱審議会委員長。
金鶏学院創設。国粋主義的傾向の団体国維会結成。
相撲の殿様といわれ、相撲史研究の第一人者。 昭和46年2月16日没 |
酒井忠篤
(さかい・ただずみ)
1853〜1915 |
出羽庄内藩14万石酒井家第11代当主
嘉永6年2月13日生れ。名繁之丞、号蓬堂・口幼鳴。
文久2年12月18日10歳で家督を継ぐ。
従四位下、左衛門尉、伯爵。
新微組御用掛、江戸市中取締、
功によって16万7000石に加増された。
幕末、庄内藩は一貫して佐幕行動を取り、
慶応3年12月25日、松山・上山・前橋・
西尾藩兵らとともに江戸薩摩藩邸を焼討し、
翌年の戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加盟して
会津藩とともにその中心勢力として戦い、
新政府側の秋田藩や新庄藩を攻撃した。
しかし時流には抗しえず、9月27日、降伏開城し、
忠篤は4万7000石を没収され、家督を弟忠宝に譲って
東京清光寺に謹慎した。のち赦免され、
1871年、兵部省に出仕して陸軍少佐となり、
兵学研究のためドイツに留学するが、帰国後の1880年、
辞職して鶴岡に帰郷した。忠篤は西郷隆盛に心酔しており、
西郷なき政府に失望して官を去ったといわれている。
1884年、華族令により伯爵を授けられ、
大正4年年6月6日没。63歳。
酒井氏は徳川氏の祖松平親氏の子広親から始まり、
広親の長男氏忠の系統を左衛門尉家、
2男家忠の系統を雅楽頭家といった。
前者からは戦国期に家康の創業を助けた酒井忠次・
家次父子が出て越後高田10万石の大名となり、
家次の子忠勝の代に信濃松代に転じ、1622年、
出羽庄内(鶴岡)13万8000石に移封され、
のち14万石に加増された。 |
酒井抱祝
(さかい・ほうしゅく)
1878〜 |
明治11年、東京生れ。
道一の子。名は惟一。
5世雨華庵。
酒井抱一系の画人。 |
佐久間象山
(さくま・しょうざん)
1811〜1864 |
幕末の思想家,〈東洋道徳・西洋芸術〉の観念の主唱者。
名は啓,通称は修理,象山は号。
文久8年信州松代藩下級武士の子として生る。
江川太郎左衛門(坦庵)に西洋砲術を学ぶ。
弟子に勝海舟,坂本竜馬,吉田松陰,加藤弘之らがいる。
54年(安政1)松陰の密航失敗に連座し,藩地蟄居を命じられる。
これを機に蘭書学習に精進する。
64年(元治1)幕府の命をうけて京都に上り,
海陸御備向手付御雇となるが,
元治元年7月に尊攘派によって暗殺された。享年54。 |
佐々木原善
(ささき・げんぜん)
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江戸後期、文化年中の画家。
秋田県横手市生れ。師沈南蘋
本名善蔵、別号楚宝・松峰山人・分水。
秋田蘭画のころに洋画をてがけた画家。
生没年不詳。 |
佐々木尚文
(ささき・しょうぶん)
1890〜1978 |
明治23年8月8日、岐阜県生。本名武郎。
初め多治見で陶磁器絵付けの画工として働き、
41年上京して川合玉堂に師事。
大正2年日本画会会員。
第一部会の結成に参加。
文展・帝展などで入選多数。
戦後の20年から長野市に居住する。
昭和45年8月8日没。享年80。 |
佐瀬得所
(させ・とくしょ)
1822〜1878 |
書家。文政5年、陸奥会津生れ。
名恒、字子象、通称八太夫、別号松城。
欧陽詢、趙子昴らの書をまなぶ。
明治11年1月2日歿。享年57。 |
佐竹永陵
(さたけ・えいりょう) |
明治5年5月25日、東京浅草生れ。
旧姓黒田。本名銀十郎。佐竹永湖に師事。
南北合派を学び、32年師の娘と結婚。
松林桂月らと日本南宋画会を結成。
谷文晁系の鑑定を手がける。
昭和12年1月8日、東京本郷で没。享年64。
嗣子健造は歯医者となったため、
永海、永湖、永陵と続いた画系は途絶えた。 |
佐藤一斎
(さとう・いっさい)
1772〜1859 |
江戸後期の儒者。安永元年、美濃岩村藩の家老職の家に生まれる。
名坦,字大道,通称捨蔵。号一斎,愛日楼,老吾軒など。
藩主の三男でのちの林述斎とともに儒学を学ぶ。
また大坂の中井竹山にも学び,林家の門に入る。
述斎が林家を継ぐとこれに師弟の礼をとり,
1805年(文化2)には林家の塾長となって門生の教育に当たった。
述斎没後の41年(天保12),幕府の儒官となり昌平黌で教えた。
その学問は立場上表面は朱子学をとったが,
陽明学の影響も強く受け,〈陽朱陰王〉と評された。
気一元論,命数論,死生説などに特色がある。温厚篤実な性格で,
その門下から安積艮斎,渡辺崋山,山田方谷,佐久間象山,
横井小楠,大橋訥庵,中村正直らの多彩な俊秀を出した。
安政6年没。享年88。 |
佐藤進
(さとう・すすむ)
1875〜1909 |
順天堂三代堂主、男爵
号茶崖。佐藤尚中の養継継
明治2年公式旅券第一号を得てドイツ・ベルリン大学へ留学
東洋人として初の医学博士の学位を取得
我国の西洋近代外科の基礎を築く
順天堂医院第二代院長
西南の役で陸軍軍医監として活躍
日清、日露戦争において陸軍軍医総監
京城の大韓病院創設・初代院長 |
佐藤尚中
(さとう・ちょうちゅう)
1827〜1882 |
幕末・明治初期の医師・外科医
東京の順天堂の創始者
文政10年4月8日、下総(千葉県)佐倉生れ。
本姓は山口、舜海(しゆんかい)と称し、笠翁(りゆうおう)と号した。
江戸では寺門静軒、安藤文沢に学び,さらに
1842年(天保13)佐藤泰然の門に入る。
翌年泰然が佐倉に移るに際し、それに従い,
のち59年(安政6)その養子となった。
60年(万延1)長崎でポンペに学ぶ。
62年(文久2)佐倉に帰って済衆精舎を設ける。
西洋医学による医学教育と診療にあたった。ことに外科に優れていた。
明治2東京に出て大学東校の主宰者となり、大博士、
のちには大学大丞と医界最高の地位に就いた。
5年には下谷練塀町に順天堂を開く。75年これを湯島に移した。
これが現在の順天堂大学に続いている。
訳著書は多いが、ストロマイエルの外科学を日本に
紹介した《斯篤魯黙児(ストロメル)砲痍論》があり、
ほかに著書《外科医法》《済衆録》などがある。
明治15年7月23日歿、享年56。 |
佐藤朴堂
(さとう・ぼくどう) |
臨済宗大徳寺塔頭福聚院住職 |
里村玄陳
(さとむら・げんちん)
1591〜1665 |
織豊時代〜徳川初期の連歌師。
天正19年里村玄仍の長男に生る。
慶長14年福島正則張行の和漢聯句の作者に
加わったのを初めとして、元和寛永頃の作が多く、
出藍の誉があり法眼に叙せられた。
連歌の外に画をよくし、一翁と号し堺に住んでいた。
寛文5年1月5日没。享年75。 |
沢木興道
(さわき・こうどう)
1880〜1965 |
近代曹洞宗の高名な僧。 三重県津市生れ。
「宿無し興道」の異名を持ち、生涯独身で、
これといった寺や家を持たず、各地で禅の指導に尽力される。
禅僧であったが、若き日に法隆寺の勧学院にて法相・唯識の勉強をする。
正法眼蔵を始めとして宗乗を広く学び、駒澤大学の教授となった。
正法眼蔵や証道歌、信心銘の提唱など著述が多い。
昭和40年12月21日没。享年86。 |
三條実美
(さんじょう・さねとみ)
1837〜1891 |
明治前期の政治家。七卿落ちの1人。
天保8年京都生れ。実万の4男。
明治元年、王政復古とともに官位復旧、
上洛して議定となり、ついで
副総裁兼外国事務総督・関東監察使を歴任。
右大臣に就任して永世禄5千石を受領、
廃藩置県直後に太政大臣兼神祗伯・宣教長官、
賞勲局総裁を兼任した。
華族令制定とともに公爵、
内閣制度創設とともに太政大臣を辞し宮中に入り、
内大臣として常時輔弼に任にあたった。
明治政府の中心として国家建設に尽力。
明治24年没。享年55。国葬。 |
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塩谷青山
(しおのや・せいざん)
1855〜1925 |
明治・大正期の漢学者
安政2年1月江戸青山水野邸に生る。
簣山の子。名時敏、別号修卿。
芳野金陵・中村敬宇らに師事。
大正14年2月2日没。享年71。 |
塩崎逸陵
(しおざき・いつりょう)
1884〜? |
明治17年、富山県生れ。
名一郎、別号水仙洞。
師寺崎広業。没年不詳。 |
四竃孝輔
(しかま・こうすけ)
1876〜1937 |
明治・大正期の海軍軍人(中将)
明治9年宮城県生。海兵25期、海大卒。
敷島・肥前・霧島各艦副長、
第二戦隊参謀、津軽艦長として日露戦争・
第一次大戦に従軍、のち侍従・大湊要港司令官。
昭和9年からは伏見宮付別当。
昭和12年歿。享年62。 |
品川弥二郎
(しながわ・やじろう)
1843〜1900 |
明治期の政治家。子爵。
天保14年長門(山口県)生れ。長州藩士分の弥市右衛門の子
吉田松陰の松下村塾に学び、禁門の変などで尊攘派の志士として活躍。
鳥羽・伏見の戦で官軍が歌った〈トコトンヤレ節〉の作詞者としても有名。
維新後は明治政府に仕え、ドイツに留学し、そのままドイツ公使館に勤めた。
帰国して内務省、農商務省に勤め、2年間ドイツ公使を務めた。
第1次松方正義内閣の内務大臣、第2回総選挙の
指揮をとって〈民党〉議員の選出を阻もうとした。
選挙後内務大臣を辞し国民協会を組織し、副会頭、会頭。
内相在任中に起草した信用組合法案は、
のちの産業組合法の先駆として知られている。
明治33年歿。享年68。 |
芝景川
(しば・けいせん) |
明治・大正期の画家。明治7年5月17日東京神田生。
字子徳、別号南星・柳契・蓮痴。師今尾景年。
明治41年文部省美術展覧会に残花留花の図を出品。
その他博覧会・共進会などに出品して銀牌2回、
褒章10数回、宮内省御用品数回、
帝国絵画協会、日本画会会員、明治絵画会幹事、
正派同志会評議員、没年不詳。 |
柴田是真
(しばた・ぜしん)
1807〜1891 |
漆工家・絵師・日本画家。
文化4年2月7日、江戸両国生れ。
幼名亀太郎、名順蔵、号是真・令哉など。
浮世絵師勝川春章に師事。
蒔絵を古満寛哉、絵を谷文晁・鈴木南嶺に学ぶ。
明治24年7月13日歿。享年85。 |
柴野栗山
(しばの・りつざん)
1736〜1807 |
江戸時代後期の儒学者
元文元年、讃岐国三木郡生まれ。
八栗山の近くで生れたので栗山と号した。
別号古愚軒。
寛政の三博士といわれた。
文化4年12月1日没。享年72。 |
柴山全慶
(しばやま・ぜんけい)
1894〜1974 |
昭和期の仏教学者。臨済宗南禅寺332世。
明治27年11月30日、愛知県生。
道号文明、号寒松軒。花園学院卒。
南禅寺派専門道場で河野霧海の法を嗣いだ。
禅門高等学院・花園大学・大谷大学の教授。
アメリカのクレアモント大学やコルゲート大学で禅学を講義。
南禅寺派管長・南禅寺住職となる。
昭和49年8月29日歿。享年81。 |
渋沢栄一
(しぶさわ・えいいち)
1840〜1931 |
天保11年2月13日、武蔵国生れ。
幼名市三郎。後に栄一郎、
篤太夫、篤太郎などを名乗る。
実業家。日本資本主義の父。
渋沢成一郎の従弟。正二位勲一等子爵。
競馬評論家の大川慶次郎は曾孫に当る。
第一国立銀行のほか多種多様の企業の
設立に関わり、その数は500以上とされている。
晩年は川越市で過ごした。
昭和6年11月11日没。享年92。
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島田柏樹
(しまだ・はくじゅ)
1892〜1958 |
明治25年、東京生れ。
師平福百穂。
大正9年第二回帝展に初入選、
以後帝展に八回入選、
11年文展鑑査展、新文展で二回入選、
戦後は日展で二回入選・依属出品。
昭和33年歿。享年66。 |
島田墨仙
(しまだ・ぼくせん)
1867〜1943 |
慶応3年10月9日、越前国福井生れ。
本名豊作、のち豊。
父は福井藩士で画家の島田雪谷、兄は島田雪湖。
父に四條派を学び、父没後は独学。
のち上京して橋本雅邦に師事。
日本画初の第2回帝国芸術院賞を受賞。
歴史人物画を得意としていた。
昭和18年7月9日歿。享年75。 |
清水諸葛監
(しみず・しょかつかん)
1717〜1790 |
享保2年江戸生れ。
名監、字子文、通称文三郎・又四郎・三五。
別号静斎・古画堂など。
熊代熊斐又は宗紫山に学ぶ。
南蘋風を学び、山水花鳥墨竹が得意。
清水諸葛晋の筆意を慕って一家をなし、諸葛鑑と号した。
寛政2年歿。享年74。 |
清水比庵
(しみず・ひあん)
1883〜1975 |
歌人・書家・画家・政治家
明治16年2月8日高梁市生まれ。本名秀。
明治41年京都帝国大学を卒業し司法官。
安田銀行、古河銀行から古河電気工業
に転じ昭和5年栃木県日光町長に就任。
昭和14年部下の不祥事により辞任。
その後歌と書、画の三芸に没頭し
「野水会」「有水会」を結成し各所で展覧会を開く。
高梁中学校時代に与謝野晶子に傾倒し歌を始める。
以来在学在職中も作り続けるが発表は昭和3年の歌誌「満天星」。
前後して「夕暮」「青虹」を発刊。
昭和41年宮中新年会歌会始の召人に選ばれる。
著書に「野水帖」「紅もて」がある。
笠岡へは大正12年の関東大震災のため訪れ
妹章子の嫁ぎ先である岡本家へ仮寓。
昭和19年から3年間章子の勧めで最愛の妻鶴代を失った
失望を癒す事と戦禍を逃れることを兼ね疎開。
昭和22年から長女明子夫婦と東京で
同居するも夏の4カ月は笠岡で暮らし、
笠岡高等女学校で歌の指導もする。
高梁市、日光市名誉市民。
昭和50年10月24日東京で没。享年92歳。 |
下村為山
(しもむら・いざん)
1865〜1949 |
洋画家で俳人、俳画家として足跡を残した。
慶応元年(1865)、現在の松山市三番町6丁目付近に生まれる。
8歳で上京、26歳(明治23年)内国勧業博覧会に洋画を出品。
従兄弟の内藤鳴雪を介して子規を知り、俳句に熱中することとなる。
洋画を通じて子規の写生論に影響を与えたが、
子規没後は東京を離れ、地方回りの肖像画家となる。
これと並行して俳画の研究に没頭、
俳句的イメージに溢れた水墨画を創始する。
大正4年、棕櫚、柿、鶏頭、雀など新鮮な
画題を引っさげて堂々と東京に復帰。
俳画家と呼ばれることを極端に嫌った人だが、
「俳画もまた日本芸術の光である」と
俳画への転進の真意を語っている。
日本俳句最初の句集「新俳句」に俳画を描き
「ホトトギス」にも挿絵を掲載した。
俳号は冬邨、百歩、牛伴とも称した。
昭和24年没。享年85。 |
釈宗演
(しゃく・そうえん) |
臨済宗円覚寺207世
安政6年12月18日、若狭高浜(福井)生れ
諱祖光、宗演、幼名常太郎、道名洪岳
京都妙心寺の越渓守謙のもので出家、
鎌倉円覚寺の今北洪川の法を嗣いだ。
慶応義塾卒業後、福沢諭吉の勧めで
スリランカに留学、のち円覚寺・建長寺管長。
臨済宗大学学長に就任。
門下に鈴木大拙・徳富蘇峰ほか。
大正8年11月1日没。享年61。 |
釈宗活
(しゃく・そうかつ)
1871〜1954 |
臨済宗円覚寺住職
釈宗演に師事
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白井烟ー
(しらい・えんがん)
1894〜1976 |
明治27年2月8日、愛知県豊橋生れ。
名瀧司、初め静古、烟巌と号す。
松林桂月に師事。
私淑する渡辺華山の神社改築の功績で
田原町町政功労者として表彰。
豊橋文化賞受賞。
桂月絵画の鑑定の第一人者。
昭和51年1月19日歿。享年81。 |
白鳥省吾
(しらとり・せいご)
1890〜1973 |
明治23年2月27日、宮城県生れ。
早稲田大学文学部卒業。
大正3年処女詩集「世界の一人」により詩壇に登場。
口語自由詩の斬新さで注目をあびた。
ホイットマンに心酔して民衆詩派の先駆的役割をになう。
自由・平等・友愛を揚げた民衆派の
リーダーとして果たした功績は大きい。
詩集「大地の愛」「楽園の途上」「共生の旗」「野茨の道」
評論集「民主的文芸の先駆」「現代詩の研究」など
随筆集「土の芸術を語る」など刊行。
昭和48年8月27日没。享年84。
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末次信正
(すえつぐ・のぶまさ) |
昭和期の海軍軍人(大将)
明治13年、山口県生れ
昭和3年軍令部次長に就任
ロンドン軍縮条約に強硬に反対
5年以降、舞鶴要港部司令官、
第2艦隊長官、軍事参議官など歴任
12年、内相に就任
退陣後も右翼思想の持主として
大東亜建設連盟会長、大政翼賛会
中央協力会議議長となり活躍
昭和19年没。享年65。
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菅沢幸司
(すがさわ・こうじ)
1910〜1976 |
明治43年千葉県佐原生れ。
東京美術学校日本画科卒業。
師結城素明。
帝展・文展に入選多数。
晩年は水郷風景などの写生に専念。
昭和51年11月15日歿。享年66。 |
菅楯彦
(すが・たてひこ)
1878〜1963 |
明治11年3月4日、鳥取県生れ。
本名藤太郎。初め盛虎、のち静湖と号す。
父は日本画家菅盛南。
幼い頃大阪に移住、22年父の病気のため
高等小学校を中途退学して、画業で一家を支える。
以後師につくことなく独学によって絵画を研究、
有識故実など素養を深め、33年楯彦と雅号を改めた。
昭和20年から22年まで倉吉に疎開。
大阪府文芸賞、大阪市民文化賞受賞
日本芸術院賞恩賜賞受賞(日本画家初)
雅楽に造詣が深く、伝統雅楽の保存に尽くした。
大阪市名誉市民、倉吉市名誉市民章
昭和38年9月4日歿。享年85。 |
菅原曇華
(すがわら・どんげ)
1866〜1956 |
第236世建長寺派管長
慶応2年4月2日新潟県下足軽町の
菅原権九郎・トメの次男として生れる。
諱時保、通称寅次郎、道号寿仙など。
8歳の時上州利根郡吉祥寺に入り、漢籍を学んだ。
19歳で得度、仏門に入り、21歳で建長寺に入門し、
翌年宗学林に入学した。
26歳で京都天竜寺に学び、2年後、建長寺に戻った。
建長寺では曇華軒貫道老師の侍者となり、
宗学林の教師も勤めた。
明治33年に京都建仁寺に入り、
黙雷老師のもとで修行して、
37年印可を受けた。
明治38年5月28日、第236世建長寺派管長に就任。
昭和31年8月29日没。享年90。 |
杉浦重剛
(すぎうら・じゅうごう)
1855〜1924 |
国粋主義的教育者。
安政2年3月3日、滋賀県生れ。
名謙次郎、号梅窓・天台道士。
文部省と東京大学に勤める。
のち辞職して読売・朝日新聞の社説を担当。
雑誌「日本人」、新聞「日本」発刊に尽力。
明治22年日本倶楽部を結成、
大隈重信の条約改正案に反対。
衆院議員に当選したが翌年辞職。
東京文学院設立、国学院学監、
東亜同文書院院長、日本中学校長など歴任。
大正13年東宮御学問所御用掛に任ぜられた。
大正13年2月13日没。享年70。 |
杉溪六橋
(すぎたに・ろっきょう) |
慶応元年5月13日、京都生れ。
名は言長、別号深柳堂など。
伯爵山科言縄の三男。
3歳の時興福寺に入って出家したが、
4歳の時に還俗し5歳の時から杉渓と名のる。
20歳の時男爵を授けられ、
26歳のときから貴族院議員となり30余年就任。
漢学を北村竜象、草場船山につき、
詩を林雙橋、神田香巌に学び、
書は遠山盧山、小林卓斎に、
画を重春塘に習った。
昭和19年10月30日没。享年80。 |
杉聴雨
(すぎ・ちょうう) |
天保6年正月、山口藩士植木五郎右衛門の二男に生れ。
名重華、通称孫七郎、別号古鐘庵・鯨肝・松城・呑鵬など。
杉彦之進の養子。吉田松陰に学ぶ。
山口藩権大参事、宮内大丞、秋田県令、皇后宮太夫兼内蔵頭、
東宮職御用掛、図書頭、枢密顧問官、など歴任。子爵。
唐宋の書風に六朝を極めて立派な書だった。
大正9年5月3日没。享年86。 |
鈴木其一
(すずき・きいち) |
寛政8年生れ。名元長、字子淵、通称為三郎、
別号菁々・必庵・庭拍手・祝琳斎など。
酒井抱一に画を学び、抱一の家臣で同門の
鈴木蠣潭の養子となって鈴木姓を名乗る。
人物・草花・鳥獣が得意。
装飾的で象徴的な画風で一家をなし、
俳諧や芸能にも通じた。
安政5年9月10日没。享年63。 |
鈴木鵞湖
(すずき・がこ)
1816〜1870 |
文化13年下総(千葉豊富村)生れ。
名雄、字雄飛、幼名筆三、通称漸造、
別号一鶯、我古山人、水雲山房、東台山麓など。
江戸に出て谷文晁に学び、文晁歿後は
相沢石湖につき山水花鳥を得意とした。
鵞湖の二男が石井家をつぎ、石井鼎湖といい、
その子が洋画家の石井柏亭、石井鶴三。
明治3年4月22日歿。享年55。 |
鈴木華邨
(すずき・かそん)
1860〜1919 |
安政7年2月17日江戸下谷生れ。
本名惣太郎(茂雄とも)。華村とも記し、忍青とも号す。
中島亨斎に師事。菊池容斎の画風を学ぶ。
明治9年フィラデルフィア万国博覧会の事務局
画図課雇いとなり、以後図案の仕事に携わる。
21年石川県工業学校教諭になる。
帰京後、31年日本画会の結成に参加。
美術研精会、巽画会などの会員となる。
40年文展開設では新派の国画玉成会に参加。
花鳥山水画で一家を成し、図案や
挿絵でもその画才を発揮した。
各種博覧会、文展などで受賞多数。
大正8年1月3日東京雑司ヶ谷で没。享年58。 |
鈴木啓處
(すずき・けいしょ)
1823〜? |
明治6年、栃木県宇都宮市生れ。
名源三郎、別号鐡叟。
師戸田香園・荒木寛畝。
没年不詳 |
鈴木翠軒
(すずき・すいけん)
1889〜1974 |
明治22年1月5日愛知県渥美郡生れ。
名春視、別号送夢、流萍など。
師丹羽海鶴、比田井天来。
日展常務理事。日本書作院会長。
回瀾会名誉会長。日本芸術院会員。
昭和51年歿。享年87。 |
鈴木大麻
(すずき・たいま)
1901〜1975 |
明治34年、三重県桑名市生れ。本名友次郎。
初め小茂田青樹、のち前田青邨に師事。
昭和2年再興第14回院展に《夏日》で初入選、
4年日本美術院院友となり、以後院展に入選を重ね、
15年紀元二千六百年奉祝美術展にて入選。
昭和50年、熱海市で歿。享年74。 |
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関精拙
(せき・せいせつ)
1877〜1945 |
臨済宗天竜寺派の僧。
天竜寺240世。
明治10年、兵庫県生れ。
諱元浄、号青峨・峨翁。
高木元碩に師事。
漢詩・書画をよくした。
昭和20年10月2日没。享年69。 |
関雪江
(せき・せっこう)
1827〜1877 |
文政10年生れ。名思敬、通称忠蔵。
江戸中期の能書家で関思恭の五代の子孫に当り、
代々土浦候につかえ詩も巧で、書論にも詳しかった。
書は筆勢が女性の様に優しかったようです。
明治10年11月24日歿。享年51。 |
関牧翁
(せき・ぼくおう)
1903〜1991 |
臨済宗の僧、天龍寺241世
明治36年4月15日、群馬県下仁田生れ
字牧翁、号叱咤室、諱巍宗
慶応義塾医学部中退
武者小路実篤の提唱した「新しき村」の思想に
感化され、伊吹山麓の「愛の村」で青年を指導。
岐阜髄巌寺の岡部洪宗のもとで得度、
のち天龍僧堂師家を経て、天龍寺住職・同派管長に就任。
天龍寺規則・宗制の改正を断行し、
自由奔放な禅者としてしられる。
平成3年2月13日歿、享年89。 |
関直彦
(せき・なおひこ)
1857〜1934 |
明治〜昭和初期の政党政治家
安政4年和歌山県生れ。法科大(東大)卒。
鳩山和夫の紹介で福地源一郎の日報社に入社。
明治21〜25年社長を務める。
第1回総選挙より衆院議員に10回当選、
はじめ中立を標榜していたが、憲政本党に投じて
以後は立憲国民党・革新倶楽部・革新党に所属、
非政友会系の自由主義議員として活躍。
大正1〜4年衆院副議長。
昭和2〜9年勅撰貴院議員。
7年安達謙蔵らと国民同盟を結成。
明治25年より弁護士となり、 大正12年東京弁護士会会長となった。
昭和9年没。享年78。 |
関田華亭
(せきた・かてい)
1866〜1919 |
慶応2年4月21日、常陸国(茨城県)水戸生れ。
本名浅次郎。晩年の野口幽谷に師事。
日本美術協会展などで受賞を重ね、
日本画会評議員をつとめ、文展開設では
旧派の正派同志会の結成に評議員として参加。
渡辺華山、椿椿山の遺風を慕い、花鳥画を得意とする。
大正8年12月18日歿。享年53。 |
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宗星石
(そう・せいせき)
1867〜1923 |
慶応3年1月27日、
対馬国〈長崎県)巌原生れ。
本名重望。伯爵。貴族院議員。
師大倉雨村。
日本美術協会会員。
東京彫工会名誉会員。
大正12年歿。享年55。 |
宗鶴聴松
(そうかく・ちょうしょう) |
臨済宗妙心寺派
京都、圓福寺(達磨寺)。静岡、龍澤寺住職 |
副島種臣
(そえじま・たねおみ)
1828〜1905 |
明治期の政治家。佐賀藩士。
幼名竜種,通称二郎。号は蒼海また一々学人。
国学者枝吉種彰(南濠)の子として
文政11年生まれ、副島家の養子となった。
兄神陽も学者となり,弘道館で大隈重信,
大木喬任,江藤新平,島義勇らを教えた。
尊王攘夷運動に奔走したが,のち藩が長崎に設けた致遠館
監督となりみずからも G. H. F. フルベッキに英学を学んだ。
維新政府の参与,制度寮判事となり,政体書の起草に参画,
1869年(明治2)参議となり,71年11月岩倉具視の
欧米差遣にともない外務縁に就任し,マリア・
ルース号事件,琉球帰属問題にあたった。
73年全権大使として清国へ行き,帰国後征韓論を唱えた。
一時参議となったがすぐ辞任し74年民斤議院設立建白に署名。
しかし民権運動には参加せず宮中に入り,一等侍講,宮中顧問官などを歴任,
88年枢密顧問官となり,91年には副議長を務めた。
92年松方正義内閣の内相を一時務めたこともある。
能書家としても著名。
明治38年歿。享年78。 |