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ま 行
前田利定
(まえだ・としさだ)
1874〜1944
政治家、実業家。
明治7年12月10日旧七日市藩主・
子爵前田利昭の長男として東京に生る。
東京帝大独法科卒業。
志願兵となり陸軍歩兵少尉に任官。
貴族院議員。
加藤友三郎内閣の逓信大臣、
清浦内閣の農商務大臣歴任。
安田銀行、東武鉄道、川崎窯業、
上毛鉄道会社などの重役を兼ねた。
和歌に長じ、竹柏会(佐々木信綱主宰)門下であった。
昭和19年10月2日歿。享年70。
前田暢堂
(まえだ・ちょうどう)
1817〜1878
文化14年、阿波半田生れ。
名果、又は碩、字青牛、又は実甫、通称碩太郎、別号半田。
京都に住み中島来章の門に学び、のち山本楳逸についた。
山水、花鳥を得意とした。
明治11年10月25日歿。享年62。
前原一誠
(まえばら・いっせい)
1834〜1876
天保5年3月20日、長門国(山口県萩)生れ。
吉田松陰の松下村塾に入門。
松陰処刑後は長崎で洋学を学んだ。
幕末、討幕運動に協力し、戊辰戦争では会津戦線で活躍。
明治政府では参議、兵部大輔。
大村益次郎の目指した「国民皆兵」路線(徴兵令)に反対し、
木戸孝允と対立、やがて大村路線の
後継者である山縣有朋に追われる形で下野し、
明治9年に不平士族を集めて萩の乱を引き起こした。
しかし即座に政府軍によって鎮圧され、捕らえられて処刑された。
明治9年12月3日没。享年45。
巻菱湖
(まき・りょうこ)
1777〜1843
書家。安永6年、越後国巻町生れ。
名大任、字致遠・起巌、号菱湖・弘斎、通称右内。
幕末の三筆の一人(市河米庵・貫名菘翁)
菱湖の門下生は1万人を越えた。
亀田鵬斎に師事。
天保14年4月7日歿。享年67。
幕田青雲
(まくた・せいうん)
1864〜1937
元治元年、栃木県宇都宮生れ。
師小室翠雲。
長男は幕田青坡。
昭和12年歿。
松井如流
(まつい・じょりゅう)
1900〜1988
明治33年3月31日、秋田県横手市生れ。
吉田苞竹に師事。
日展参事。大東文化大名誉教授。
文部大臣賞。日本芸術院賞。
勲三等瑞宝章受章。
昭和63年1月16日没。享年87。
松方海東
(まつかた・かいとう)
1835〜1924
公爵。明治期の政治家。名正義。幼名金次郎。
島津久光の小姓となり、その間、御側役大久保利通の指導を得る。
明治維新後、日田県知事・大蔵大輔・内務卿を経て
明治十四(1881)年の政変により参議兼大蔵卿に就任。
1892(明治二十五)年まで大蔵卿・蔵相として松方財政を展開、
日清戦争後も第二次伊藤内閣・第二次松方内閣・
第二次山県内閣の閣僚として戦後経営を担当した。
その間1886年に銀本位制、1897年には金本位制を
確立するなど財政・金融制度を整備。
二度政権を担当し、第一次内閣では内相に品川弥二郎を擁立し、
選挙干渉などで民党と対立したが、第二次内閣では進歩党と提携、
大隈重信を外相として入閣させ松隈内閣と呼ばれた。
以後も内大臣に就任するなど、元老として活躍した。
大正13年没。享年90。

また子沢山で知られ有名なところで戦前の経済界の重鎮、
かつ国立西洋美術館の松方コレクションで
知られる松方幸次郎は正義の三男であり、
協同通信社専務理事であった松方三郎
(本名は義三郎)は正義の十三男である。
松平乗寛
(まつだいら・のりひろ)
1777〜1839
三河西尾藩6万石松平(大給)家3代当主。
父乗完の老中在任中の死去により、
寛政5年16歳にて襲封。
寺社奉行、京都所司代、
老中と幕政で要職を務めた。
安永6年生、天保10年歿。享年43。
松田竹の嶋人
(まつだ・たけのしまびと)
小説家、北海タイムス記者、東京生、札幌に住む
本名白井寅雄、号竹與、昭和14年歿
松永昇道
(まつなが・しょうどう)
東寺第251代長者として、昭和初期に大きな業績を残した。
松永天章
(まつなが・てんしょう)
明治12年6月24日、岐阜県不破郡垂井町生れ。
字實次、別号應文・樹鳳・正信など。
初め河村光文に四条派を学び、
のち川端玉章に師事し円山派を修めた。
花鳥を能くし特に鯉魚に長ずる。
諸種の画会に出品して受賞数十回。
御用品数回。帝国絵画協会会員。
美術研精会、日本画会、日本美術協会、
巽画会、天真会の会員
茶道にも通じた。没年不詳。
松野霞城
(まつの・かじょう)
1867〜1927
慶応3年11月9日、江戸牛込生れ
本名順、字尚賢、通称勘之助、
号蕪園処士・流芳堂・双山堂など
母は椿椿山の門人
野口幽谷に師事
幽谷塾和楽堂の塾長をつとめる
日本画会委員
昭和2年7月7日、東京中野で歿。享年59。
松野自得
(まつの・じとく)
明治25年生れ。師小室翠雲。山水得意。
東京谷中初音町に住した。没年不詳。
松林桂月
(まつばやし・けいげつ)
1876〜1963
明治9年8月18日、山口県萩町生れ。
旧姓伊藤、本名篤、字子敬、別号香外・玉江魚人。
野口幽谷に師事。日本美術協会展に入賞を重ね、
環翠会画塾(のち天香画塾)を設ける。
帝展委員。帝国美術協会理事長。帝室技芸員。
日展運営会常任理事。文化勲章受章。
日本南画院会長。萩市名誉市民。
昭和38年5月22日、東京で没。享年87。
松村介石
(まつむら・かいせき)
1859〜1939
明治〜昭和初期のキリスト教指導者。
安政6年播磨国(兵庫県)生。旧姓森本。
安井息軒に儒教を学んだが、横浜の
バラー英語塾で聖書を学びキリスト教に入信。
東京神田の基督青年会館で道徳教育講話を行い、
「リンコルン伝」「修養録」を著す。
儒教とキリスト教を結合して折衷的なキリスト教を
説く日本協会を起こし、のち道会と改称。
その信条は信神・修徳・愛隣・永生の4ヶ条であり、
機関紙「道」を発行。大倉孫兵衛・
森村市左衛門ら財界の支持を得た。
昭和14年歿。享年81。
松村景文
(まつむら・けいぶん)
1779〜1843
江戸後期の四條派の日本画家
安永8年、京都生れ。呉春の末弟。
名要人・直治、字士藻・号華溪。
兄より絵の指導を受け、
また円山応挙の写生風を学び一家を成す。
天保14年歿。享年65。
松村梅叟
(まつむら・ばいそう)
1884〜1934
明治17年8月11日、京都生れ。
本名仁一郎。修竹軒主人・静山堂主人とも号す。
今尾景年に師事。
大正2年京都市立絵画専門学校別科卒業。
在学中の42年第3回文展にて初入選。
以後大正4年まで毎回入選褒状。
明治43年日英博覧会で銅賞を受賞。
京都美術協会や帝国絵画協会会員となる。
大正8年の帝展開設では日本自由画壇に参加、
壇友となり、9年同人となって定期展に出品。
11年同人の池田桂仙、玉舎春輝、
林文塘とともに中国を旅行。
昭和9年3月2日没。享年49。
松本奎堂
(まつもと・けいどう)
1831〜1863
天誅組総裁、三河国刈谷藩士
天保2年生れ。奥田桐園に入門し朱子学を修める。
名古屋で塾を開く。
大阪に移り松林飯山・岡鹿門らと双松岡学舎を開塾。
上洛して藤本鉄石・吉村寅太郎らと交わる。
文久3年9月25日戦士。享年33。
松本楓湖
(まつもと・ふうこ)
1840〜1923
天保11年9月4日茨城県河内郡小野村生れ。
幼名藤吉郎、名敬忠、号洋峨・永峨・安雅堂。
師沖一峨・佐竹永海・菊池容斎。
帝国美術院会員。
大正12年6月23日没。享年84.
松本良順
(まつもと・りょうじゅん)

1832〜1907
幕府の医官,日本の陸軍軍医制度の確立者。
天保3年6月16日江戸生れ。蘭方医佐藤泰然の次男で,
幕府の奥医師松本良甫の養子となる。
号は蘭疇(らんじゆ)。のちに松本順と称する。
坪井信道,竹内玄同らから蘭学を修め,
1857年(安政4)幕命で長崎に行き,ポンペに師事,
彼に協力して日本最初の洋式病院である長崎養生所を開設。
62年(文久2),江戸に帰り,
緒方洪庵の死のあとをうけて医学所頭取。
将軍家茂・慶喜の侍医を歴任。
戊辰戦争で会津まで行ったが,幕軍の敗北で横浜で捕らえられる。
まもなく自由の身となり,70年(明治3)早稲田に私立の蘭疇医院を設立。
翌年陸軍最初の軍医頭となり,日本の陸軍の医療体系の確立に貢献。
73年初代の陸軍軍医総監。
貴族院議員,男爵。
牛乳の飲用や海水浴の奨励など,民間の衛生にも意を用いた。
明治40年3月12日没。享年76。
松久休光
(まつひさ・きゅうこう)
1899〜1956
明治32年2月8日、東京生れ。
本名茂。12歳で荒木寛畝に師事。
読画会で活躍。
帝展・新文展に入選を重ねる。
昭和31年8月6日歿。享年57。
真野暁亭
(まの・きょうてい)
1874〜1934
明治7年1月13日生れ。通称八十五郎。
父は日本画家真野暁柳。
師河鍋暁斎、久保田米斎。
日月会、大東絵画協会、巽画会会員。
昭和9年8月11日没。享年60。
日本画家真野満は次男。
丸山石根
(まるやま・いわね)
1918〜1999
日本画家。関西美連会長。
入江波光・中村岳陵に師事。
日展特選、大阪芸術賞受賞。
京絵を得意とした。
平成11年歿。享年80。
円山応震
(まるやま・おうしん)
1790〜1838
寛政2年生れ。木下応受の子。
本家である円山応瑞の養子となる。
幼名辰五郎のち主馬之助、名仲恭、字百里、
別号星聚館、方壷子。
山水、人物、花鳥画が得意。
天保9年6月3日歿。享年47。
間宮英宗
(まみや・えいしゅう)
1871〜1945
明治〜昭和前期の臨済宗の僧。
方広寺525世。
明治4年10月1日、愛知西中野生れ。
諱義雄、道英宗、号青竜窟。
岐阜霊松院の郡芳学林に学び、
京都天龍寺僧堂の橋本峨山に師事。
静岡の青竜寺に入住。鎌倉円覚寺の釈宗演に参禅。
その印可を得て、京都臨川寺の住職、
静岡奥山の方広寺派管長となる。
昭和20年3月21日歿。享年75。
三浦樗良
(みうら・ちょら)
1729〜1780
江戸中・後期の俳人
天明中興俳諧六家の一人
紀伊長島浦地蔵町生れ。
字冬卿、通称勘兵衛、別号無為庵・榎本庵等。
伊勢山田に無為庵(がいあん)を構えた。
、安永2年蕪村を知って親交。
同五年には京都へ移住。
安永9年歿。享年52。
宮本竹逕
(みやもと・ちっけい)
〜2002
現代のかな書家
広島生れ。本名顕一.
「大字かな」を提唱
日本芸術院賞受賞
平成14年10月7日歿。享年90。
日展参事。
読売書法会顧問、日本書芸院名誉顧問、
日本かな書道会顧問、寒玉書道会会長。
三尾呉石
(みお・ごせき)
1885〜1946
明治18年5月10日、東京日本橋生れ。本名秀太郎。
大橋翠石に師事。四条派を学ぶ。
虎の絵を得意とする。
東京勧業博覧会に《猛虎》で三等賞杯受賞
文展に《寒風猛威》・《村芝居》で入選
日本美術協会展に出品、日月会幹事
巽画会、浦和土曜会の会員
昭和21年没。享年61。
三木翠山
(みき・すいざん)
1887〜1957
明治20年7月15日、兵庫県生れ。
本名斎一郎。師竹内栖鳳。
竹杖会で研鑽を積む。
文展・帝展にて入賞多数。
昭和32年3月25日歿。享年69。
三島中洲
(みしま・ちゅうしゅう)
1830〜1919
幕末・明治期の漢学者。天保元年、備中生れ。
名毅、字遠叔、別号桐南・絵荘。
幼くして山田方谷に学び、のち江戸に出て、
昌平校に入り佐藤一斎・安積艮斎に学ぶ。
松山藩有終館の学頭になる。
麹町一番町に家塾二松学舎を設ける。
当時、慶応義塾・同人社と並んで三大塾といわれた。
重野安繹・川田甕江と並び、明治の三大文宗といわれた。
大昭8年没。享年90。
水田硯山
(みずた・けんざん)
1902〜1988
明治35年12月14日、大阪市生れ
本名美朗(よしろう)、兄は南画家水田竹圃・水田黄牛
兄竹圃の指導を受け、京都に移住
日本南画院の再興に参加、理事、監事となる
日展会友、日本南画院顧問
昭和63年9月7日、京都市で歿。享年85。
水野錬太郎
(みずの・れんたろう)
1868〜1949
明治〜昭和期の内務官僚・政治家
明治元年、秋田藩士の長男として生。
東大卒。第一銀行から内務参事官・
内相秘書官、神社・土木・地方各局長を歴任。
寺内・加藤友三郎・清浦各内閣の内相。
政友会。田中義一内閣の文相など歴任。
翼政会・旧政会各顧問。
敗戦後、戦犯に指名されたが釈放。
昭和24年歿。享年82。
三井親和
(みつい・しんな)
1700〜1782
書家・武術家。元禄13年江戸生れ。
通称孫兵衛、号龍湖・万玉亭。
書を僧東湖に学び、細井広沢の門人となり、
門下四天王の1人といわれる。
篆書は染物にもなり<親和染>の名で流行。
弓馬射術もよくし、この門人も多い。
江戸深川の三十三間堂で千射を行い、
通矢480本だったという。
天明2年歿。享年83。
三井飯山
(みつい・はんざん)
明治14年11月20日香川県彩歌郡生れ。
名蘊、字子清、通称犀二郎、別号竹風軒主人など。
大分杵築の十市王洋に南画を学び、
王洋没後、京都に出、田能村直入に師事。
日本南画協会会員。日本南画院結成。
昭和9年没。享年53。
皆川淇園
(みながわ・きえん)
1735〜1807
江戸時代中期の儒学者
享保19年12月8日京都生れ。
名愿(げん)、字伯恭、通称文蔵。
父は皆川成慶(春洞)、弟は富士谷成章。
伊藤錦里らに儒学を学ぶ。
京都に弘道館(学問所)を開き、
柴野栗山らと詩社を起こす。
文化4年5月16日没。享年73。
宮川長春
(みやがわ・ちょうしゅん)
江戸中期の浮世絵師。宮川派,勝川派の始祖。
肉筆画を専門とし,版画は作らなかった。
天和2年生まれ。尾張国宮川村の出身と伝えるが明らかではない。
通称を長左衛門といい,春旭堂と号して,
はじめ両国広小路に住し,のち芝新堀町に移った。
絵は菱川師宣の作風を慕い,懐月堂の美人画風にも影響されて,
浮世絵肉筆画の正統を継承した。遊里と芝居町を中心に,
江戸の市民風俗をいきいきと報告した作品は,
掛幅や画巻をはじめ潅風画の大作にいたるまで数多く残っている。
1749年(寛延2)日光東照宮修復の事業に,
稲荷橋狩野家の当主春賀理信に従い一門を率いて参加するが,
翌年の暮れに賃金不払いの件で狩野家と紛争をおこし,まもなく没する。
長春の代りに伊豆新島に流された高弟一笑にかわって,
春水が画姓を勝宮川,さらに勝川と改め,肉筆画の伝統を守り継いだ。
勝川派の春章や春朗(損飾北斎)が肉筆画を得意としたのは,
長春に画系の源をつないでいるからである。
代表作として《見返り美人図》(大和文華館),《遊女聞香図》
《風俗図巻》(ともに東京国立博物館),《歌舞伎・吉原風俗図巻》などがある。
宝暦2年没。享年71。
宮川寅雄
(みやがわ・とらお)
1908〜1984
戦後の評論家・美術史家。
明治41年10月10日東京生れ。
早大政経学部中退。戦前から共産党員として活躍(戦後除名)。
昭和41年文化大革命渦中の中国を訪問、
以来10数回訪中し、中国美術の我が国への紹介に尽力した。
著に「中国美術紀行」「会津八一の文学」など。
昭和59年12月25日没。享年77。
三宅呉暁
(みやけ・ごぎょう)
1864〜1919
元治元年3月1日、京都生。
名守広、通称清三郎、別号水月庵・心遠斎など。
森川曽文に師事し四條派を学ぶ。
各種展覧会などで受賞多数。
明治30〜40年まで京都市立美術工芸学校教諭。
大正8年8月26日歿。享年55。

日本画家三宅鳳白は次男
宮島詠士
(みやじま・えいし)

1867〜1943
慶応3年山形県米沢生れ。名を吉美、通称大八。
東京外国語学校支那語科卒業。
渡中し保定の張廉卿をたずねて門人になる。
帰国し、中国語塾善隣書院を創設。
また、東京大学、東京外国語学校講師も兼任。
中国通として、政治家や軍人からも中国問題
については相談される程で、中国人にも知己が多く、
日中交友のためには蔭の力を尽くした人でした。
昭和18年7月9日没。享年77。
宮柊二
(みや・しゅうじ)
1912〜1986
歌人。大正1年、新潟県堀之内町生れ。本名肇(はじめ)。
長岡中学在学中から作歌,相馬御風の《木蔭歌集》に投稿。
中学卒業後,家業の書店を手伝ったが,1932年上京,
翌年北原白秋に師事,白秋主宰の《多磨》が
創刊されて俊英として注目される。
39年応召されて中国大陸へ転戦,白秋の死を戦地で知る。

戦後第1歌集《群鶏》(1946)の清新な抒情で注目され,
戦後の現実と直面した《小紺珠》(1948),
従軍体験を結晶化した《山西省》(1949)で戦後短歌の代表歌人となった。
《多磨》解散の翌53年,〈生の証明〉をかかげて《コスモス》を創刊。
55年朝日歌壇選者となり,62年《多く夜の歌》で読売文学賞をはじめ,
76年迢空賞,77年芸術院賞を受賞,83年芸術院会員に推された。
76年脳血栓で倒れ,闘病のなかで作歌を続けてきた。
昭和61年歿。享年75。
武者小路実篤
(むしゃのこうじ・さねあつ)
1885〜1976
明治〜昭和期の説家・画家・思想家。
明治18年東京生れ。別号無車。
学習院から東大哲学科社会学専修に進学したが、1年で中退。
学習院同窓の有島武郎・志賀直哉らと文学同人雑誌《白樺》を創刊。
自伝的作品《お目出たき人》を公刊し、《その妹》(1915)、
《或る青年の夢》(1916)などの戯曲を《白樺》に発表した。

18年、自己の生活改造と社会の改造をねがって、
十数人の同志とともに宮崎県の辺境に武者主義
共生農園とでもよぶべき〈新しき村〉を創設。

代表作《幸福者》《友情》(以上1919)、《第三の隠者の
運命》(1922)、《或る男》(1923)などを発表した。
第2次大戦中に日本の参戦を〈聖戦〉とたたえ、戦後の公職追放をまねいた。
昭和期に入ると絵筆にしたしむことが多く、誠実無比といわれる画業と、
《真理先生》《馬鹿一》(1950)などの連作小説によって、
素朴にして玄妙な生命賛仰、人間賛仰の世界をきずいた。
独創的な個性であったが、つねに市井の生活者に
平明に語りかける思想と芸術であった。
昭和51年歿。享年92。
武藤嘉亭
(むとう・かてい)
明治43年生れ。師伊東深水・山川秀峰。
能画会同人。日展入21、帝文奉太展8、
区美審、美恊賞奨、佳5。
平成3年現在台東区元浅草に住す
武藤山治
(むとう・さんじ)
大正・昭和期の実業家・政治家。慶応3年、愛知県生れ。
慶応義塾卒業。渡米、タバコ製造所の見習職工として学ぶ。
帰国後、ジャパン‐ガゼット新聞社に勤務するかたわら、
博聞雑誌社、全国広告取扱所を設立した。
明治26年三井銀行に入り、神戸支店副支配人をへて、
27年鐘ヶ淵紡績(カネボウ)に入社し、本社支配人、
専務取締役、大正10年社長に就任。
12年実業同志会を創立、会長となり、
13年以降衆院議員当選3回。
昭和7年時事新報社に入り、帝人事件を摘発したが、
9年鎌倉で失業者に狙撃されて没した。68歳。
村上委山
(むらかみ・いざん)
1867〜1936
慶応3年5月20日、京都生れ。
本名義和、字子守、号香露山房、白蓬画房。
明治3年、東京に移住。
阿部閑山に北宗画を学び、閑山没後、
滝和亭に師事して南画を習得。
後年は日本美術協会を中心に活動、
茶道や華道にも詳しくそれぞれ免許皆伝であった。
昭和11年10月15日、東京麻布で没。享年69。
村上鬼城
(むらかみ・きじょう)
1865〜1938
明治〜昭和初期の俳人。本名荘太郎。
慶応元年、江戸の鳥取藩邸に生れる。
司法官を志し明治義塾に学んだが、耳疾のため断念、
明治27年、高崎で代書人となる。
翌28年、正岡子規に教えを請い、のち高浜虚子に師事。
渡辺水巴、飯田蛇笏、原石鼎、前田普羅らと
並んで「ホトトギス」における代表的俳人
として大正初期の俳壇で活躍した。
大須賀乙字は小林一茶と対比して一茶
以来の境涯の俳人であると評した。
昭和13年歿。享年74。
村上元三
(むらかみ・げんぞう)
昭和期の小説家。明治43年朝鮮元山府生れ。
青山学院中等部卒業。
長谷川伸の<劇作研究会>に参加、戯曲を書いていたが、
昭和15年「上総風土記」で直木賞受賞。
戦後、朝日新聞連載の「佐々木小次郎」が好評を博し
時代小説家として活躍。「新撰組」「源義経」
「水戸黄門」「高杉晋作」など、新聞小説で人気を博した。
村上三島
(むらかみ・さんとう)
1912〜2005
大正元年8月25日、愛媛県大三島生れ。
従三位勲三等旭日中綬章。文化勲章受章者。
漢文は山中月山、中国語は高建夫、
書道は片山萬年・辻本史邑に師事。
平成17年11月20日没。享年93。
村瀬義徳
(むらせ・ぎとく)
1877〜?
明治10年3月、尾張国布袋町生れ。
上京して東京美術学校で洋画を修め、
寺崎広業に師事して狩野派を研究すること多年、
特に花鳥、山水、人物を能くする。
帝国絵画協会会員。
大正期、東京下谷区御徒町に住す。
画道の外六芸に通ずると伝う。
没年不詳。
村瀬玉田
(むらせ・ぎょくでん)
1852〜1917
嘉永5年4月8日、京都生れ。
旧姓榎、本名徳温、通称清次郎、別号彩雲亭。
11歳で四条派の村瀬双石に師事。
15歳で養嗣子となる。
皇居造営に際し御用画を制作。
各種展覧会などで受賞。
四条派の伝統を継承しつつ近代感覚を
加味した作品は海外でも高い評価を受ける。
大正6年10月12日没。享年65。
村田栄輝
(むらた・えいき)
明治・大正期の画家。
明治3年12月19日、東京赤坂生れ。
名栄三郎、号永挙・光斎・朴容。
22年鮮斎永濯に師事し狩野派を研究。
日本美術協会や博覧会などで受賞多数。
人物画得意。没年不詳。
望月長好
(もちづき・ちょうこう)
1619〜1681
江戸前期の歌人。元和5年信濃生れ。
名兼友、のち広沢長孝、号小狭野屋・閑入軒。
京都に出て松永貞徳の門に入る。
晩年京都西郊広沢の池の辺に隠栖し、広沢と称した。
天和元年没。享年63。
本居宣長
(もとおり・のりなが)
1730〜1801
江戸中後期の国学者・医師。
国学三大家の一人。
享保15年5月7日、伊勢国松阪生れ。
本姓小津。幼名富之助。
名栄貞・真良・宣長。通称弥四郎・健蔵。
号鈴屋・芝蘭・春庵・舜庵など。
朱子学者の堀景山に師事。
荻生徂徠や契沖に影響を受け国学の道を志す。
帰郷した宣長は医師を開業し、かたわら
「源氏物語」や「日本書紀」の研究に励んだ。
加茂真淵の書に出会って国学の研究に入る。
享和元年9月29日歿。享年72。
元田肇
(もとだ・はじめ)
明治〜昭和期の政党政治家。安政5年大分生れ。号国東。
1880年東京大学を卒業,代言人となる。
第1回総選挙に大分県から選出され,以後連続16回当選。
はじめ大成会,国民協会など,いわゆる吏党に属する。
1900年立憲政友会の創立に参加し,党幹部となる。
13年第1次山本権兵衛内閣の逓信大臣,
原敬内閣で鉄道大臣,高橋是清内閣に留任。
第55議会で衆議院議長に就任した。
30年の総選挙で落選して政界を引退したが,
32年政党人としてはじめて枢密顧問官に親任された。
昭和13年歿。享年81。
森戸國次
(もりと・くにじ)
明治37年12月8日、東京深川生れ。
京都絵画専門学校に入学、同研究科卒業。
西村五雲のち安田靭彦に師事。
日展特選依属、日月社委員。
動物が得意。
森広陵
(もり・こうりょう)
1875〜
明治8年11月、群馬県前橋市生れ。
名廉。字子廉。父は森霞巌(南宗派)
師寺崎広業。
帝国絵画協会会員。美術研精会委員。
真美会、大東絵画会幹事。
大正期、東京池之端に住す。
没年不詳。
森本修古
(もりもと・しゅうこ)
昭和前期の画家。
西山翠嶂に師事。
兵庫県武庫郡魚崎町海岸に住す。
諸橋止軒
(もろはし・しけん)
1883〜1982
漢学者。
明治16年6月4日、新潟県三条市生れ。名は轍次。
東京文理科大教授・静嘉堂文庫長・都留文科大初代学長。
『大漢和辞典』の編著を行った。
文化勲章受章。勲一等瑞宝章。
著書に『漢学界の懐古』等がある。
昭和57年12月8日歿。享年99才。

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