矢沢弦月
(やざわ・げんげつ)
1866〜1952 |
明治19年1月22日、長野県上諏訪町生れ。
本名貞明。師久保田金僊・寺崎広業。
戦時中は報道班員として従軍。
東京女子高等師範学校講師、
東京美術学校日本画科講師、
日本美術学校教授、
日展運営会参事。
昭和27年1月26日歿。享年66。 |
安岡正篤
(やすおか・まさひろ)
1898〜1983 |
陽明学者、東洋思想家
明治31年2月13日、大阪市中央区生れ。
東京帝国大学の卒業記念として執筆され出版された
「王陽明研究」が反響を呼ぶ。
文部省に入省するも半年で辞し、東洋思想研究所
・金鶏学院・日本農士学校などを次々と創設。
2・26事件の首謀者西田税らに影響を与えた一人とも言われる。
戦時中は大東亜省顧問として外交政策などに関わった。
敗戦後、安岡が創設した各団体や学校はGHQにより解散を
命じられ財産は没収、安岡自身も公職追放される。
その後「師友会」(後の全国師友教会)を結成。
政治家たちの「精神的指導者」「陰の御意見番」。
生涯の多くは東洋古典の研究と人材育成に捧げた。
昭和58年12月13日歿。享年86。 |
安田善次郎
(やすだ・ぜんじろう)
1838〜1921 |
明治大正期の実業家。
天保9年越中富山生れ。
両替屋を開き成功。安田屋と称した。
第三国立銀行創設。
第四十一国立銀行、
安田銀行を創立。
日比谷公会堂・東大安田講堂を寄付した。
大磯の別邸で刺殺された。
大正10年歿。享年83。 |
安田半圃
(やすだ・はんぽ)
1889〜1947 |
明治22年新潟県生れ。
本名太郎。別号光見・鶴伴居。
水田竹圃に師事、南画を修める。
日本南画院同人としても活躍。
熱海伊豆山に疎開中の昭和22年9月8日、
東京の病院で歿。享年58。 |
山内容堂
(やまうち・ようどう)
1827〜1872 |
文政10年生れ。幕末の土佐藩主。
大政奉還を建白したことで有名。
豊信(とよしげ)と名のる。別号は鯨海酔侯,
九十九洋外史,酔擁美人楼など。
一橋慶喜を将軍継嗣に擁立する動きに参画。しかしことは成らず,
安政の大獄の強圧のなかで隠退したが,謹慎を命ぜられた。
将軍後見職一橋慶喜らに朝幕間の調和を説き,公武合体をはかった。
他方63年土佐帰国後は勤王党を抑圧する。
その後形勢を観望していたが,武力討幕の方向がたかまった
67年(慶応3)になって大政奉還の建白書を幕府に提出し,
王政復古後も徳川慶喜の朝議参与を求めた。
開明的藩主として雄藩連合体制の実現を
求めたが,結果的には実現しなかった。
新政府で要職を歴任するが,所を得ず,詩と酒に日を送ったという。
明治5年6月20日歿、享年46。
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八木岡春山
(やぎおか・しゅんざん)
1879〜1941 |
明治12年12月12日、東京深川生れ。
本名亮之助。下條桂谷に師事。
日本美術協会理事・審査員。
昭和16年8月27日東京で歿。享年61。 |
柳原白蓮
(やなぎはら・びゃくれん)
1885〜1967 |
明治18年、東京生れ。歌人。
本名晒子(あきこ)。柳原前光の次女。
叔母愛子(なるこ)は大正天皇の母。
東洋英和女学校卒。
北小路資武と離婚して九州の炭鉱王伊藤伝右衛門に再嫁。
豪華奢侈(しやし)な暮しぶりで〈筑紫の女王〉と称されたが,
1921年社会運動家宮崎竜介との恋愛,結婚で世上をにぎわした。
短歌は佐佐木信綱に師事,
情熱的歌人と評され35年より歌誌《ことたま》主宰。
戦後,愛児香織の戦死を悼み〈国際悲母の会〉結成。
昭和42年歿、享年83。 |
柳原義光
(やなぎはら・よしみつ) |
伯爵、貴族院議員
号華山。柳原白蓮の兄。
白蓮の離婚騒動や娘徳子の不良華族事件、
自分自身にも同性愛疑惑が発覚し、
天皇家に近い一族が世間から
猛烈な非難を浴びて権威を失墜した。 |
山岡山泉
(やまおか・さんせん)
1871〜1943 |
明治4年、奈良県生れ
本名千太郎
摸写絵を能する
昭和18年歿。享年73。 |
山岡鉄舟
(やまおか・てっしゅう)
1836〜1888 |
幕末三舟の一人。天保7年江戸生れ。
名高歩、字猛虎、通称鉄太郎、旧姓小野。
身長190cmの巨漢で、「鬼鉄」の異名をもつ剣豪。
講武所剣術の教授方世話役となり、文久3年
「新選組」の前身、「鎮撫隊」の組長として200人
からの荒くれを引き連れて、京都に登る。
山岡の赤心が海舟を動かし、江戸城無血開城の道を切り開く。
維新後は、静岡藩権大参事を経て新政府に出仕、
明治天皇の側近となり、侍従、内宮少輔を歴任する。
明治21年没。享年53。 |
山縣有朋
(やまがた・ありとも)
1838〜1922 |
明治・大正期の陸軍軍人(元帥)・政治家。
天保9年長門(山口県)生れ。
名小輔・狂介、維新後有朋と改名。
松下村塾に学び、各藩の尊攘派志士と交わる。
西南戦争には従討参軍。
伊藤博文と共に明治政府の最高指導者。
内閣制度による最初の内相。
日清戦争には第一軍司令官、大本営監軍兼陸相。
日露戦争には参謀総長。
大正11年歿。享年85。 |
山縣伊三郎
(やまがた・いさぶろう)
1857〜1927 |
安政4年12月23日、萩藩士の二男に生れる。
文久元年、叔父山縣有朋の養嗣子となる。
枢密顧問官、公爵。素空と号す。
昭和2年9月24日歿。享年71。 |
山下巌
(やました・いわお)
1898〜1977 |
明治31年11月20日、鹿児島市生れ。
大正3年上京,川合玉堂門下の山内多門に師事。
日本画会展などで受賞を重ね、帝展・文展に入選。
師多門没後、玉堂の長流画塾に入門、
のち児玉希望の戊辰会に参加、
また三光会を結成。
昭和52年2月22日没。享年78。 |
山下竹斎
(やました・ちくさい)
1885〜1973 |
明治18年7月17日、京都生れ。
本名覚太郎。師山元春挙。
文展・帝展などで活躍。
昭和48年没。享年89。 |
山田敬中
(やまだ・けいちゅう)
1868〜1934 |
慶応4年4月2日東京浅草生れ。
旧姓島根、本名忠蔵、別号可得・年忠・南窓・南斎。
月岡芳年に入門、浮世絵を学び、芳年のすすめで
川端玉章に師事、円山派を修める。
日本美術院創立に参加、正員となる。
日本美術協会会員、天真会、美術研精会顧問など。
昭和9年1月21日歿。享年65。
日本画家山田申吾は次男。
加藤栄三は娘婿。 |
山田研斎
(やまだ・けんさい) |
刀剣研師。中央刀剣会(刀剣鑑賞会)理事長。
禅を天龍寺派大森曹玄より印加を受。
書は横山雪堂に師事。 |
山村耕花
(やまむら・こうか)
1885〜1942 |
明治18年1月2日、東京品川生れ。
本名豊成、生家は品川不動。
師尾形月耕。報知新聞社入社。
日本美術院同人。
中国古代の陶磁器などの蒐集家。
従軍画家として中国の戦地に赴く。
昭和17年1月25日没。享年57。 |
山本暁邦
(やまもと・ぎょうほう) |
明治20年栃木県宇都宮生れ。名弘友。
佐竹永湖、真野暁亭に師事。
山水、人物に堪能。
各種展覧会にて受賞有り。
貴族より御用命を拝すること数回。
帝国絵画協会の会員。
大正時代東京に住す。
没年不詳。 |
山本紅雲
(やまもと・こううん)
1896〜1993 |
明治29年11月16日、兵庫県伊丹生れ
旧姓岡田、本名利三郎
竹内栖鳳に師事
文展・帝展などに入選多数
平成5年6月19日、京都市で歿。享年96。 |
山本玄峰
(やまもと・げんぽう)
1865〜1961 |
明治〜昭和期の臨済宗の僧。
慶応元年、紀伊(和歌山県)生れ。号的翁。
路傍に捨てられていたのを拾われ岡本家に養われる。
青年時代は山仕事と筏師の労働に従っていたが、
眼病を治すための四国霊場巡礼が契機となり、
明治24年26歳で高知の雲蹊寺山本太玄のもとで出家、
山本姓になる。各地の禅寺で修業したが、
48歳から8年間修行した京都の円福寺宗般の印可を得る。
大正3年三島の龍澤寺に入山、再興にあたり、
さらに原の松蔭寺、犬山の瑞泉寺も復興する。
大正末期から東京の白山道場・
龍雲院で接心の会をもつようになり、
政・財界などに多数の信者と支持者をつくる。
昭和22年臨済宗妙心寺派管長。
昭和36年没。享年97。 |
山本達雄
(やまもと・たつお)
1856〜1947 |
明治〜昭和前期の政治家、実業家。
安政3年豊後(大分県)生。三菱商業卒。
岡山県立商法講習所教頭。
大阪府立商法講習所教頭。
三菱に入社。日本郵船元山(朝鮮)支店支配人。
日本郵船東京支店副支配人。
日本銀行に入社。営業局長。
1898〜1903年まで第5代総裁。
日本勧業銀行総裁。第2次西園寺内閣の蔵相。
農商務相、内相も歴任。
財界人の政界進出のパイオニア的存在。
昭和22年没。享年92。 |
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山川永雅
(やまかわ・えいが) |
明治11年12月、東京生れ。本名峰次郎。
17歳で佐竹永湖に入門、2年程のち小堀鞆音に師事。
安田靭彦らと紫紅会(紅児会)を結成。
日本美術協会展、連合絵画共進会などに入選、受賞多数。
東京勧業博覧会で褒状を受け、文展・帝展に入選多数。
昭和22年没。享年69。 |
山口弘達
(やまぐち・ひろよし)
1860〜1932 |
常陸牛久藩1万石山口家第12代当主
万延元年3月23日生れ。
父弘敞。名長次郎、君道。
文久2年8月3日弱冠3歳で家督相続
従二位、周防守、牛久県知事
昭和7年7月18日没。享年73。 |
山下巌
(やました・いわお)
1898〜1977 |
明治31年11月20日、鹿児島市生れ。
大正3年上京,川合玉堂門下の山内多門に師事。
日本画会展などで受賞を重ね、帝展・文展に入選。
師多門没後、玉堂の長流画塾に入門、
のち児玉希望の戊辰会に参加、
また三光会を結成。
昭和52年2月22日没。享年78。 |
山田秋畝
(やまだ・しゅうほ)
1887〜? |
明治20年熊本県生れ。
師寺崎広業・木島桜谷。
美人画を得意とする。
没年不詳。 |
山田東洋
(やまだ・とうよう) |
明治〜昭和初期の画家。新潟県柏崎生れ。
東京洋画学校で学ぶ。日本各地旅に出た。
朱衣のダルマを油絵で描く事を得意とした。
晩年は鉄斎風の山水画も描く。
昭和21年歿。享年80。 |
山田無文
(やまだ・むもん)
1900〜1988 |
昭和時代の臨済宗妙心寺派の僧。
明治32年愛知の稲武に生まれる。
号は太室・通仙洞。
1921年に南禅寺金地院の河野大圭について得度。
30年天龍寺の僧堂へ移り関精拙に師事。
49年妙心寺の霊雲院住職、
禅文化研究所所長。花園大学学長に就任。
55年に妙心寺の住職となる。
昭和63年没。享年89。 |
山中信天翁
(やまなか・しんてんおう)
1822〜1885 |
文政5年、愛知県碧海郡生れ。
名静逸、通称七左衛門、別号二水など。
大阪に出て篠崎小竹に入門。
のち、伊勢に行って斎藤拙堂の塾で内弟子となる。
明治2年登米県知事に任ぜられたが程なくやめ、、
伏見宮家や閑院宮家の家令となった。
京都下賀茂に住居を構えて、
詩、書、画、篆刻に余生を送った。
明治18年5月22日没。享年64歳。 |
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結城素明
(ゆうき・そめい)
1875〜1957 |
明治8年12月10日、東京本所生れ。
旧姓森田。本名貞松。
18年親類の結城家の養嗣子となり、
24年川端玉章の天真画塾に入門。
東京美術学校日本画科卒業、
西洋画科に再入学中退。
自然主義を綱領とする无声会を結成。
金鈴社結成。大日美術院結成。
東京美術学校教授。
東京女子高等師範学校教授。
帝国美術院会員。
昭和32年3月24日没。享年81。
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幸松春浦
(ゆきまつ・しゅんぽ)
1897〜1962 |
明治30年6月30日、大分市生れ。
本名猪六。19歳で大阪に出、姫島竹外に師事。
のち京都の水田竹圃の画塾に入門。
帝展入選多数。帝展改組では第一部会に参加。
昭和37年3月6日歿。享年64。 |
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横井金谷
(よこい・きんこく)
1761〜1832 |
江戸後期の画家。
宝暦11年、栗太郡下笠村(草津市)生れ。
はじめ浄土宗の僧侶であったが、
後に山伏となって諸国を放浪したという。
彼は若いときから絵を独習し、与謝蕪村に傾倒して
いたため、紀楳亭とともに「近江蕪村」とも称された。
63歳で坂本に住居を定め、草庵「常楽房」を営んだ。
天保3年(1832)72歳で没するまで、ここで暮らした。
天保3年歿。享年72。 |
横田仙草
(よこた・せんそう)
1895〜1962 |
明治28年10月17日、東京生れ。
本名専三、初号蕉雨。早稲田実業学校卒業。
五島耕畝や織田観潮に日本画の手ほどきを受ける。
京都を経て大正11年に大阪・高島屋宣伝部につとめるが、
2年ほどで帰京、小林古径に師事、また速見御舟に指導を受ける。
日本美術院院友、院展などに入選を重ねる。
昭和37年12月30日歿。享年67。 |
横山松雲
(よこやま・しょううん)
1884〜1964 |
明治17年、群馬県太田生れ。
本名晶次郎、号聴鴬窓主人・蝸牛草蘆主人など。
師小室翠雲。大東南宗院結成に参加。
日本南画院同人。
昭和39年没。享年79。 |
横山大観
(よこやま・たいかん)
1868〜1958 |
明治〜昭和前期の日本画家
明治元年茨城県水戸市生れ。
89年新設の東京美術学校日本画科第1回生として橋本雅邦に学び、
とくに校長岡倉天心に信頼され終生その強い感化をうける。
天心の辞職とともに日本美術院の創立に参加,その正員となる。
天心の要望で茨城県の五浦(いずら)に移住。
13年天心が没すると,その遺志を継いで日本美術院の
再興を志し,翌年,観山,安田靫彦,今村紫紅らを集めて
再興院展を設立,その後40年余,主宰者として運営
にあたり日本画壇の一大勢力に育てあげた。
昭和33年歿。享年91。 |
吉井勇
(よしい・いさむ)
1886〜1960 |
大正・昭和期の歌人・作家。明治19年10月8日東京生れ。
伯爵吉井幸蔵の次男。早大政経科中退。
中学卒業後の1905年新詩社に入り、《明星》に短歌を発表。
《スバル》創刊後は同人として活躍、戯曲にも手を染めた。
第1歌集《酒(さか)ほがひ》、戯曲集《午後三時》、
《梢園歌集》、《俳諧亭句楽》、歌集《人間経》、など刊行。
爵位返上,妻との離別,土佐隠棲などの変動期を経る。
戦後,歌会始選者や芸術院会員となる。
昭和35年に肺癌で没するまで文筆する。
晩年の代表作に小説集《蝦蟆鉄拐(がま
てつかい)》、歌集《形影抄》などがある。
昭和35年11月19日歿。享年75。 |
吉江喬松
(よしえ・たかまつ)
1880〜1940 |
フランス文学者・評論家。
明治13年、長野県生れ。号孤雁。
早稲田英文科卒。中沢臨川・窪田空穂・水野葉舟と親交。
国木田独歩主宰の近事画報社入社。「新古文林」編集。
早稲田仏文科創設・主任教授。
著書『近代詩講和』散文集『緑雲』『青空』など
昭和15年没。享年61。 |
吉田茂
(よしだ・しげる)
1878〜1967 |
第2次大戦後の日本の保守政治を代表する政治家。
土佐自由党の士 竹内綱の五男として明治11年、東京に生まれる。
東京帝国大学(東大)政治科を卒業し、外務省に入る。
東久邇宮稔彦内閣の外相、幣原喜重郎内閣にも留任。
公職追放となった鳩山一郎の後を受けて日本自由党総裁。
憲法改正、農地改革などを実施。
自由民主党結成、総裁。自由党創立。
サンフランシスコ講和会議に主席全権委員として出席し、
講和条約、日米安全保障条約を締結。
内閣を5次にわたり組織した。
衆議院解散〈バカヤロー解散〉
昭和42年歿。享年90。国葬 |
吉田翠鳳
(よしだ・すいほう) |
明治44年埼玉県生れ
師大橋翠石・三尾呉石
虎画得意 |
吉野秀雄
(よしの・ひでお)
1902〜1967 |
昭和期の歌人
明治35年7月3日、群馬県高崎生れ。
慶応義塾理財科(経済学部の前身)
に進んだが,肺患にかかって中退。
病床で正岡子規の作品,歌論を
読んで感激したことが契機となって
作歌を始め,これ以後,宿痾との闘いをとおして
みずからも万葉調,写生説の実践をつづけていった。
やがて会津八一の門人となり,この狷介
孤高の師の影響下に学芸の素養を深め,
私家版の歌集を出すことはあっても,あり余る
才能を広く世に問うことをあえて自制していたが,
第2次大戦後に歌集《寒宙(かんせん)集》(1947)を刊行,
歌壇にデビューしたときにはすでに
大家の風を樹立し畢(おお)せていた。
歌風あくまで高雅にして率直,堂々たる
〈ますらおぶり〉の調べを湛(たた)える秀歌群
は次の《晴陰集》(1958)で頂点を極めた。
良寛研究書のほか多数の美術鑑賞,旅行記,随筆
を残し,また書家としても第一級の境地を極めた。
昭和42年7月13日歿。享年66。 |
米内光政
(よない・みつまさ)
1880〜1948 |
大正・昭和前期の海軍軍人(大将)・政治家
明治13年3月2日、旧盛岡藩士米内受政の長男として盛岡に生まれる。
盛岡中学を経て海軍兵学校へ進み、卒業後海軍
少尉に任官、日露戦争では海軍中尉として従軍した。
後にロシアやポーランドなどヨーロッパに駐在し、
その地の実情を直に見聞した。
昭和12年(1937)には林内閣のもと海軍大臣に就任し、
陸軍の主張する三国同盟に反対した。
この反戦主義の姿勢は終戦まで変わらなかった。
天皇の信頼も厚く、昭和15年(1940)内閣総理大臣に就任、
しかし陸軍の反対に会い半年後に退任した。
太平洋戦争末期には小磯内閣のもとで4期目の
海軍大臣として入閣、終戦のために尽力する。
終戦後も海軍大臣に留任し、海軍省廃省の
責任者として日本海軍の最期を見届けた。
昭和23年4月20日没。享年69。 |
米山朴庵
(よねやま・ぼくあん)
1864〜1928 |
元治元年9月29日、東桂の境に生れた。
本名登(旧名和蔵)、画号朴庵、停雲閣、渓素軒、六石堂。
8歳のとき米山喜七の養子となり、滝和亭の門に入り、
和亭とともに千葉県の野田醤油醸造業の
茂木宅に寄寓して絵を描き以降親交を深めた。
谷村の小池宅にも出入し作品を残している。
朴庵は画界の派閥関係や師のえこひいきが嫌いで、
当時の展覧会へは出品しなかったが、
名声を欲しない立派な芸術家であった。
昭和3年、東京若宮町の自宅で没。享年64。
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頼聿庵
(らい・いつあん)
1801〜1856 |
享和元年2月20日、父山陽の幽居中に生れる。
名元協、字承緒、通称餘一、別号春嶂。
4歳にして祖父春水の養嗣景議に兄事し、
大叔父杏坪の薫陶を受け、
景議歿後、春水の嫡子たることを許される。
春水没後、広島の宗家を嗣ぎ、学問所儒員。
奥詰格、三百石。
安政3年8月30日歿。享年56。 |
頼山陽
(らい・さんよう)
1781〜1832 |
歴史家、思想家、漢詩人、文人。
幼名久太郎、名襄(のぼる)、字子成、
号山陽・三十六峰外史。
頼春水の子。頼杏坪は叔父。
頼三樹三郎は三男。
中国文学者頼惟勤は子孫
尾藤二洲に師事。
天保3年9月23日歿。享年53。 |
頼支峰
(らい・しほう)
1822〜1889 |
幕末・明治期の儒学者。
文政5年京都生まれ。頼山陽の次子。
頼三樹三郎の兄。名は復、字は子剛。
師後藤松陰、牧百峰。
明治元年、大学二等教授になり、
のち辞任して京都に帰る。
明治22年没。67才。 |
頼三樹三郎
(らい・みきさぶろう)
1825〜1859 |
幕末期の尊皇攘夷派志士
文政8年7月11日、京都三本木生れ。
名醇、通称三木八、号鴨崖。
頼山陽の三男。
後藤松陰、篠崎小竹、
佐藤一斎、梁川星巌らに学ぶ。
安政の大獄で捕らえられ幽閉され、
のち江戸小塚原刑場で斬首される。
安政6年11月1日没。享年35。 |
冷泉為恭
(れいぜい・ためちか)
1823〜1864 |
文政6年9月17日狩野永泰其同の三男に生る。
名晋三、永恭、別名岡田、号心蓮。
冷泉の姓は無断で名乗ったもので、公家ではない。
復古大和絵画家。
関白九条尚忠に仕える近侍となる。
佐幕派であった為に、尊皇攘夷派から命を狙われ、
紀伊国粉河寺、堺から丹波国へ逃れる。
文久4年5月5日大和丹波市の鍵屋の辻で
誘い出され長州藩士大楽源太郎らの凶刃に倒る。享年42。 |
冷泉為村
(れいぜい・ためむら)
1712〜1774 |
江戸中期の公卿・歌人
正徳2年生れ。為久の子。法号澄覚。
正二位。権大納言。
霊元天皇から<古今伝授>を受ける。
冷泉家中興の祖といわれる。
門下に石野広通・萩原宗固・柳原保光らがいる。
安永3年没。享年63。 |
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若狭成業
(わかさ・せいぎょう)
1887〜1957 |
明治20年1月1日秋田市生れ。
名忠太郎。別号如岳・物外。
師小野崎如水(穂庵門)・寺崎広業。
大正初期より京都に移住。
王一亭、呉昌碩らと親交。
昭和32年7月16日歿。享年71。 |
渡辺華山
(わたなべ・かざん) |
寛政5年9月16日、父が三河田原藩士で側用人だったので、
江戸半蔵門外、田原藩の屋敷内で生れる。
幼名虎之助、名定静、字子安、通称登、別号全楽堂。
白川芝山に入門するが月謝を払えず師からことわられ、
その事を知った金子金陵が無月謝で教える。
漢学は佐藤一斎に学ぶ。
金陵没後は文晁の許へゆき友人のように大事にされた。
勤皇思想のため幕府に捕らえられ、入牢後蟄居を命ぜられ、
蟄居中門人の福田半香が江戸で崋山の
為に画会をおこして奔走したので、
世間から蟄居中に門人を使って画会し金を集め
上をおそれぬ振舞いだなどと言われ、
藩主に迷惑がかかってはと自刃して果てた。
天保12年10月11日。享年49。 |
渡辺清
(わたなべ・きよし)
1778〜1861 |
江戸後期の画家。尾張藩絵師。
宝暦元年、尾張生れ。別号雪朝斎周渓。
狩野派を学び、のち土佐光貞・田中訥言に就き、
復興大和派画家として活躍。
中林竹洞・山本梅逸らと親交。
文久元年5月7日歿。享年84。 |
渡辺公観
(わたなべ・こうかん)
1878〜1938 |
明治11年1月20日、滋賀県大津生れ。
本名耕平、別号狂魚洞・遊魚洞。
京都市立美術工芸学校中退。
森川曽文に師事。四條派を学ぶ。
日本自由画壇を結成。
昭和13年7月29日、京都で歿。享年60。 |
渡辺省亭
(わたなべ・せいてい)
1851〜1918 |
嘉永4年12月27日江田神田生れ。
旧姓吉川、名義復、良助。
師菊池容斎。
新しい感覚による華麗な
花鳥画で海外で高い評価を得る。
晩年は展覧会審査に不信をいだき
公開の場には出品しなかった。
大正7年4月2日歿、享年66。 |