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や・ら・わ 行
矢沢弦月
(やざわ・げんげつ)
1866〜1952
明治19年1月22日、長野県上諏訪町生れ。
本名貞明。師久保田金僊・寺崎広業。
戦時中は報道班員として従軍。
東京女子高等師範学校講師、
東京美術学校日本画科講師、
日本美術学校教授、
日展運営会参事。
昭和27年1月26日歿。享年66。
安岡正篤
(やすおか・まさひろ)
1898〜1983
陽明学者、東洋思想家
明治31年2月13日、大阪市中央区生れ。
東京帝国大学の卒業記念として執筆され出版された
「王陽明研究」が反響を呼ぶ。
文部省に入省するも半年で辞し、東洋思想研究所
・金鶏学院・日本農士学校などを次々と創設。
2・26事件の首謀者西田税らに影響を与えた一人とも言われる。
戦時中は大東亜省顧問として外交政策などに関わった。

敗戦後、安岡が創設した各団体や学校はGHQにより解散を
命じられ財産は没収、安岡自身も公職追放される。
その後「師友会」(後の全国師友教会)を結成。
政治家たちの「精神的指導者」「陰の御意見番」。

生涯の多くは東洋古典の研究と人材育成に捧げた。
昭和58年12月13日歿。享年86。
安田善次郎
(やすだ・ぜんじろう)
1838〜1921
明治大正期の実業家。
天保9年越中富山生れ。
両替屋を開き成功。安田屋と称した。
第三国立銀行創設。
第四十一国立銀行、
安田銀行を創立。
日比谷公会堂・東大安田講堂を寄付した。
大磯の別邸で刺殺された。
大正10年歿。享年83。
安田半圃
(やすだ・はんぽ)
1889〜1947
明治22年新潟県生れ。
本名太郎。別号光見・鶴伴居。
水田竹圃に師事、南画を修める。
日本南画院同人としても活躍。
熱海伊豆山に疎開中の昭和22年9月8日、
東京の病院で歿。享年58。
山内容堂
(やまうち・ようどう)
1827〜1872
文政10年生れ。幕末の土佐藩主。
大政奉還を建白したことで有名。
豊信(とよしげ)と名のる。別号は鯨海酔侯,
九十九洋外史,酔擁美人楼など。
一橋慶喜を将軍継嗣に擁立する動きに参画。しかしことは成らず,
安政の大獄の強圧のなかで隠退したが,謹慎を命ぜられた。
将軍後見職一橋慶喜らに朝幕間の調和を説き,公武合体をはかった。
他方63年土佐帰国後は勤王党を抑圧する。
その後形勢を観望していたが,武力討幕の方向がたかまった
67年(慶応3)になって大政奉還の建白書を幕府に提出し,
王政復古後も徳川慶喜の朝議参与を求めた。
開明的藩主として雄藩連合体制の実現を
求めたが,結果的には実現しなかった。
新政府で要職を歴任するが,所を得ず,詩と酒に日を送ったという。
明治5年6月20日歿、享年46。
八木岡春山
(やぎおか・しゅんざん)
1879〜1941
明治12年12月12日、東京深川生れ。
本名亮之助。下條桂谷に師事。
日本美術協会理事・審査員。
昭和16年8月27日東京で歿。享年61。
柳原白蓮
(やなぎはら・びゃくれん)
1885〜1967
明治18年、東京生れ。歌人。
本名晒子(あきこ)。柳原前光の次女。
叔母愛子(なるこ)は大正天皇の母。
東洋英和女学校卒。

北小路資武と離婚して九州の炭鉱王伊藤伝右衛門に再嫁。
豪華奢侈(しやし)な暮しぶりで〈筑紫の女王〉と称されたが,
1921年社会運動家宮崎竜介との恋愛,結婚で世上をにぎわした。
短歌は佐佐木信綱に師事,
情熱的歌人と評され35年より歌誌《ことたま》主宰。
戦後,愛児香織の戦死を悼み〈国際悲母の会〉結成。
昭和42年歿、享年83。
柳原義光
(やなぎはら・よしみつ)
伯爵、貴族院議員
号華山。柳原白蓮の兄。
白蓮の離婚騒動や娘徳子の不良華族事件、
自分自身にも同性愛疑惑が発覚し、
天皇家に近い一族が世間から
猛烈な非難を浴びて権威を失墜した。
山岡山泉
(やまおか・さんせん)
1871〜1943
明治4年、奈良県生れ
本名千太郎
摸写絵を能する
昭和18年歿。享年73。
山岡鉄舟
(やまおか・てっしゅう)
1836〜1888
幕末三舟の一人。天保7年江戸生れ。
名高歩、字猛虎、通称鉄太郎、旧姓小野。
身長190cmの巨漢で、「鬼鉄」の異名をもつ剣豪。
講武所剣術の教授方世話役となり、文久3年
「新選組」の前身、「鎮撫隊」の組長として200人
からの荒くれを引き連れて、京都に登る。
山岡の赤心が海舟を動かし、江戸城無血開城の道を切り開く。
維新後は、静岡藩権大参事を経て新政府に出仕、
明治天皇の側近となり、侍従、内宮少輔を歴任する。
明治21年没。享年53。
山縣有朋
(やまがた・ありとも)
1838〜1922
明治・大正期の陸軍軍人(元帥)・政治家。
天保9年長門(山口県)生れ。
名小輔・狂介、維新後有朋と改名。
松下村塾に学び、各藩の尊攘派志士と交わる。
西南戦争には従討参軍。
伊藤博文と共に明治政府の最高指導者。
内閣制度による最初の内相。
日清戦争には第一軍司令官、大本営監軍兼陸相。
日露戦争には参謀総長。
大正11年歿。享年85。
山縣伊三郎
(やまがた・いさぶろう)
1857〜1927
安政4年12月23日、萩藩士の二男に生れる。
文久元年、叔父山縣有朋の養嗣子となる。
枢密顧問官、公爵。素空と号す。
昭和2年9月24日歿。享年71。
山下巌
(やました・いわお)
1898〜1977
明治31年11月20日、鹿児島市生れ。
大正3年上京,川合玉堂門下の山内多門に師事。
日本画会展などで受賞を重ね、帝展・文展に入選。
師多門没後、玉堂の長流画塾に入門、
のち児玉希望の戊辰会に参加、
また三光会を結成。
昭和52年2月22日没。享年78。
山下竹斎
(やました・ちくさい)
1885〜1973
明治18年7月17日、京都生れ。
本名覚太郎。師山元春挙。
文展・帝展などで活躍。
昭和48年没。享年89。
山田敬中
(やまだ・けいちゅう)
1868〜1934
慶応4年4月2日東京浅草生れ。
旧姓島根、本名忠蔵、別号可得・年忠・南窓・南斎。
月岡芳年に入門、浮世絵を学び、芳年のすすめで
川端玉章に師事、円山派を修める。
日本美術院創立に参加、正員となる。
日本美術協会会員、天真会、美術研精会顧問など。
昭和9年1月21日歿。享年65。

日本画家山田申吾は次男。
加藤栄三は娘婿。
山田研斎
(やまだ・けんさい)
刀剣研師。中央刀剣会(刀剣鑑賞会)理事長。
禅を天龍寺派大森曹玄より印加を受。
書は横山雪堂に師事。
山村耕花
(やまむら・こうか)
1885〜1942
明治18年1月2日、東京品川生れ。
本名豊成、生家は品川不動。
師尾形月耕。報知新聞社入社。
日本美術院同人。
中国古代の陶磁器などの蒐集家。
従軍画家として中国の戦地に赴く。
昭和17年1月25日没。享年57。
山本暁邦
(やまもと・ぎょうほう)
明治20年栃木県宇都宮生れ。名弘友。
佐竹永湖、真野暁亭に師事。
山水、人物に堪能。
各種展覧会にて受賞有り。
貴族より御用命を拝すること数回。
帝国絵画協会の会員。
大正時代東京に住す。
没年不詳。
山本紅雲
(やまもと・こううん)
1896〜1993
明治29年11月16日、兵庫県伊丹生れ
旧姓岡田、本名利三郎
竹内栖鳳に師事
文展・帝展などに入選多数
平成5年6月19日、京都市で歿。享年96。
山本玄峰
(やまもと・げんぽう)
1865〜1961
明治〜昭和期の臨済宗の僧。
慶応元年、紀伊(和歌山県)生れ。号的翁。
路傍に捨てられていたのを拾われ岡本家に養われる。
青年時代は山仕事と筏師の労働に従っていたが、
眼病を治すための四国霊場巡礼が契機となり、
明治24年26歳で高知の雲蹊寺山本太玄のもとで出家、
山本姓になる。各地の禅寺で修業したが、
48歳から8年間修行した京都の円福寺宗般の印可を得る。
大正3年三島の龍澤寺に入山、再興にあたり、
さらに原の松蔭寺、犬山の瑞泉寺も復興する。
大正末期から東京の白山道場・
龍雲院で接心の会をもつようになり、
政・財界などに多数の信者と支持者をつくる。
昭和22年臨済宗妙心寺派管長。
昭和36年没。享年97。
山本達雄
(やまもと・たつお)
1856〜1947
明治〜昭和前期の政治家、実業家。
安政3年豊後(大分県)生。三菱商業卒。
岡山県立商法講習所教頭。
大阪府立商法講習所教頭。
三菱に入社。日本郵船元山(朝鮮)支店支配人。
日本郵船東京支店副支配人。
日本銀行に入社。営業局長。
1898〜1903年まで第5代総裁。
日本勧業銀行総裁。第2次西園寺内閣の蔵相。
農商務相、内相も歴任。
財界人の政界進出のパイオニア的存在。
昭和22年没。享年92。
山川永雅
(やまかわ・えいが)
明治11年12月、東京生れ。本名峰次郎。
17歳で佐竹永湖に入門、2年程のち小堀鞆音に師事。
安田靭彦らと紫紅会(紅児会)を結成。
日本美術協会展、連合絵画共進会などに入選、受賞多数。
東京勧業博覧会で褒状を受け、文展・帝展に入選多数。
昭和22年没。享年69。
山口弘達
(やまぐち・ひろよし)
1860〜1932
常陸牛久藩1万石山口家第12代当主
万延元年3月23日生れ。
父弘敞。名長次郎、君道。
文久2年8月3日弱冠3歳で家督相続
従二位、周防守、牛久県知事
昭和7年7月18日没。享年73。
山下巌
(やました・いわお)
1898〜1977
明治31年11月20日、鹿児島市生れ。
大正3年上京,川合玉堂門下の山内多門に師事。
日本画会展などで受賞を重ね、帝展・文展に入選。
師多門没後、玉堂の長流画塾に入門、
のち児玉希望の戊辰会に参加、
また三光会を結成。
昭和52年2月22日没。享年78。
山田秋畝
(やまだ・しゅうほ)
1887〜?
明治20年熊本県生れ。
師寺崎広業・木島桜谷。
美人画を得意とする。
没年不詳。
山田東洋
(やまだ・とうよう)
明治〜昭和初期の画家。新潟県柏崎生れ。
東京洋画学校で学ぶ。日本各地旅に出た。
朱衣のダルマを油絵で描く事を得意とした。
晩年は鉄斎風の山水画も描く。
昭和21年歿。享年80。
山田無文
(やまだ・むもん)
1900〜1988
昭和時代の臨済宗妙心寺派の僧。
明治32年愛知の稲武に生まれる。
号は太室・通仙洞。
1921年に南禅寺金地院の河野大圭について得度。
30年天龍寺の僧堂へ移り関精拙に師事。
49年妙心寺の霊雲院住職、
禅文化研究所所長。花園大学学長に就任。
55年に妙心寺の住職となる。
昭和63年没。享年89。
山中信天翁
(やまなか・しんてんおう)
1822〜1885
文政5年、愛知県碧海郡生れ。
名静逸、通称七左衛門、別号二水など。
大阪に出て篠崎小竹に入門。
のち、伊勢に行って斎藤拙堂の塾で内弟子となる。
明治2年登米県知事に任ぜられたが程なくやめ、、
伏見宮家や閑院宮家の家令となった。
京都下賀茂に住居を構えて、
詩、書、画、篆刻に余生を送った。
明治18年5月22日没。享年64歳。
結城素明
(ゆうき・そめい)
1875〜1957
明治8年12月10日、東京本所生れ。
旧姓森田。本名貞松。
18年親類の結城家の養嗣子となり、
24年川端玉章の天真画塾に入門。
東京美術学校日本画科卒業、
西洋画科に再入学中退。
自然主義を綱領とする无声会を結成。
金鈴社結成。大日美術院結成。
東京美術学校教授。
東京女子高等師範学校教授。
帝国美術院会員。
昭和32年3月24日没。享年81。
幸松春浦
(ゆきまつ・しゅんぽ)
1897〜1962
明治30年6月30日、大分市生れ。
本名猪六。19歳で大阪に出、姫島竹外に師事。
のち京都の水田竹圃の画塾に入門。
帝展入選多数。帝展改組では第一部会に参加。
昭和37年3月6日歿。享年64。
横井金谷
(よこい・きんこく)
1761〜1832
江戸後期の画家。
宝暦11年、栗太郡下笠村(草津市)生れ。
はじめ浄土宗の僧侶であったが、
後に山伏となって諸国を放浪したという。
彼は若いときから絵を独習し、与謝蕪村に傾倒して
いたため、紀楳亭とともに「近江蕪村」とも称された。
63歳で坂本に住居を定め、草庵「常楽房」を営んだ。
天保3年(1832)72歳で没するまで、ここで暮らした。
天保3年歿。享年72。
横田仙草
(よこた・せんそう)
1895〜1962
明治28年10月17日、東京生れ。
本名専三、初号蕉雨。早稲田実業学校卒業。
五島耕畝や織田観潮に日本画の手ほどきを受ける。
京都を経て大正11年に大阪・高島屋宣伝部につとめるが、
2年ほどで帰京、小林古径に師事、また速見御舟に指導を受ける。
日本美術院院友、院展などに入選を重ねる。
昭和37年12月30日歿。享年67。
横山松雲
(よこやま・しょううん)
1884〜1964
明治17年、群馬県太田生れ。
本名晶次郎、号聴鴬窓主人・蝸牛草蘆主人など。
師小室翠雲。大東南宗院結成に参加。
日本南画院同人。
昭和39年没。享年79。
横山大観
(よこやま・たいかん)
1868〜1958
明治〜昭和前期の日本画家
明治元年茨城県水戸市生れ。
89年新設の東京美術学校日本画科第1回生として橋本雅邦に学び、
とくに校長岡倉天心に信頼され終生その強い感化をうける。
天心の辞職とともに日本美術院の創立に参加,その正員となる。
天心の要望で茨城県の五浦(いずら)に移住。
13年天心が没すると,その遺志を継いで日本美術院の
再興を志し,翌年,観山,安田靫彦,今村紫紅らを集めて
再興院展を設立,その後40年余,主宰者として運営
にあたり日本画壇の一大勢力に育てあげた。
昭和33年歿。享年91。
吉井勇
(よしい・いさむ)
1886〜1960
大正・昭和期の歌人・作家。明治19年10月8日東京生れ。
伯爵吉井幸蔵の次男。早大政経科中退。
中学卒業後の1905年新詩社に入り、《明星》に短歌を発表。
《スバル》創刊後は同人として活躍、戯曲にも手を染めた。
第1歌集《酒(さか)ほがひ》、戯曲集《午後三時》、
《梢園歌集》、《俳諧亭句楽》、歌集《人間経》、など刊行。
爵位返上,妻との離別,土佐隠棲などの変動期を経る。
戦後,歌会始選者や芸術院会員となる。
昭和35年に肺癌で没するまで文筆する。
晩年の代表作に小説集《蝦蟆鉄拐(がま
てつかい)》、歌集《形影抄》などがある。
昭和35年11月19日歿。享年75。
吉江喬松
(よしえ・たかまつ)
1880〜1940
フランス文学者・評論家。
明治13年、長野県生れ。号孤雁。
早稲田英文科卒。中沢臨川・窪田空穂・水野葉舟と親交。
国木田独歩主宰の近事画報社入社。「新古文林」編集。
早稲田仏文科創設・主任教授。
著書『近代詩講和』散文集『緑雲』『青空』など
昭和15年没。享年61。
吉田茂
(よしだ・しげる)
1878〜1967
第2次大戦後の日本の保守政治を代表する政治家。
土佐自由党の士 竹内綱の五男として明治11年、東京に生まれる。
東京帝国大学(東大)政治科を卒業し、外務省に入る。
東久邇宮稔彦内閣の外相、幣原喜重郎内閣にも留任。
公職追放となった鳩山一郎の後を受けて日本自由党総裁。
憲法改正、農地改革などを実施。
自由民主党結成、総裁。自由党創立。
サンフランシスコ講和会議に主席全権委員として出席し、
講和条約、日米安全保障条約を締結。
内閣を5次にわたり組織した。
衆議院解散〈バカヤロー解散〉
昭和42年歿。享年90。国葬
吉田翠鳳
(よしだ・すいほう)
明治44年埼玉県生れ
師大橋翠石・三尾呉石
虎画得意
吉野秀雄
(よしの・ひでお)
1902〜1967
昭和期の歌人
明治35年7月3日、群馬県高崎生れ。
慶応義塾理財科(経済学部の前身)
に進んだが,肺患にかかって中退。
病床で正岡子規の作品,歌論を
読んで感激したことが契機となって
作歌を始め,これ以後,宿痾との闘いをとおして
みずからも万葉調,写生説の実践をつづけていった。
やがて会津八一の門人となり,この狷介
孤高の師の影響下に学芸の素養を深め,
私家版の歌集を出すことはあっても,あり余る
才能を広く世に問うことをあえて自制していたが,
第2次大戦後に歌集《寒宙(かんせん)集》(1947)を刊行,
歌壇にデビューしたときにはすでに
大家の風を樹立し畢(おお)せていた。
歌風あくまで高雅にして率直,堂々たる
〈ますらおぶり〉の調べを湛(たた)える秀歌群
は次の《晴陰集》(1958)で頂点を極めた。
良寛研究書のほか多数の美術鑑賞,旅行記,随筆
を残し,また書家としても第一級の境地を極めた。
昭和42年7月13日歿。享年66。
米内光政
(よない・みつまさ)
1880〜1948
大正・昭和前期の海軍軍人(大将)・政治家
明治13年3月2日、旧盛岡藩士米内受政の長男として盛岡に生まれる。
盛岡中学を経て海軍兵学校へ進み、卒業後海軍
少尉に任官、日露戦争では海軍中尉として従軍した。
後にロシアやポーランドなどヨーロッパに駐在し、
その地の実情を直に見聞した。
昭和12年(1937)には林内閣のもと海軍大臣に就任し、
陸軍の主張する三国同盟に反対した。
この反戦主義の姿勢は終戦まで変わらなかった。
天皇の信頼も厚く、昭和15年(1940)内閣総理大臣に就任、
しかし陸軍の反対に会い半年後に退任した。
太平洋戦争末期には小磯内閣のもとで4期目の
海軍大臣として入閣、終戦のために尽力する。
終戦後も海軍大臣に留任し、海軍省廃省の
責任者として日本海軍の最期を見届けた。
昭和23年4月20日没。享年69。
米山朴庵
(よねやま・ぼくあん)

1864〜1928
元治元年9月29日、東桂の境に生れた。
本名登(旧名和蔵)、画号朴庵、停雲閣、渓素軒、六石堂。
8歳のとき米山喜七の養子となり、滝和亭の門に入り、
和亭とともに千葉県の野田醤油醸造業の
茂木宅に寄寓して絵を描き以降親交を深めた。
谷村の小池宅にも出入し作品を残している。
朴庵は画界の派閥関係や師のえこひいきが嫌いで、
当時の展覧会へは出品しなかったが、
名声を欲しない立派な芸術家であった。
昭和3年、東京若宮町の自宅で没。享年64。
頼聿庵
(らい・いつあん)
1801〜1856
享和元年2月20日、父山陽の幽居中に生れる。
名元協、字承緒、通称餘一、別号春嶂。
4歳にして祖父春水の養嗣景議に兄事し、
大叔父杏坪の薫陶を受け、
景議歿後、春水の嫡子たることを許される。
春水没後、広島の宗家を嗣ぎ、学問所儒員。
奥詰格、三百石。
安政3年8月30日歿。享年56。
頼山陽
(らい・さんよう)
1781〜1832
歴史家、思想家、漢詩人、文人。
幼名久太郎、名襄(のぼる)、字子成、
号山陽・三十六峰外史。
頼春水の子。頼杏坪は叔父。
頼三樹三郎は三男。
中国文学者頼惟勤は子孫
尾藤二洲に師事。
天保3年9月23日歿。享年53。
頼支峰
(らい・しほう)
1822〜1889
幕末・明治期の儒学者。
文政5年京都生まれ。頼山陽の次子。
頼三樹三郎の兄。名は復、字は子剛。
師後藤松陰、牧百峰。
明治元年、大学二等教授になり、
のち辞任して京都に帰る。
明治22年没。67才。
頼三樹三郎
(らい・みきさぶろう)
1825〜1859
幕末期の尊皇攘夷派志士
文政8年7月11日、京都三本木生れ。
名醇、通称三木八、号鴨崖。
頼山陽の三男。
後藤松陰、篠崎小竹、
佐藤一斎、梁川星巌らに学ぶ。
安政の大獄で捕らえられ幽閉され、
のち江戸小塚原刑場で斬首される。
安政6年11月1日没。享年35。
冷泉為恭
(れいぜい・ためちか)
1823〜1864
文政6年9月17日狩野永泰其同の三男に生る。
名晋三、永恭、別名岡田、号心蓮。
冷泉の姓は無断で名乗ったもので、公家ではない。
復古大和絵画家。
関白九条尚忠に仕える近侍となる。
佐幕派であった為に、尊皇攘夷派から命を狙われ、
紀伊国粉河寺、堺から丹波国へ逃れる。
文久4年5月5日大和丹波市の鍵屋の辻で
誘い出され長州藩士大楽源太郎らの凶刃に倒る。享年42。
冷泉為村
(れいぜい・ためむら)
1712〜1774
江戸中期の公卿・歌人
正徳2年生れ。為久の子。法号澄覚。
正二位。権大納言。
霊元天皇から<古今伝授>を受ける。
冷泉家中興の祖といわれる。
門下に石野広通・萩原宗固・柳原保光らがいる。
安永3年没。享年63。
若狭成業
(わかさ・せいぎょう)
1887〜1957
明治20年1月1日秋田市生れ。
名忠太郎。別号如岳・物外。
師小野崎如水(穂庵門)・寺崎広業。
大正初期より京都に移住。
王一亭、呉昌碩らと親交。
昭和32年7月16日歿。享年71。
渡辺華山
(わたなべ・かざん)
寛政5年9月16日、父が三河田原藩士で側用人だったので、
江戸半蔵門外、田原藩の屋敷内で生れる。
幼名虎之助、名定静、字子安、通称登、別号全楽堂。
白川芝山に入門するが月謝を払えず師からことわられ、
その事を知った金子金陵が無月謝で教える。
漢学は佐藤一斎に学ぶ。
金陵没後は文晁の許へゆき友人のように大事にされた。
勤皇思想のため幕府に捕らえられ、入牢後蟄居を命ぜられ、
蟄居中門人の福田半香が江戸で崋山の
為に画会をおこして奔走したので、
世間から蟄居中に門人を使って画会し金を集め
上をおそれぬ振舞いだなどと言われ、
藩主に迷惑がかかってはと自刃して果てた。
天保12年10月11日。享年49。
渡辺清
(わたなべ・きよし)
1778〜1861
江戸後期の画家。尾張藩絵師。
宝暦元年、尾張生れ。別号雪朝斎周渓。
狩野派を学び、のち土佐光貞・田中訥言に就き、
復興大和派画家として活躍。
中林竹洞・山本梅逸らと親交。
文久元年5月7日歿。享年84。
渡辺公観
(わたなべ・こうかん)
1878〜1938
明治11年1月20日、滋賀県大津生れ。
本名耕平、別号狂魚洞・遊魚洞。
京都市立美術工芸学校中退。
森川曽文に師事。四條派を学ぶ。
日本自由画壇を結成。
昭和13年7月29日、京都で歿。享年60。
渡辺省亭
(わたなべ・せいてい)
1851〜1918
嘉永4年12月27日江田神田生れ。
旧姓吉川、名義復、良助。
師菊池容斎。
新しい感覚による華麗な
花鳥画で海外で高い評価を得る。
晩年は展覧会審査に不信をいだき
公開の場には出品しなかった。
大正7年4月2日歿、享年66。

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