甲斐乕山
(かい・こざん) |
慶応3年、大分県臼杵市生れ。名は駒蔵。
田能村竹田や帆足杏雨の画風筆法を研鑽し、
杏雨門下の高足の一人として知られた。
城陽(大分松岡浄雲寺)、三原活山(大分)、
村上姑南(中津)、広瀬濠田(日田)らにも師事。
32歳の時、京都において私立文中園女学校を創設。
昭和36年9月26日没。享年94。 |
香川景恒
(かがわ・かげつね) |
徳川中期の京都の歌人。
景樹の子。初名景周、通称式部、
桂園・東塢亭と号した。
家学を修めて徳大寺家へ仕へ、
また書を巧にした。
慶応元年没。享年42。 |
鹿児島寿蔵
(かごしま・じゅぞう)
1898〜1982 |
人形作家、アララギ派歌人
明治31年12月10日、福岡市生れ。
有岡米次郎に博多人形勢作を学ぶ。
紙塑人形を創始、日本紙塑藝術研究所開設。
人形美術団体甲戌会結成。帝展入選。
短歌雑誌「潮汐」創刊。
紙塑人形の人間国宝となる。
昭和57年8月22日没。享年85。 |
梶喜一
(かじ・きいち)
1904〜1980) |
明治37年11月7日、京都市生れ。
師都路華香・西村五雲。別号崇樹。
鯉の名手として知られる。
昭和55年2月14日歿。享年75。 |
梶原緋佐子
(かじわら・ひさこ)
1896〜1988 |
明治29年12月22日、京都市生れ。
本名久(ひさ)。菊池契月に師事。
宇田荻邨画塾の白申社の結成に参加。
日展参与。京都市文化功労者。
京都府美術工芸功労者。
戦後は舞妓などをモティーフに詩情に
満ちた独自の美人画を追求し続けた。
昭和63年1月3日、京都市で没。享年91。 |
勝海舟
(かつ・かいしゅう)
1823〜1899 |
幕末・明治の政治家。文政6年生れ。
通称麟太郎,名義邦,明治2年安芳と改名、号海舟。
将軍徳川家斉の孫初之丞の相手をつとめた。
島田虎之助について剣術をきわめ,
蘭学を永井青崖に師事し、西洋兵学を身につけ、
1850年(嘉永3)赤坂田町に兵学塾を開いた。
軍艦操練所教授方頭取,咸臨丸を指揮して太平洋を横断,
62年(文久2)軍艦奉行並に昇進,神戸海軍操練所設立し,
諸藩士や坂本竜馬ら脱藩浪士の教育にあたった。
64年(元治1)正規の軍艦奉行に進み安房守を称したが,
同年11月浪人庇護をとがめられて免職,
翌年3月に神戸操練所も廃止となった。
66年(慶応2)軍艦奉行に復職,安芸の宮島に
出張して長州藩との停戦交渉に成功。
陸軍総裁,さらに軍事取扱となって東征軍にたちむかい,
江戸総攻撃予定日の前夜,西郷隆盛と会見し,
薩摩藩や長州藩が存続するかぎり徳川も
藩として生き残る権利があるとの主張を認めさせ,
無血開城への道を開いた(江戸開城)。
75年元老院議官。87年伯爵,88年枢密顧問官
《吹塵録》《海軍歴史》《陸軍歴史》《開国起原》など,
旧幕時代の記録を編集・刊行した功績も大きい。
明治32年没。 |
桂文治
(かつら・ぶんじ)
1924〜 |
落語家、10代目
大正13年1月14日、東京生れ。
本名関口達雄。父は初代柳家蝠丸。
昭和19年召集を受け、終戦で帰還後噺家となり、
21年6月桂小文治に入門して小よし。
23年桂伸治(2代)と改名。
33年9月真打昇進。
54年3月、10代目文治を襲名。
江戸前の芸風で笑いの多いネタを得意とする。
噺以外にも南画をよくする。 |
加藤寛治
(かとう・ひろはる)
1870〜1939 |
大正・昭和初期の海軍軍人。
明治3年福井生れ。海軍兵学校(18期)卒業。
日清戦争に従軍,日露戦争では軍艦三笠の砲術長。
1921‐22年にはワシントン会議随員となり,
主力艦対米比率7割を主張して加藤友三郎全権と対立した。
軍令部次長,連合艦隊司令長官をへて,27年大将,
29年軍令部長に就任し,30年ロンドン海軍軍縮
条約調印に際して,補助艦対米比率7割を強硬に
要求して浜口雄幸内閣と対立,いったん黙認の
態度をとったが,帷幄上奏(いあくじようそう)により
不同意を表明,軍令部長を辞任した(統帥権干犯問題)。
以後も艦隊派の統帥として条約派と対立しつつ,
統帥権干犯,軍備拡充を唱え,ワシントン,ロンドン両条約
廃棄の方向へ海軍を導いた。35年予備役となる。
昭和14年歿。享年70。 |
楫取素彦
(かとり・もとひこ)
1829〜1912 |
幕末の志士、男爵。
文政12年3月山口県萩生れ。
名志毅、字哲、通称文助・素太郎。
山口藩医家松島瑞蟠の次男。
兄は洋学者の松島剛蔵。
12歳で儒者小田村吉平の養子となる。
江戸に出て安積艮斎に入門。
明倫館で教授し、のち吉田松陰の妹寿と結婚。
松下村塾でも指導にあたる。
慶応3年藩命で楫取素彦と改名。
群馬県初代県令(県知事)
元老院議官。宮中顧問官など歴任。
大正元年8月14日没。享年84。 |
亀田鵬斎
(かめだ・ほうさい)
1752〜1826 |
江戸後期の儒者・折衷学派。
宝暦2年、江戸の商屋生れ。
名長興(興)、字穉竜、通称文左衛門、号鵬斎・善身堂。
書を三井親和、儒学を井上金峨に学び、
江戸の五鬼の一人に挙げられる。
一生官に仕えず下町の儒者として経書を講じ、
書画を売り、酒にひたりつつ多くの詩文を作った。
寛政異学の禁に反対したが、幕府におびえた
門人が遠ざかり塾を閉じなければならなかった。
著書に《善身堂一家言》《大学私衡》《中庸弁義》
《鵬斎詩鈔》《善身堂文集》などがある。
文政9年歿。享年75。
|
亀谷省軒
(かめたに・せいけん)
1838〜1913 |
幕末・明治期の対馬藩士・漢学者
天保9年生。名行、字子省
師広瀬旭荘・安井息軒
岩倉具視に従う
大正2年1月没。享年76。 |
賀茂季鷹
(かもの・すえたか)
1752〜1841 |
江戸後期の国学者・歌人。宝暦2年京都生まれ。
本性山本。生山・雲錦と号す。
職仁親王に和歌を学び、江戸に下り、加藤千蔭ら歌人・文人と交わる。
帰京して上賀茂社の祠官となり、正四位下安房守に任ぜられた。
狂歌を得意とし、交友も多く広く名を知られた。
天保12年10月9日歿。享年90。 |
金子鴎亭
(かねこ・おうてい)
1906〜2001 |
明治39年5月9日、北海道松前郡生れ。本名は賢蔵。
比田井天来に師事。調和体の書に造型性と思想を融合させた
近代詩文書運動を興す。六朝北魏の楷書、木簡等を研究。
日展文部省大臣賞・文化勲章受章・文化功労者、
芸術院賞・日展参事・毎日芸術賞・勲三等旭日章・
名誉都民・創玄会長・毎日書道会名誉顧問・近詩協会長。
平成13年11月5日没。享年96。 |
金子薫園
(かねこ・くんえん)
1876〜1951 |
歌人。明治9年東京生れ。本名雄太郎。
落合直文の「あさ香社」に加わり歌を学ぶ。
「かたわれ月」を出版。
尾上柴舟と<叙景詩運動>をすすめ「白菊会」を結成。
都会人らしい洗練された感覚と温雅平淡さに特色がある。
芸術院会員。昭和26年歿。享年76。 |
金子米軒
(かねこ・べいけん)
1883〜1946 |
明治16年、埼玉県生。本名椙三郎。
小室翠雲・山岡米華に師事。
大正11年第4回帝展で初入選。
14年第6回帝展で再入選。
昭和3年から8年まで帝展に入選。
昭和21年没。享年63。 |
金子堅太郎
(かねこ・けんたろう)
1853〜1942 |
明治期の官僚・政治家
嘉永6年2月4日、福岡県生れ。
司法大臣、農商務大臣、枢密顧問官。
従一位大勲位伯爵。
大日本帝国憲法の起草に参画。
日露戦争においては、
渡米し外交交渉・外交工作を行った。
日本法律学校(日本大学)初代校長。
専修大学創立に協力。
日米友好のために尽力する。
昭和17年5月16日没。享年89。
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狩野探信守道
(かのう・たんしんもりみち)
1785〜1835 |
鍛治橋狩野家7代目
徳川幕府の奥絵師、法眼。
6代探牧守邦の長男。名守道、別号興斎。
天保6年9月5日歿。享年51。 |
狩野探道
(かのう・たんどう)
1890〜1948 |
明治23年、東京生れ。名守久。
鍛治橋狩野家12世。父は狩野探岳。
狩野応信に狩野派を学び、
師応信没後、荒木(狩野)探令に師事。
大正4年東京美術学校日本画科卒業。
日本美術協会委員、審査員。
日本美術協会展を中心に制作発表を続ける。
昭和23年6月4日、東京都中野区で没。58歳。 |
狩野周信
(かのう・ちかのぶ) |
江戸中期の画家。万治3年生れ。常信の長男。
幼名生三郎のち四郎次郎、初名右近、号如川・国燕など。
父の跡目をつぎ、徳川幕府の絵師として仕えた。
享保4年中務卿法眼に叙せられ、この年に朝鮮に
送る屏風や琉球王への進物屏風などを描いた。
享保13年没、享年69。 |
狩野常信
(かのう・つねのぶ) |
江戸後期の画家。寛永13年生まれ。尚信の長男。
通称右近。号を養朴・耕寛斎・青白斎など。
狩野探幽に教えを受ける。元信・永徳・探幽と
並んで狩野派の四大家の一人に数えられる。
木挽町狩野家の地位を高め、諸狩野家の様式を集大成させた。
宝永6年法印に叙せられる。
正徳3年歿。享年78。 |
川合玉堂
(かわい・ぎょくどう)
1873〜1957 |
明治6年11月24日愛知県生れ。
本名芳三郎。偶庵とも号す。
少年時代を岐阜市でおくり、14歳のとき
京都に出、望月玉泉に入門する。
玉舟の雅号を受けるが、玉堂と改め
幸野楳嶺の画塾に参加、四條派を研鑽する。
師楳嶺歿後、橋本雅邦に師事、東京に移住する。
帝室技芸員。文化勲章受章。東京都名誉都民。青梅市名誉市民。
昭和32年6月30日歿。享年83。 修二は息子。 |
川上拙以
(かわかみ・せつい)
1901〜1976 |
明治34年5月1日愛媛県生れ
本名昌薫(まさしげ)
師菅楯彦、西山翠嶂
日展会友
昭和51年12月3日京都市で没
享年75 |
狩野永斎秉信
(えいさい・もちのぶ) |
中橋狩野17代目。(最後の狩野) |
狩野光雅
(かのう・こうが)
1897〜1953 |
日本画家。明治30年1月、和歌山県生れ。
本名政太郎。東京美術学校日本画家卒業。
師松岡映丘。新興大和絵会結成。
国画会結成同人として参加。
昭和28年12月17日歿。享年56。 |
狩野探令
(かのう・たんれい) |
安政4年1月10日、羽前国(山形県)新庄生まれ。
名守純、丈太郎。本姓荒木。
鍜治橋狩野家の狩野探美に師事。
皇室の御用画を制作。
大正5年狩野姓を名乗ることを許される。
昭和6年4月9日没。享年73。 |
鏑木雲潭
(かぶらぎ・うんたん)
1783〜1839 |
天明3年生れ。
名祥。字三吉。通称祥蔵。別号実斎、尚左堂など。
市川寛斎の子、市川米庵の弟。
鏑木梅溪の養子となり、子に鏑木雲洞がいる。
画は谷文晁に師事する。
天保10年歿。享年57。 |
川上哲治
(かわかみ・てつはる)
1920〜 |
大正9年3月23日、熊本県生れ。
熊本工業高校卒 ニックネームは「打撃の神様」「弾丸ライナー」「赤バット」
1938(昭和13)年〜1958(昭和33)年
プロ野球・読売ジャイアンツで野球選手
一塁手 左投 左打 通算成績 打率3割1分3厘、2351安打、本塁打181 1979試合出場 現役時代の背番号16は同チームの永久欠番
1961(昭和36)年〜1974(昭和49)年
同チーム監督 日本シリーズ優勝11回
|
川路柳虹
(かわじ・りゅうこう)
1888〜1959 |
明治21年、東京生れ。本名誠。
京都美術工芸学校を経て、
東京美術学校日本画科卒業。
京都時代より詩作を始める。
口語自由詩により、詩壇の注目を浴びた。
フランス詩壇の紹介にもつとめ後進の指導にあたった。
現代詩の主知主義の先駆をつとめた詩人といえる。
昭和34年4月17日歿。享年72。 |
河内雪峰
(かわち・せっぽう
1869〜1984 |
昭和期の漢字書家。
明治31年12月25日、熊本県人吉市生れ。
名は寛次。近藤雪竹に師事。
毎日書道展審査会員・二本書道連盟参与・
雪友会会長・雅遊会会長。
昭和59年歿。享年85。 |
川端玉章
(かわばた・ぎょくしょう)
1842〜1913 |
天保13年3月8日、京都生れ。本名滝之助、別号敬亭・璋翁。
父は蒔絵師で父に蒔絵を習い、三井家への奉公ののち、
嘉永5年中島来章に師事、円山派を学び、小田海僊にも指導を仰ぐ。
慶応2年江戸に出て高橋由一に油絵を習う。
各種展覧会などで受賞多数。明治29年帝室技芸員拝命。
画塾天真堂(天真社)を開設、円山派を関東に伝える。
東京美術学校教授。42年東京小石川に川端画学校開校。
円山派最後の巨匠として花鳥、山水に秀作を残す。
古社寺保存会委員、天真会会長。
大正2年2月14日東京巣鴨で没。享年70。
茂章は二男で日本画家、実は孫で洋画家。 |
河東碧梧桐
(かわひがし・へきごとう)
1873〜1937 |
明治・大正期の俳人。明治6年愛媛県松山生れ。
明治20年、伊予尋常中学に入学。虚子とは同級。
22年帰省した子規からベース・ボールを
教わったことがきっかけとなり、俳句にたずさわる。
高浜虚子と共に正岡子規門下の双壁と称された。
明治26年から新聞「日本」の俳句欄を子規から引き継いで担当。
明治38年頃から、「新傾向俳句」に走り、
全国遍歴の旅にでてその傾向を強めた。
その時の紀行文が「三千里」である。
やがて「守旧派」の虚子と対立するようになる。
昭和8年還暦を機に俳界から引退した。
昭和12年没。享年65。 |
河辺華挙
(かわべ・かきょ) |
弘化元年生れ。華陰の長男。
名暉彦、通称秀三郎。
父に教を受け後土佐、狩野、南宋の各派を
研鑽して一家を成し、人物画を得意とした。
森寛斎始め知名の士と交友。
京都画学校に出仕。
昭和3年4月6日没。享年85。 |
川村曼舟
(かわむら・まんしゅう)
1880〜1942 |
明治13年7月9日、京都生れ。本名萬蔵。
山本春挙に師事、京都市新古美術品展で入賞を重ね、
41年第2回文展に初入選以降受賞多数。
師春挙没後は画塾早苗会を主宰。
京都市立美術工芸学校・市立美術工芸学校校長。
美しい自然を愛情を込めて詩情豊に描き続けた。
昭和17年11月7日、京都市で没。享年62。 |
菅野梁川
(かんの・りょうせん)
1880〜1933 |
明治13年、福島県生れ。
名善平、別号易安・羅葡道人。
師高森砕巌。
昭和8年歿。享年54。 |
|
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菊沢武江
(きくざわ・ぶこう) |
明治15年12月に加須町(現・加須市)生れ。本名六兵衛。
14才で日本橋の半襟商に奉公に出され、
熱心に商売の道を精進していた。
20歳頃寺崎広業門下の展覧会を見て画家にあこがれる。
商売を学びながら深夜に絵の勉強。
その後、人力車夫などをして生活費を稼ぎ、絵画の修行を続ける。
東京美術学校卒業(席次2番)。
大正4年文展『玩具屋の店』で入選。
昭和4年帝展『群鶏』で特選。
雅号は、利根川にちなんだものと言われている。
|
菊地容斎
(きくち・ようさい)
1788〜1879 |
天明年11月1日、江戸下谷に徳川幕府の与力の家に生れる。
通称量平、名武保。
18歳の時狩野派の高田円乗に入門、
5年程で師が没したので、巨勢、土佐、
その他画法、古社寺の模写などで勉強し、
更に有識故実と大和絵を研究して歴史画に新画風をつくり、
また、洋画の画法も取り入れて時代にあった描写や
特色のある画を多くかき、復古大和絵派といわれた。
米国博覧会に出品して賞牌を受けた。
明治11年6月16日没。享年91。
祖先は肥後守菊池武時で、19世の子孫武長が遠縁の
河原武吉の子を嗣子として、20世を継いだのが容斎であった。 |
岸信介
(きし・のぶすけ) |
昭和期の政治家。佐藤栄作の兄。
明治29年、山口県生れ。東京大学卒業。
昭和32年総裁(3期にわたり首相)。 |
岸浪百艸居
(きしなみ・ひゃくそうきょ)
1889〜1952 |
明治22年10月17日、群馬県館林生れ。
本名定司。初め静山と号す。
父は南画家岸浪柳渓。
師小室翠雲。
昭和6年、百艸居と改号する。
魚を好み、魚の作品を多く描く。
昭和27年9月21日没。享年62。 |
岸浪柳溪
(きしなみ・りゅうけい)
1855〜1935 |
安政2年11月3日、江戸下谷生れ。本名静司。
福島柳圃・田崎草雲に師事。
日本美術協会会員。日本南宗画会幹事。
文墨協会協議員。
昭和10年12月10日歿。享年80。
南画家百艸居(静山)は子息。 |
北上聖牛
(きたがみ・せいぎゅう)
1891〜1970 |
明治24年、北海道函館生れ。
本名利一郎。別号北山・池龍・利一。
叔父は日本画家北上峻山。
大正2年京都に出、
竹内栖鳳の画塾竹杖会に入門。
写実的な花鳥画を得意とした。
昭和45年歿。享年79。 |
北沢楽天
(きたざわ・らくてん)
1876〜1955 |
明治〜昭和期の漫画家
明治9年埼玉県生れ。本名保次。
20年横浜に出てオーストリアの漫画家フランク=ナンケベルに師事。
33年福沢諭吉に招かれて時事新報社に入社。
政治漫画と風俗漫画で明治中期から
大正にかけて<楽天漫画>として知られた。
漫画雑誌「東京パック」を創刊し漫画界の大御所となる。
戦時中は漫画奉公会会長になった。
敗戦後は故郷の大宮市に住み、日本画
を描いて自適の生活をおくった。
昭和30年8月25日没。享年80。
楽天旧居跡は大宮漫画会館。
大宮市名誉市民。 |
北野元峰
(きたの・げんぽう)
1842〜1933 |
曹洞宗の学僧。永平寺67世。曹洞宗管長。
天保13年11月1日、越前国(福井)小山生れ。
北野孫四郎の10男。
鴻雪爪(清拙)に師事
昭和8年10月19日歿、享年92。 |
北村九皐
(きたむら・きゅうこう)
1905〜 |
明治38年9月30日、群馬県高崎市生れ。
昭和5年吉田苞竹の書道講習をうけ、
その高弟である松井如流に9年より入門。
陸軍経理学校卒業、陸軍軍部につとめ、
大本営兵站総監部附を歴任、終戦により退役。
協和興業株式会社取締役。
23年日展に書道参加とともに出品。
日展参与。東方書道院同人。毎日書道展審査員。 |
木戸孝允
(きど・たかよし)
1833〜1877 |
天保4年6月26日長門国萩生れ。(医師の子)
通称桂小五郎、慶応元年木戸と改姓。号松菊。
桂九郎兵衛の養子になる。のち不縁。
吉田松陰に師事。
明治10年没。享年45。 |
清川八郎
(きよかわ・はちろう) |
幕末期の志士。
天保元年、出羽(山形県)東田川郡清川村生れ。
幼名元司、通称八郎・正明、変名大谷雄蔵・日下部達三。
東条一堂・安積艮斎・千葉周作につき修業。
桜田門外の変ののち志士活動に入り、各地の志士と交る。
浪士隊入し上洛するが、近藤勇ら佐幕派と対立。
再び江戸に戻され新微組に編入される。
上山藩主金子与三郎に招かれて出向の途中、
麻布で幕史佐々木只三郎に暗殺された。
文久3年没。享年34。 |
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日下部鳴鶴
(くさかべ・めいかく) |
明治・大正期の書家。天保9年近江(滋賀県)生れ。
田中因大の次男、日下部家の養子。
本名東作、字子暘、別号野鶴・鶴盧。
太政官の大書記となり、三条実美・大久保利通の知遇をうけたが、
利通の死にあい、以後は書に専念。
巌谷一六らと金石の学をひらく。
中国に渡り、楊けん・呉大微らと交遊して書法を正し、
漢・六朝の書を骨子とした書風を極めた。
比田井天来・丹羽海鶴ら多くの門下を排出した。
大正11年没。享年85。 |
草野心平
(くさの・しんぺい)
1903〜1988 |
明治36年5月12日、福島県いわき市生れ。
中国に渡り詩作を始める。
作品には蛙を題材にしたものが多く、
蛙は彼の人生的理念の象徴であった。
庶民的人間感情・諧謔・諷刺の精神をすぐれた
詩的造型をとおしてうたい続けた。
宮沢賢治の研究・紹介にも尽力。
いわき市名誉市民、日本芸術院会員、
文化功労者、文化勲章受章。
昭和63年11月12日歿。享年86。 |
楠本憲吉
(くすもと・けんきち)
1922〜1988 |
昭和期の俳人。
大正11年大阪生れ。慶應義塾大学卒業。
昭和20年、日野草城に師事。
「まるめり」俳句会に参加。
昭和63年歿、享年67。 |
国井応陽
(くにい・おうよう)
〜1923 |
円山派画家、京都生れ
応文の子、号謙斎・子静など
大正12年没。享年56。 |
久米正雄
(くめ・まさお)
1891〜1952 |
大正・昭和前期の小説家・劇作家・俳人
明治24年長野県生れ。俳名三汀。東大卒。
高校時代に河東碧梧桐門下の俳人
として知られる才能を示していたが、
次第に劇作に転じ、芥川龍之介らと創刊した第三次
「新思潮」に大正3年「牛乳屋の兄弟」を発表、
大正4年、夏目漱石の門に入る。
新技巧派の作家といわれたが、
通俗小説に活躍の場を求めた。
昭和27年歿。享年62。 |
公文菊僊
(くもん・きくせん) |
大正・昭和初期の日本画家。
高知生れ。名は時衛
師久保田米僊。
人物・龍馬像をよく描く |
久保田桃水
(くぼた・とうすい)
1841〜1911 |
天保12年京都生れ。
横山清暉のち西山芳園に学ぶ。
明治20年皇居御造営の折、欄間に「芭蕉の図」を描き、
24年に芝離宮の洋間の天井に「四季草花の図」を揮毫、
35年伊太利万国美術展に「遊鯉の図」を出品。
日本美術協会会員。
明治44年4月18日歿。享年71。 |
黒田清綱
(くろだ・きよつな)
1830〜1917 |
明治期の官僚・歌人。天保元年薩摩生れ。
藩士黒田清直の子。黒田清輝の養父。
幕末期、国事に奔走し、明治元年
山陰道鎮撫総督府参謀を命ぜられ、
薩摩藩参政、弾正少弼、東京府大参事、教部少輔、
元老院議官、子爵、勅撰貴院議員、枢密顧問官、
宮内省御用掛を歴任した。
薩摩藩の歌人八田知紀について和歌を学び、
滝園社を開いて子弟を教育した。
歌集に「滝園歌集」がある。
大正6年没。享年88。 |
黒田長成
(くろだ・ながしげ) |
慶応3年5月5日筑前秋月藩主黒田長知の長男。
号桜谷。家督を継承、明治17年侯爵となる。
イギリスのケンブリッジ大学に遊学。
貴族院議員副議長。枢密顧問官。宗秩寮審議官。
昭和14年8月14日没。享年73。 |
黒部拈華
(くろべ・ねんげ) |
安政3年4月15日、鳥取県鳥取市辻売町生れ。
字允周、名義暁、別号微笑子。
日根対山のち李紹儀に師事して南宗武林派を修める。
博覧会・共進会・展覧会ほか受賞多数。
帝国絵画協会会員。 |
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下條桂谷
(げじょう・けいこく)
1842〜1920 |
天保13年7月24日、山形県米沢生れ
本名正雄。米沢藩絵師目賀田雲川に師事
海軍主計大監、海軍主計学校長、
貴族院議員をつとめる
龍池会(日本美術協会)結成に参加のち委員長、
共進会審査員、日本画会の名誉会員となる
大正9年12月1日、東京で歿。享年78。 |
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小泉勝爾
(こいずみ・かつじ)
1883〜1945 |
明治16年8月30日、東京品川生れ。
青堂とも号す。東京美術学校日本画科卒業。
以後は結城素明の指導を受けつつ独修する。
大正元年川崎小虎、広島晃甫らと行樹社結成。
池畔倶楽部、矢沢弦月らと晨光会結成。
東京美術学校教授。
昭和20年7月28日歿。享年61。 |
小泉泰堂
(こいずみ・たいどう) |
明治元年前橋市生れ。
生糸貿易商奈良文五郎の三男。小泉家に養嗣。
養志軒桑古の門に入り俳句を学び
荘年に至り画家を目指し肖像画を自修研究し、
のち森霞ーに師事して山水、人物を研究。
師没後、其子森廣陵に学び諸国を歴遊。
帝国絵画協会会員。
没年不詳。 |
郷倉千靱
(ごうくら・せんじん)
1892〜1975 |
明治25年3月3日、富山県射水郡生れ。
本名與作。県立高岡孝芸学校漆工科卒業。
東京美術学校日本画科に進学、寺崎広業らの指導を受け、
また仏教美術や西域の美術に惹かれ、大正4年卒業。
アメリカに約1年半留学し、日本や東洋の美術に開眼する。
富山県・東本願寺城端別院襖絵を制作。
帝国美術学校教授。日本美術院監事。
富山県北日本文化賞受賞。日本芸術院会員。
昭和50年10月25日歿。享年83。
日本画家郷倉和子は長女。
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高嵩谷
(こう・すうこく)
1730〜1804 |
享保15年江戸生れ。
本姓高久、又は本国といい、
名は一雄、別号楽只斎、翠雲堂など。
英一蝶門人の佐脇嵩之に師事。
山水のほか武者絵は狩野探幽の画法を研究。
子に高嵩渓、嵩嶽がいる。
嵩嶽は早死。嵩渓が二世嵩渓と号した。
文化元年8月23日歿。享年75。 |
豪潮寛海
(ごうちょう・かんかい)
1749〜1835 |
江戸後期の天台宗の僧。
密号は遍照金剛、字は快潮、のち豪潮と改める。
肥後国寿福寺住持。
尾張徳川斉朝侯の病を加持し、侯に請われて
尾州ー窟寺(現在の岩屋寺)に留錫、伽藍を再建した。
のち長栄寺を再興し中興開山となる。
宗派に服さず広く諸人を化した。
天保6年没。享年87。 |
河野秋邨
(こうの・しゅうそん)
1890〜1987 |
明治23年8月8日愛媛県生れ
本名循(じゅん)
田近竹邨に師事して南画を学ぶ
日本南画院を結成、会長・理事長
京都府文化賞・功労賞
昭和62年12月3日京都市で没。享年97 |
幸野楳嶺
(こうの・ばいれい) |
弘化元年3月3日京都生れ。本名安田、幼名角三郎、
名直豊、別号思順・鶯夢・長安堂・鶴鹿園・在五庵・春風楼・
如意山樵・青竜館・六柳北圃・金仙茶寮・香雪深処・
無声詩屋・三守蝸室・晴蝸禅房などいろいろ。
父の実家の姓の幸野を名のる。
中島来章に円山派、のち塩川文麟に山水画を学ぶ。
京都府画学校創立に参画。
京都私立絵画研究会を組織。
門下に竹内栖鳳・川合玉堂らがいる。
帝室技芸員。
明治28年2月2日没。享年52。 |
河野広中
(こうの・ひろなか)
1849〜1923 |
明治・大正期の政治家。号は磐州。嘉永2年生。
出身は陸奥国三春藩(福島県)の郷士で,
家は呉服太物商,魚問屋,酒造業を営む豪商。
戊辰戦争の際,新政府軍を支援して板垣退助を知る。
若松県・三春藩の下級官吏を経て,1873年磐前県副戸長となり,
このころミル著・中村正直訳《自由之理》を馬上で読んで発奮,
自由民権論者になったという。以後区長などを務めつつ,
75年政治結社石陽社を,ついで78年三師社を郷里に組織して,
東北地方の自由民権運動の指導者となった。
こうした活動を背景に愛国社・国会期成同盟の運動に参加し,
豪農層を代表する幹部となった。80年片岡健吉とともに
国会開設を求める請願書を政府に提出し,翌年自由党の結成に参加。
82年福島県会議長として県令三島通庸の暴政と対決し,
福島事件で弾圧をうけて軽禁獄7年の判決をうけた。
89年大赦により出獄し,翌年の第1回衆議院議員選挙以来連続当選14回。
伊藤博文に接近し,第2次伊藤内閣では政府と自由党との提携を成立させた。
97年憲政党分裂とともに自由党を脱党し,翌年憲政本党に加わる。
1903年衆議院議長。05年の日比谷焼打事件では兇徒聚衆罪で投獄された。
13年立憲同志会に入り,翌年第2次大隈重信内閣の農商務相に就任。
大正12年歿。享年75。 |
古賀精里
(こが・せいり)
1750〜1817 |
江戸後期の儒学者。寛延3年佐賀生れ。
名撲、字淳風、通称弥助、別号殻堂。
京都に遊学して、横井小車に朱子学を、
西住成斎に闇斎学を学ぶ。
大阪に開塾して尾藤二洲・頼春水らと親交。
帰藩して藩主鍋島治茂に仕え、藩校弘道館が設立されると
教授となり、学規・学則を定めて、その基礎を確立。
闇斎朱子学の教説にもとづいて学問思想の
統制をはかり、徂徠学をしりぞけた。
寛政8年47歳のとき、抜擢されて幕府昌平校儒官となり、
柴野栗山・尾藤二洲とともに寛政三博士といわれた。
文化14年没。享年68。 |
古賀同庵
(こが・どうあん) |
江戸後期の儒学者。
佐賀県生れ。古賀精里の三男。
名U、通称小太郎、字季曄、号蠖屈居・古心堂。
昌平黌教授。弘化4年没。60歳。 |
久我通久
(こが・みちつね)
1841〜1925 |
天保12年11月、内大臣建通の長男として京都に生れる。
権大納言。戊辰の際大和国鎮撫総督・東北遊撃軍将。
明治後、陸軍少将、兵部少輔、太政官元老院の少書記官、
宮中顧問官、東京府知事、宮内省宗秩寮総裁。
大正10年1月10日歿。享年85。 |
小島一谿
(こじま・いっけい)
1899〜1974 |
明治32年10月13日、岐阜市生れ、のち横浜に移住。
本名重三郎。川端絵画研究所洋画部に通うが、日本画に転ずる。
大正5年前田青邨に師事。
中島清之らと津登比会を結成。
第13回院展で初入選。
日本美術院賞受賞、院展で奨励賞受賞。
日本美術院院友。
昭和49年11月12日横浜で没。享年75。 |
小島政二郎
(こじま・まさじろう) |
大正・昭和期の随筆家・小説家。
明治27年、東京生れ。慶応大卒。
大正12年小説集「含羞」をはじめ、「新居」
「緑の騎士」他、多くの大衆小説で知られるが、
昭和17年「眼中の人」のような回想録風の
作品や、「わが古典鑑賞」など随筆風な作品が秀る。 |
小杉放庵
(こすぎ・ほうあん)
1881〜1964 |
明治14年12月29日、栃木県日光市生れ。
明治31年、洋画家・五百城文哉の弟子となり「未醒」と号した。
明治44年、「水郷」を文展に出品し最高賞を受賞。
大正2年、ヨーロッパを遊学、翌年には日本美術院の再興に参加し
洋画部をリードしたが、大正9年、洋画部解消とともに院展を去る。
昭和2年、松尾芭蕉の『奥の細道』の足跡をたどって東北、
北陸をまわり、以後、次第に水墨画に親しむ。
昭和4年の中国旅行を契機に雅号を「放庵」と改める。
春陽会展にも「漁樵閑話」を出品するなど
水墨画に新たな画境を求めていった。
昭和10年、帝展芸術院会員となる。
昭和20年代には「良寛」「芭蕉」など歴史上の
人物の説話に題材をとった作品を描き始めた。
その卓越した詩文の才と心安らぐ東洋的な
作風は「近代の文人画」と称賛された。
晩年は新潟県妙高高原にひきこもり、日本画壇に
独自の画境を築く珠玉の名品を生み出す。
昭和39年4月16日、妙高高原町の自宅で83歳にて逝去。
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五島耕畝
(ごとう・こうほ)
1882〜1958 |
明治15年4月3日、茨城県久慈郡生れ。
本名貞雄。初め水戸の南画家松平雪江に師事、
上京して荒木寛畝に花鳥画を学ぶ。
文展・帝展・各種展覧会にて入選・受賞多数。
昭和33年6月11日歿。享年76。 |
後藤松蔭
(ごとう・しょういん)
1797〜1864 |
儒学者。寛政9年美濃国安八郡生れ。
名機、字世張、通称春蔵、別号春草・兼山。
大垣の菱田殻斎、頼山陽に学ぶ。
山陽の西遊に随行。大阪にて開塾。
篠崎小竹の娘町子と結婚。
元治元年歿。享年68。 |
後藤象二郎
(ごとう・しょうじろう)
1838〜1897 |
幕末の土佐藩士、政治家。伯爵。
農商務大臣、逓信大臣、大阪府知事。
天保9年3月19日、土佐生れ。雅号暢谷。
諱元曄(もとはる)、通称象二郎、保弥太、良輔。
板垣退助とは幼馴染。
儀理の叔父である吉田東洋の塾で学ぶ。
土佐勤王党を実質解散に追い込み、武市瑞山らを切腹させた。
坂本龍馬の船中八策に基づき、前藩主容堂公に
将軍慶喜公に大政奉還させるよう進言する。
明治6年、板垣・西郷らと共に征韓論論争に敗れて公職を離れる。
翌年板垣、江藤、副島らと愛国公党を組織。
14年板垣退助を中心に、自由党を設立。
明治30年8月4日没。享年59。
余談、日本人ではじめて”ルイヴィトン”の製品(靴)を愛用した。 |
後藤新平
(ごとう・しんぺい)
1857〜1929 |
安政4年生れ。官僚、政治家。
水沢藩出身。須賀川医学校卒。
愛知県立病院長を経て内務省に入り、
衛生局長となったが、相馬事件で一時連座入獄。
日清戦争時陸軍の検疫事務を担当、その功で98年総督
児玉源太郎から台湾総督府民政局長に抜禽された。
島民の反抗を鎮圧して治安を維持し、砂糖、ショウノウなどの
産業を開発するなど初期の植民地経営に手腕を発揮、
1906年南満州鉄道会社(満鉄)初代総裁に就任、同年男爵。
08年から桂太郎内閣の逓相、鉄道院総裁、16年寺内正毅内閣の内相、
18年外相となり、藩閥政権末期の政界に重きをなす。
ロシア革命がおこるとシベリア出兵を唱え、
外相としてこれを実現させた。
20年東京市長。22年子爵。
同年山本権兵衛内閣の内相兼帝都復興院総裁に就任、
関東大震災後の東京の都市計画の立案にあたった。
その後東京放送局総裁、少年団(ボーイ・スカウト)総長などを務め、
また政治倫理化運動を推進。28年伯爵。実務官僚の手腕と独自の
政治哲学をもち,日本帝国主義確立期の代表的政治家と目される。 昭和4年歿。享年63。 |
近衛忠熙
(このえ・ただひろ)
1808〜1898 |
幕末期の公卿。文化5年生れ。
島津斉彬の養女敬子(すみこ)を養女とし、
のち近衛家から将軍徳川家定に嫁がせた。
これは、斉彬や松平慶永が推した一橋慶喜を
将軍継嗣に定めるための布石であった(将軍継嗣問題)。
鷹司政通、鷹司輔熙、三条実万とともに慶喜擁立のために運動し、
井伊直弼と結んだ関白九条尚忠とは対抗関係にあった。
継嗣が徳川慶福に定まった後も、勅許を得ないで
日米修好通商条約に調印したことを理由として
幕府を批判し続け、同年8月の水戸藩への降勅にも参画した。
9月には九条尚忠に代わって内覧となったが、幕府の圧力で翌月辞した。
安政の大獄での処罰の対象となり、左大臣を辞し、
落飾・謹慎を命ぜられ、隠居して翠山と号した。
文久2年、参朝を許され、6月には復飾して関白・内覧になった。
島津久光の公武合体運動を支持して活動したが、
京都での尊王攘夷派の勢力が強まったため、
関白・内覧を相次いで辞した。
公武合体派である醍摩藩・会津藩に同調し、再び勢力を回復した。
慶応3年12月の王政復古で参朝を停止された。
明治31年歿。享年91。 |
近衛文麿
(このえ・ふみまろ)
1891〜1945 |
昭和期の貴族政治家。五摂家筆頭の関白家の出。
近衛篤麿の長男、秀麿の兄。明治24年、東京生。
公爵。京都大学卒。1931(昭和6)年貴族院副議長、33年議長。
西園寺公望からは後継者として嘱望されたが、後に離れ、
「革新貴族」の代表となり、皇道派など
国家改造勢力の期待を集めるところとなる
第1次・第2次・第3次内閣を組織。
敗戦後、自らを「運命の児」と称し、悲劇的政治家を演出しながら
東久邇内閣の国務大臣、のち内大臣府御用掛として
憲法改正案の起草にあたったが、
昭和45年12月16日、GHQから戦犯に指名され、
東京・荻窪の自宅(「荻外荘(てきがいそう)」)で服毒自殺した。 |
木島桜谷
(このしま・おうこく) |
明治10年3月6日、京都市生れ。本名文治郎。
今尾景年に入門、かたわら儒者山本溪愚について漢籍などを学ぶ。
全国絵画共進会展、新古美術品展、文展などで入賞多数。
京都市立美術工芸学校嘱託教員、
市立絵画専門学校教授。
明治神宮聖徳絵画館の壁画《能楽御覧》を完成。
昭和13年11月3日、大阪牧方で電車接触事故のため急逝。享年61。
昭和15年、財団法人桜谷文庫が京都に開設された。 |
小早川清
(こばやかわ・きよし)
1899〜1948 |
明治32年8月29日、福岡市博多生れ。
初め南画家上田鉄耕に学び、
上京して、鏑木清方に師事。美人画を修める。
昭和23年4月4日歿。享年48。 |
小林勇
(こばやし・いさむ)
1903〜1981 |
岩波書店元会長。随筆家、画家。
明治36年、長野県伊那郡生れ。
岩波書店時代、岩波文庫、岩波新書の創刊に携わる。
幸田露伴を生涯敬愛する。
昭和56年11月20日歿。享年78。 |
小林太玄
(こばやし・たいげん) |
臨済宗大徳寺塔頭黄梅院住職
昭和13年中国奉天生れ。
36年花園大学卒業。 |
小林立堂
(こばやし・りつどう) |
元日本画会員、帝展・文展出品
師川崎小虎、花鳥人物得意
昭和49年没。享年71。 |
小堀鞆音
(こぼり・ともと)
1864〜1931 |
元治元年2月19日下野国(栃木県)小中村生。
旧姓須藤、本名桂三郎、別号琢舟・雨舟・弦廼舎。
師川崎千虎。明治22年に鞆音と号す。
帝室技芸員。帝国美術院会員。
日本画家小堀安雄は子息。
昭和6年10月1日没。享年67。 |
小松華影
(こまつ・かえい)
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昭和期の女流画家
師竹内栖鳳、花鳥得意
昭和18年現在京都市鳥丸通に住す |
小松宮彰仁
(こまつのみや・あきひと)
1846〜1903 |
伏見宮邦家親王第八王子
分家して東伏見宮 のち小松宮と改称
安政5年親王宣下をうけ嘉彰と名乗る。
慶応3年の王政復古で復飾を命じられる。
戊辰戦争で会津征討越後口総督として北越地方の
鎮圧に当たるとともに海陸軍務総督となる。
佐賀の乱、西南戦争の鎮圧に活躍。
陸軍大将、参謀総長、元帥
明治36年没、国葬を賜る。 |
小室翠雲
(こむろ・すいうん)
1874〜1945 |
明治7年8月31日、群馬県館林生れ。本名貞次郎。
父は日本画家小室桂邨。田崎草雲に師事。
大東南宗院結成・委員長。帝室技芸員。
昭和20年3月30日歿。享年70。 |
近藤雪竹
(こんどう・せっちく) |
文久3年6月20日、江戸の山形藩水野候邸内で生れる
名富寿。漢学は井上葺斎に、書は日下部鳴鶴に師事。
漢魏六朝の碑法帖の研究をして一家をなした。
逓信省に長くつとめてた。門人も多数いた。
談書会、日本書道会、文墨協会、健筆会、法書会、
書道奨励協会、日本美術協会、日本書道作振会、
戊辰書道会などの幹事、または審査員として尽力。
昭和3年10月14日没。享年66。 |
権田直助
(ごんだ・なおすけ) |
幕末・明治前期の医者・国学者
武蔵国入間郡生れ
野間広春院に医術を学び、
平田篤胤に国学を学ぶ。
大学中博士、皇漢医道御用掛、
大教正、皇典講究所一等学位など歴任。 |
権田雷斧
(ごんだ・らいふ)
1846〜1934 |
真言宗豊山派管長、長谷寺58世。
弘化3年11月、越後市野坪生れ。
7歳で出家、11歳で大和長谷寺に入り学ぶ、
曹洞宗に転宗したが真言宗に復籍。
豊山大学学長、大正大学学長。
近代の密教・性相学の権威で、
真言事相家、説教師としても知られる。
昭和9年2月7日歿。享年89。 |
近藤浩一路
(こんどう・こういちろ)
1885〜1962 |
明治17年3月20日、山梨県南巨摩郡生れ。
本名浩(こう)。号土筆居・画蟲斎。俳号柿腸。
静岡県韮山(にらやま)中学校を卒業。
東京美術学校西洋画科を卒業。
同級に藤田嗣治、岡本一平らがいた。
大正4年読売新聞社へ入社して漫画や挿絵を描き、
菊池寛や芥川龍之介らと交友を結んだ。
第4回珊瑚会(平福百穂・小川芋銭など)への参加を
契機に水墨画を始め、同会には第7回展まで出品を続けた。
再興日本美術院同人。日本美術院脱会。
戦後は中川一政・小杉放庵らと墨心会を結成。日展会員。
昭和37年4月27日歿。享年78。 |