大休宗悦
(だいきゅう・そうえつ)
1860〜1954 |
安政7年東京八王子生れ。号韜光窟。
八王子市の西笑院樋口大安について得度。
鎌倉円覚寺僧堂今北洪川、釈宗演に参じ、宗演の印可を受ける。
西笑院に帰山するが、明治31年、円覚寺派宝林僧堂の拝請を受け晋山。
また宗演に代わって円覚僧堂師家代参を務める。
明治34年、埼玉野火止の平林寺に晋山。僧堂を開単。
昭和13年、妙心寺派管長に選ばれ、さらに第2代臨済宗管長に推挙される。
昭和17年、平林寺に帰り、席を白水敬山に譲る。
昭和29年歿。享年95。 |
大綱宗彦
(だいこう・そうげん)
1772〜1860 |
臨済宗大徳寺第435世住持。
安政7年、京都生れ。塔頭黄梅院に住んだ。
表千家10世吸江斎、裏千家11世玄々斎と親しく、
武者小路千家7世以心斎の参禅の師でもあった。 |
田岡春径
(たおか・しゅんけい)
1887〜1969 |
明治20年12月1日、徳島県三好郡生れ。
本名時三郎。大正6年小室翠雲に師事。
大東南画院同人、日本美術協会委員。
日本南画院理事をつとめる。
千葉稲毛に移住してからは郷土の
美術振興に尽力、春葉会を主宰。
昭和44年10月17日歿。享年82。 |
高木溪畝
(たかぎ・けいほ)
1877〜? |
明治10年11月14日、静岡県志太郡小川村生れ。
本姓小山。名謙。別号黙庵。
師荒木寛畝。南北合派を修め、花鳥得意。
帝国絵画協会・日本画会の会員。
没年不明。 |
高木保之助
(たかぎ・やすのすけ) |
明治24年、東京湯島生れ。
川端玉章に入門、画学校に入学するが、のち
東京美術学校日本画科に転じ、松岡映丘に師事。
帝展・文展などで入選・特選多数。
新興大和絵会、木之華社、第一部会、
国画院、日本画院の結成に参加。
宗達や光琳に私淑、大和絵に琳派を加味した
装飾性の強い自然描写の作品を展開する。
昭和16年8月16日没。享年50。 |
高久靄崖
(たかく・あいがい) |
江戸後期の文人画家。寛政8年下野生れ。
名は徴,字は子遠,通称秋輔。靄苑のほか石埴,如樵,疎林外史と号す。
初め絵を郷里の画家と思われる雪耕に学んだといわれるが,
その後,池大雅や清の来舶画人伊孚九(いふきゆう)に私淑し,
文人画を自ら学んだ。江戸へ出て谷文晁に師事したようであるが,
京都へ遊学したり,江戸では渡辺崋山や立原杏所ら
関東文人画家との交友の中で,日本における文人画の伝統を守った。
靄苑没後は白河藩主阿部侯の家老であった川勝隆任の
三男隆古(りゆうこ)(1810‐58)が一時その家を継いで
高久氏を名乗ったが,のちに復古大和絵派に転じた。
また門下に,山水花鳥などを得意とし関西文人画壇で
活躍した谷口靄山(あいざん)(1816‐99)らがいる。
天保4年歿。享年48 |
高崎正風
(たかさき・まさかぜ)
1836〜1912 |
明治期の歌人。天保7年鹿児島生れ
幕末多事に際して国事に力を尽くした
鳥羽・伏見の戦において征討将軍の参謀
76年宮中の御歌掛、88年御歌所設置にともなって初代所長
歌は八田知紀に学ぶ
明治天皇の作歌10万首、昭憲皇太后の作歌4万首を点した
歌風は桂園調の旧風を脱することができなかった。
大正元年歿。享年77。 |
高階瓏仙
(たかしな・ろうせん) |
大正・昭和期の僧侶。明治9年、福岡県生れ。
曹洞宗大学林(駒沢大)卒業。
明治23年出家して高階黙仙の門に入る。
42年曹洞宗大学教授となる。
大正4年福岡市安国寺。昭和6年静岡県可睡斎の
住職となり、宗会の特選議員、公選議員、宗政家として活躍。
昭和43年歿。享年92。 |
高島秋帆
(たかしま・しゅうはん)
1798〜1866 |
幕末期の兵学者・砲術家。
寛政10年、長崎生れ。名茂敦。通称四郎太夫。
父から荻野流砲術の皆伝をうけた。
のち出島のオランダ人から西洋砲術を学んで、これを高島流砲術と名づけた。
徳丸ケ原で操錬を行い、のち江川太郎左衛門に砲術を伝授。
幕府の守旧派勢力の忌むところとなり投獄された。
ペリー艦隊の来航により赦免さらた。
講武所砲術師範。
慶応2年歿。享年69。 |
高島北海
(たかしま・ほっかい)
1850〜1931 |
嘉永3年9月26日、長門国(山口県)阿武群生れ。
幼名和三郎、のち得三。父は萩藩藩医。
6、7歳のころから絵を書き始め、明倫館に学ぶ。
明治5年から4年間、地質学・植物学などを学ぶ。
以後、内務省地理局、農商務省山林局の技術官使として
全国の地質調査、山林調査に従事。
調査や公務の合間をぬって独学自修により山岳を写生する。
35歳のとき、画家として中央画壇での活動を始める。
日本美術協会展や東京勧業博覧会、文展などで受賞多数。
長門橋など名勝地の開発、紹介につとめる。
昭和6年1月10日、東京品川区で歿。享年80。 |
高瀬五畝
(たかせ・ごほ) |
明治11年、石川県金沢生れ。本名隆麿。
荒木寛畝に師事。
大正9年第2回帝展に初入選、
以後第15回まで8回入選する。
昭和36年没。享年82。 |
高田早苗
(たかだ・さなえ)
1860〜1938 |
明治・大正期の教育者・政治家
安政7年3月14日、江戸生れ。号半峰。
兄事する小野梓に従って大隈重信の改進党結成、
東京専門学校(早稲田大)創設に参画。
衆院議員当選6回。外務省通商局長。
文部省高等学務局長・専門学務局長。
東京専門学校学監。
大学昇格後も留任して同大学発展に尽力。
早稲田大学長。同総長。
貴院議員に勅撰、第2次大隈内閣文相。
近代的私学経営の途を開拓。
昭和13年12月3日没。享年79。 |
高田竹山
(たかだ・ちくざん)
1861〜1946 |
明治〜昭和前期の書家・説文学研究家。
文久元年5月9日東京牛込生。
名忠周・士信、別号未央学人など。
8歳の時から高斎単山の塾で書を学び、
18歳で両国薬研堀に書塾を開き、さらに
漢魏晋唐の古書方帖によって研究した。
また、上村蘆洲について漢詩、漢学、文字学を
研究し、説文学、古文字、書写法を独習した。
明治18年、25歳の時、内閣印刷局につとめ、
紙幣及び公債証書の文字を揮毫する。
大正8年学界で最高の帝国学士院賞受賞。
昭和21年10月24日没。享年86。 |
鷹野樗亭
(たかの・ちょてい)
1892〜? |
明治25年、長野県塩川生れ。
小坂芝田・笹沢櫟堂に師事。
弟弟子の正村竹亭、箱山精一らと共に
長野美術会展の発展に尽くす。
没年不詳。 |
高橋雲亭
(たかはし・うんてい)
1872〜? |
明治5年10月、群馬県勢多郡駒形町生れ。
滝和亭に師事して南宗派を研究。
帝国絵画協会、日本南宗画会会員。
大正期、東京下谷区上野桜木町に住す。
没年不明。 |
高橋是清
(たかはし・これきよ)
1854〜1936 |
立憲政友会第4代総裁
第20代内閣総理大臣
安政元年7月27日、江戸生れ。
幼名和喜次。開成学園卒。
大勲位子爵。貴族院議員。
昭和11年2月26日没。享年83。 |
高橋泥舟
(たかはし・でいしゅう)
1835〜1903 |
天保6年江戸小石川生。
幕臣・幕末三舟の一人。
名政晃、幼名謙三郎、字寛猛、通称精一。
兄は山岡静山、妹・英子は山岡鉄舟の妻。
高橋家を継ぐ、槍術の名人、
講武所教授・師範。伊勢守。
1863(文久3)
年 浪士組結成に際し浪士取扱
1866(慶応2)年 遊撃隊頭取
徳川慶喜の警護に当たる
戊辰戦争ではでは徳川氏の赦免と救済のため奔走
明治維新後は東京で隠棲
明治36年2月13日没。69。 |
高橋萬年
(たかはし・まんねん)
1897〜1956 |
明治30年12月21日、秋田市生れ。本名計治。
東京にでて寺崎広業の書生として
入門するが一年半で健康を害して帰郷。
再び上京、日本美術院院友となる。
昭和11年秋田に定住。
昭和31年8月歿。享年58。 |
高橋隆天
(たかはし・りゅうてん) |
新義真言宗智山派。
川崎大師平間寺現住職 |
高畠式部
(たかばたけ・しきぶ) |
女流歌人。天明四年生れ、京都の人。
名は登美子。歌人高畠清音の室。
初め木屋町二条南後に二条川東に住した。
歌を香川景樹に学び歌集麦舎集の著がある。
尚楽曲に巧みてあり且つ彫刻を善くした。
明治維新以後志貴婦と名を改めている。
明治14年5月28日没。享年98。 |
高浜虚子
(たかはま・きょし)
1874〜1959 |
明治7年2月22日、愛媛県松山生れ。
本名清。「客観写生」「花鳥諷詠」提唱。
伊予尋常中学に入学し1歳年上の河東碧梧桐と同級になり、
彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わる。
明治24年子規より虚子の号を受ける。
明治30年柳原極堂が松山で創刊した俳誌「ほととぎす」に参加。
翌年、引継ぎ東京に移転し俳句文芸詩として再出発する。
子規の没年、俳句の創作を辞め、小説の創作に没頭する。
明治43年鎌倉市に移住した。
大正2年碧梧桐に対抗する為俳壇に復帰。
昭和29年文化勲章受章。
昭和34年4月8日歿。享年85。 |
高森砕巌
(たかもり・さいがん)
1847〜1917 |
弘化4年5月22日(10月1日とも)、上総国(千葉県)長南町生まれ。
幼名宗之助、名は敏、字は子訥、通称有造、号は翠ー・菊梁・朶香など。
江戸に出、服部蘭台に儒学を学び、17歳の時渡辺華山の高弟山本琴谷に師事。
船会社や司法省に勤務するが、画業に専念、公の展覧会には出品せず画作を続ける。
与謝蕪村に私淑、山水・花鳥を得意とし格調高い作品を制作する。
南画会の結成に参加。日本美術協会会員。大正6年10月25日歿。享年70。 |
滝和亭
(たき・かてい)
1830〜1901 |
文政13年1月3日、江戸千駄ヶ谷生れ。
本姓田中。幼名長吉、のち邦之助。
名謙。字子直。別号水山、翠山、蘭田。
7、8歳のころ佐藤翠崖に学んだのを手始めに、
荒木寛快、片桐桐陰、大岡雲峰に師事。
嘉永3年長崎に半年ほど滞在、日高鉄翁に学び、
木下逸雲らと親交、没骨描法を修める。
明治26年、帝室技芸員を拝命。
明治期の代表的な花鳥画家として活躍、
画室を畊香館と名付ける。
明治34年9月28日没。享年71。 |
武島羽衣
(たけしま・はごろも) |
大正・昭和期の歌人・詩人・国文学者。
明治5年11月2日東京日本橋の木綿問屋に生れる。
本名又次郎。
帝国大学文科大学国文学科卒業。
日本女子大学校教授。
宮内省御歌所寄人。
赤門派詩人・美文家として活躍
昭和42年2月3日没。享年95。 |
竹田益州
(たけだ・えきしゅう) |
臨済宗京都東山健仁寺派管長高台寺住職。
明治29年生れ。別号宗進・金剛窟。
|
武谷雪嶺
(たけたに・せつれい)
1896〜1981 |
昭和前期の日本画家(山水画の大家)、岡山県浅口郡玉島村生れ、
師川合玉堂・山内多門の高弟、日本画会展・各展覧会に入選受賞多数、
東京世田谷に住した |
武富時敏
(たけとみ・たけとし)
1855〜1938 |
明治・大正期の政治家。
佐賀県生れ。幼名元吉郎。
明治初年東京に遊学後、
7年佐賀の乱に加わるが無罪放免。
副島種臣を知り、九州改進党の結成に参加。
佐賀県会議員・議長。
第1回総選挙で代議士に当選、以来13回当選、
立憲革新党・進歩党・憲政党・憲政本党・
立憲国民党・立憲同志会・憲政会に所属活躍。
農商務省商工局長・第1次大隈内閣逓相・蔵相を歴任。
昭和13年歿。享年84。 |
竹原嘲風
(たけはら・ちょうふう)
1897〜1947 |
明治30年、東京生れ。本名竹太郎。
初め蔦谷龍岬、のち荒木十畝に師事。
文展・帝展に入選。
帝展改組では第一部会の結成に参加。
福田豊四郎・吉岡堅二らと美術人社を結成。
昭和22年歿。享年50。 |
竹久夢二
(たけひさ・ゆめじ)
1884〜1934 |
明治・大正期の詩人・画家。
明治17年9月16日、岡山生れ。本名茂次郎(もじろう)。
早稲田実業中退。藤島武二にあこがれ、
夢二という号もそれに由来してつけた。
眼の大きな女性を描いた、夢二式美人画は、
明治末から大正初期にかけて一世を風靡した。
彼の本領は、放浪の生活と、悲恋によって傷ついた心を、
絵画や詩の中に純粋に生かしていったことにある。
昭和9年9月1日歿。享年51。 |
田崎草雲
(たざき・そううん)
1815〜1898 |
文化12年10月15日江戸小川町(足利藩邸)生れ。
金井烏洲(親戚)、谷文晁、渡辺華山に師事。
足利藩絵師。尊王の志士と交友。
誠心隊を結成し治安維持に貢献。
皇居の杉戸図を描く。帝室技芸員。
明治31年9月1日没。享年84。
司馬遼太郎の短編「喧嘩草雲」のモデル |
館霞舫
(たち・かほう)
1808〜1853 |
文化5年新潟県巻町生れ。
名雋、字昆陽、通称雋蔵。
画ははじめ清水曲河に師事し、
のちに岡田閑林に学んだ。
その後菊池容斎にもついて、
花鳥・人物・山水画を得意とした。
嘉永6年1月26日歿。享年46。 |
立花大亀
(たちばな・だいき)
1898〜2005 |
大徳寺511世、大徳寺最高顧問。
臨済宗紫野大徳寺塔頭
霊山徳禅寺長老、如意庵庵主。
明治31年大阪府堺市生れ。
南宗寺で得度。妙心寺専門道場で修行。
大徳寺派管長代務者。花園大学学長。
平成17年8月25日没。享年108。 |
館岡栗山
(たておか・りつざん)
1897〜1978 |
明治30年9月9日、秋田県南秋田郡五城目町生れ。
本名豊治。師近藤浩一路、安田靫彦。
八郎潟町一日市に疎開して永住地とする。
院展を中心に制作活動した。
秋田県文化功労章、院展特待、勲五等双光旭日章。
昭和53年10月16日歿。享年81。 |
田中角栄
(たなか・かくえい)
1918〜1993 |
昭和戦後期の政治家。大正7年生。新潟県出身。
高等小学校卒で上京,苦学力行して建築士,土建業者となる。
1947年(昭和22)に衆議院初当選。
民主党から吉田茂の民主自由党に移り法務政務次官となる。
炭鉱国管疑獄(炭鉱国家管理問題)で逮捕され,のち無罪。
自由民主党では佐藤派に属し,57年に岸信介内閣
郵政相,池田勇人内閣で党政調会長,蔵相を歴任。
佐藤栄作内閣でも幹事長,蔵相,通産相を務め,
福田赳夫と並び佐藤体制の双璧となる。
72年7月,自民党総裁選で福田を破って田中内閣を成立させた。
〈決断と実行の政治〉を旗印に,同年9月,一気に日中国交回復を実現した。
しかしもう一つの柱,日本列島改造政策は
土地投機,物価上昇を誘発し,73年秋の
石油危機とあいまって〈狂乱物価〉を現出した。
このため1972年12月総選挙も不振に終わり,
74年7月の参院選も〈金権選挙〉を指弾された。
同年末,金脈・人脈批判を受け首相を辞任した。
76年のロッキード事件暴露によって,田中は収賄で逮捕起訴され,
〈総理大臣の犯罪〉は一世を聳動(しようどう)させた。
しかし田中は党内に強大な支持勢力を結集して〈田中支配〉を確立し,
大平正芳,鈴木善幸,中曾根康弘各政権の
〈キング・メーカー〉〈闇将軍〉と呼ばれる権勢を保持した。
85年病に倒れ政界を引退した。
8年間の闘病のあと,平成5年年12月死去。 |
田中義一
(たなか・ぎいち)
1864〜1929 |
陸軍大将。勲一等。男爵。
第26代内閣総理大臣。
元治元年6月22日、山口県生れ。幼名乙熊、号素水。
日清戦争に従軍,日露戦争では大本営
陸軍参謀ついで満州軍参謀として転戦,
09年陸軍省軍事課長となり,10年少将,11年軍務局長
にすすみ,二個師団増設問題を推進したが,これは
第2次西園寺公望内閣の倒壊,大正政変を導くこととなった。
第2旅団長,欧米巡遊ののち,15年中将,参謀次長に就任,
16年第2次満蒙独立運動を推進したが失敗した。
国内では青年団の再編成に力をそそぎ,
18年原敬内閣の陸相として,シベリア出兵を遂行した。
20年男爵,21年大将,22年軍事参議官となり,
山県の死後は長州閥の総帥の地位を占め,
第2次山本権兵衛内閣の陸相をへて,25年立憲政友会総裁に迎えられた。
しかし翌年の議会で陸軍機密費300万円横領のスキャンダルを追及され,
信望をそこなった。27年,北伐にたいする幣原外交の〈軟弱〉を非難し,
4月金融恐慌のさなかに政友会内閣を組織,首相,外相を兼ね,
〈積極外交〉の実行を使命とした。
5月第1次山東出兵により北伐に武力干渉し,
ついで東方会議を開いて満蒙分離政策を練った。
28年第2次山東出兵により5月済南事件の発生をきたし,
はげしい排日運動をひきおこした。
また張作霖を利用する満蒙分離政策は張爆殺により破綻(はたん)した。
この間,内政面では第1回普通選挙への干渉,三・一五事件,
治安維持法の緊急勅令による死刑法化などで,〈暗黒政治〉の
非難を浴び,のほうずな閣僚人事は党内外の批判を招いた。
満州某重大事件,不戦条約問題などを追及され,
張爆殺犯人の処罰について天皇に食言を叱責されて,
29年7月総辞職し,9月急逝した。 |
田中仙樵
(たなか・せんしょう)
1875〜1960 |
明治〜昭和前期の茶匠。
明治8年生れ。名は鼎、諱は孝篤、
号は仙樵居士・宗鼎・玄妙斎・仁山・三徳庵。
京都の前田瑞雪に師事し今日庵に学ぶ。
明治31年茶道研究機関「大日本茶道学会」創立。
昭和35年歿。享年86。 |
田中穂積
(たなか・ほずみ)
1855〜1905 |
明治9年、長野県生れ。
早稲田大学第14代総長
「美しき天然」の作曲者
法学博士 |
田中光顕
(たなか・みつあき)
1843〜1939 |
幕末期の土佐藩郷士、明治大正期の官僚政治家。
従一位勲一等伯爵。
初名は浜田辰弥、通称顕助、号青山。
天保14年9月25日、土佐藩の家老深尾家家臣
浜田金治の長男として土佐国に生れる。
武市半平太瑞山の尊皇攘夷運動に傾倒して
その道場に通い、土佐勤皇党に参加。
脱藩して高杉晋作の弟子となって長州藩を頼り、
中岡慎太郎の陸援隊にも参加。
薩長同盟の成立にも貢献した。
中岡が坂本龍馬と共に暗殺されると、
その現場に駆けつけて重症の中岡から経緯を聞く。
彼は「新撰組か伊東甲子太郎の仕業である」と考えていたらしい。
中岡の死後は副隊長として同隊を率い、戊辰戦争で活躍した。
維新後は新政府に出仕。岩倉視察団で欧州を巡察した後、
陸軍省会計局長、陸軍少将、元老院議官、内閣書記官長、
警視総監、学習院院長、宮内大臣など要職を歴任。
明治42年収賄疑惑で非難を浴びて政界を引退した。
政界引退後は、高杉晋作の漢詩集「東行遺稿」の出版、
高知県桂浜の坂本龍馬銅像の建設など、
日本各地で維新烈士の顕彰に尽力している。
また志士たちの遺墨、遺品などを熱心に収集し、
それらは彼が建設に携わった常陽明治記念館(幕末と明治の博物館)、
旧多摩聖蹟記念館、高知県の青山文庫にそれぞれ寄贈された。
その他、明治34年に日本漆工會の2代目会頭に就任、
久能山東照宮の修理をはじめ漆器の
改良などの文化事業を積極的に行っている。
昭和14年3月28日歿。享年97。 |
田中以知庵
(たなか・いちあん)
1893〜1958 |
明治26年7月14日、東京本所生れ。
本名兼次郎、別号一庵・ 咄哉州。
松本楓湖の画塾に入門、速見御舟と親交。
釈宗活に禅を学び、大正元年咄哉の号を受ける。
昭和4年小室翠雲の推挙で日本南画院同人となる。
昭和6年咄哉州、21年以知庵と雅号を改める。
各種展覧会に入選を重ねる。
昭和33年3月15日、川崎市で没。享年64。
|
田中案山子
(たなか・あんざんし)
1906〜1970 |
明治39年5月5日、東京青梅生れ。
本名格男。大正11年頃田中以知庵に師事。
日本美術院院友。新興美術院を結成。
昭和16年小室翠雲らによる大東南宗院の結成で委員。
院展・各種美術展で入選多数。
晩年は公募展を離れ個展を重要な制作発表の場とする。
昭和45年5月14日没。享年64。 |
田中針水
(たなか・しんすい) |
明治35年北海道生れ。
師川合玉堂。子供絵得意。 |
田中日華
(たなか・にっか)
?〜1845 |
江戸後期の四條派画家。
京都生れ。名弁二、字伯暉、別号月渚。
師岡本豊彦。弘化2年歿。 |
谷口雅春
(たにぐち・まさはる)
1893〜1985 |
大正・昭和期の宗教家、生長の家の創始者
明治26年神戸生。早稲田大学卒業
心霊術に熱中し、修養雑誌を発行
昭和9年(1934)光明思想普及会を組織
世界恐慌後の社会不安におののく
人心に食い込んで勢力を伸ばした。
敗戦後も活躍し、極端な反共と
天皇主義を揚げている。
昭和60年没。享年93。 |
谷如意
(たに・にょい)
1832〜1905 |
天保3年生れ。名鉄臣、鉄心。
別号太湖、晩年如意山人といった。
彦根藩士渋谷周平の子。
江戸に出て林復斎の門で儒学を学び、
その後諸国をまわり長州でオランダの
医術を学び郷里に帰って医者をしていた。
幕末には勤王のためにつくし、明治3年には
大蔵大丞に任じられたが6年辞職。
京都に住まい学者として風雅な生活をしていた。
明治38年12月26日歿。享年84。 |
谷文晁
(たに・ぶんちょう)
1763〜1840 |
江戸後期の文人画家。宝暦13年9月9日江戸生れ。
号師陵・三東居士・楽山など多数有り。
元・明・清画や狩野・土佐・文人画・西洋画など
各派の手法を研究し工夫して、江戸文人画壇の
重鎮となった。門下に渡辺崋山・立原杏所・高久靄崖らを
輩出した。松平定信の伊豆・相模両国臨海巡見に随従した。 |
田能村直入
(たのむら・ちょくにゅう)
1814〜1907 |
文化11年2月14日、豊後国(大分県)竹田生。
旧姓三宮、名伝太、字願絶、別号小虎・忘斎・
幽谷斎・竹翁・布袋庵・飲茶案主人など。
9歳のとき、田能村竹田に入門し、才能を認められ養嗣子となる。
明治初年京都に出、富岡鉄斎を知り親交が始まる。
京都府画学校設立を知事に陳情し開校、初代校長。
京都画壇の中心にあって活躍。
明治40年1月21日京都市で没。92歳。
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田能村小篁
(たのむら・しょうこう)
1879〜1910 |
明治12年、京都生。通称直太郎。
父は田野村小斎。祖父は直入。
父小斎に南宋画を学び、山水画を得意とする。
明治43年5月急逝。享年31。
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團伊球磨
(だん・いくま)
1924〜 |
戦後の作曲家。大正13年東京生れ。
東京音楽学校(芸大)卒業。
下総皖一・諸井三郎・近衛秀麿らに師事。
オペラ「夕鶴」で毎日音楽賞など種々の賞を受ける。
芸術院会員。随筆家としても著名。 |
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宙宝宗宇
(ちゅうほう・しゅうう)
1760〜1838 |
臨済宗京都紫野大徳寺第418世住持。
大徳寺塔頭芳春院第13世住職。東海寺輪番。
京都生れ。則道宗軌に師事。芳春院内に私寮松月庵を営む。
詩偈、書に優れ、歴代住持中の名筆と称された。
また、茶の湯を能くし、製陶にも長じて手製の茶器をつくった。
号に洛陽人、松月老人、松月叟など。 |
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月岡雪鼎
(つきおか・せってい) |
宝永7年、近江生れ。大阪に住む。
本性木田、名昌信、通称丹下、別号信天翁・錦童など。
高田敬甫に狩野派を学ぶが、時代風俗画をかく
風習が盛になってきたので、風俗画に転向し、
絵本類、肉筆美人画、秘画など多く残っている。
浮世絵画家の中でも画風が上品。
法橋より法眼に叙せられた。
天明6年12月4日歿。享年77。 |
椿椿山
(つばき・ちんざん)
1801〜1854 |
享和元年、徳川幕府の槍奉行同心の子として生れた。
名弼、字篤甫、通称仲太、別号休庵、琢華堂、春松軒、碧梧山房。
師金子金陵のち渡辺華山。
山水・花鳥が得意で、中国清の張秋谷の画法も研究。
華山門下十哲の一人
安政元年7月13日歿。享年54。 |
土井晩翠
(つちい・ばんすい) |
明治〜昭和期の詩人・漢文学者。
明治4年10月23日、仙台生れ。
本名土井林吉。
東京帝大英文科卒業。島崎藤村と並称される。
新体詩人となる。詩作のほか、評論、翻訳も多数。
昭和25年文化勲章受章。
昭和27年10月19日没。享年82。 |
筒井政憲
(つつい・まさのり)
1778〜1859 |
長崎奉行、南町奉行、大目付。
安永6年5月21日生れ。
旗本久世広景の次男、
戦国大名の末裔で旗本筒井氏を継いだ。
柴野栗山に学問を学ぶ。
安政6年6月8日歿。享年82。 |
常岡文亀
(つねおか・ぶんき)
1898〜1979 |
明治31年11月13日兵庫県氷上郡生れ。
岡田秋嶺、戸部隆吉、小泉勝爾らの指導を受け、
東京美術学校日本画科を卒業、
結城素明に師事する。
帝展・日展・各種展覧会に出品、受賞。
細密描写による華麗な花鳥画でその画才を認められる。
東京美術学校教授。日展会友。
昭和54年11月29日歿。享年81。 |
鶴見祐輔
(つるみ・ゆうすけ)
1885〜1973 |
昭和期の政治家、著述家。
明治18年岡山生れ。後藤新平の女婿。和子、俊輔の父。
東京帝国大学法科大学卒業。
内閣拓殖局に入り、1924年鉄道省運輸局総務課長を退官後、
ヨーロッパ・アメリカ・オーストラリア・インド各国の大学等で
遊説し民間外交の推進に尽力した。
28年に代議士となり以後4回当選、
米内光政内閣の内務政務次官となり、
大政翼賛政治会、大日本政治会などの顧問を務めた。
第2次世界大戦後は日本進歩党の幹事長となり、
公職追放解除後、53年参議院議員を1期務め、
第1次鳩山一郎内閣の厚相となる。
また太平洋文化協会、国土防衛民主主義連盟を創設し、
この間、政治評論、小説等を執筆した。
昭和48年歿。享年89。 |
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蹄斎北馬
(ていさい・ほくば)
1771〜1844 |
明和8年生れ。本姓有坂、通称五郎八、別号駿々亭。
師葛飾北斎。版画や摺物や狂歌本なども多くある。
肉筆美人画にすぐれた作品をなこしています。
弘化元年8月6日歿。享年74。 |
寺内正毅
(てらうち・まさたけ)
1852〜1919 |
元帥陸軍大将、政治家、伯爵。
嘉永5年長州藩士宇多正輔の三男に生まれる。
箱館戦争に出陣。維新後山田顕義の推挙で仏式歩兵術を修める。
士官学校長、教育総監、参謀本部長などを歴任。
第1次桂太郎内閣の陸軍大臣。第1次西園寺公望、第2次桂内閣に留任。
この間日露戦争では大本営で兵站(へいたん)部門を担当。
10年陸相在任のまま韓国統監を兼任して
朝鮮併合を推進し、初代朝鮮総督となる。
第2次大隈重信内閣のあと内閣総理大臣となり、
官僚内閣を組織したが米騒動によって総辞職した。
山県有朋、桂太郎に次ぐ長州軍閥の巨頭とみられたが、
性格はきちょうめんで官僚タイプの軍人政治家であった。
大正8年歿。享年68。 |
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土井ごう牙
(どい・ごうが)
1817〜1880 |
幕末・維新期の儒学者。
文化14年津藩儒医土井篤敬の次男として生。
名有恪、字士恭、通称幾之輔、別号松径。
兄の没後12歳で家禄190石をつぐ。
藩儒川村竹坡・斎藤拙堂に学び、
藩校有造館助教・講官となり、
弘化2年「資治通鑑」校刊総裁、
明治2年督学となった。
学風は清朝の考証学を尊んだ。
明治13年歿。享年64。 |
東郷平八郎
(とうごう・へいはちろう)
1847〜1934 |
明治・大正期の海軍軍人,元帥。
弘化4年薩摩藩士の家に生まれ,薩英戦争,戊辰戦争に参加,
1871年(明治4)イギリスに留学,78年帰国して海軍中尉に任官,
90年呉鎮守府参謀長,日清戦争時は浪速艦長,
95年以降常備艦隊司令長官,舞鶴鎮守府司令長官となり,
1903年12月第1艦隊兼連合艦隊司令長官に就任。
05年5月日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に勝利し,
一躍名将としての名をあげた。
日露戦後,07年大勲位,功一級を与えられ伯爵,13年元帥となった。
14年から東宮御学問所総裁を務めた。
30年ロンドン軍縮条約承認反対の立場をとった。
死去に際し侯爵となり,国葬を執行された。
昭和9年歿。享年88。 |
東條琴台
(とうじょう・きんだい)
1795〜1878 |
幕末・明治期の儒学者・考証学者
寛政7年江戸生れ。名信耕、字子藏・義藏、別号呑海。
伊東藍田・倉成龍渚・山本北山・亀田鵬斎・大田錦城に学ぶ。
江戸亀戸神社祠官。教部省に出仕。
明治11年歿。享年84。 |
頭山 満
(とうやま・みつる)
1855〜1944 |
明治・大正・昭和期の国家主義者。 安政2年黒田藩士の家に生まれ,のち母の実家を継ぐ。
板垣退助の強い影響下に箱田六輔,平岡浩太郎らと向陽社を設立,
同じころ別に組織した筑前共愛会とともに国会開設請願運動等を行い,
81年箱田や平岡らと玄洋社を設立した。
しだいに民権論を離れ,日本はアジアを制覇し
てその〈盟主〉となるべきだと主張しはじめ,
同社をこの国権論で統一する一方で
炭坑を同社の財源とすることに成功して,
同社の事実上の最高指導者となった。
87年,国権論宣伝のため《福陵新報》を創刊。
条約改正反対運動で玄洋社員に大隈重信外相を襲わせたり,
第2回総選挙で政府の選挙干渉に荷担して福岡県内の民党派を
襲撃したことなどで,国権派壮士としての地位を築いた。
また,一部の大陸浪人がつくった天佑惟と称する団体に資金を与えたり,
対露同志会などに加わり日露開戦を唱えたり,
満州義軍を参謀本部の支持の下に派遣するなど,
大陸侵略と強硬外交を主張しつづけた。
金玉均やビハリ・ボースらの亡命政治家を保護し孫文ら
中国人革命家の日本での活動を支援したのも,
それを日本の大陸侵略活動の足がかりにする意図による。
この後,アメリカの排日移民法に反対した対米強硬外交の主張,
普通選挙に反対する家長選挙論の主張などのほかは
表だった活動をしなくなっていったとはいえ,
右翼の巨頭として隠然たる勢力と政界への影響力をもちつづけた。
昭和19年歿。享年90。 |
徳川慶久
(とくがわ・よしひさ)
1884〜1922 |
徳川慶喜の子、公爵、 華族世襲財産審議会議長。 |
徳富蘇峰
(とくとみ・そほう) |
明治〜昭和期の新聞人・文筆家、文久3年肥後(熊本県)生、
水俣の郷士徳富一敬の長男、蘆花の兄、
本名猪一郎、同志社中退、自由民権の結社相愛社に加盟し,政談演説や新聞編集に従事
82年より自宅に大江義塾を開き,自由主義を標榜した実学教育を行う
東京や高知に旅行し板垣退助,中江兆民,田口卯吉らの知遇をえる。
86年《将来之日本》を出版して一躍文名を高め,一家を挙げて上京し,
翌87年2月民友社を創立し《国民之友》を発刊。
90年には余勢をかって《国民新聞》を創刊。
97年松方内閣の内務省勅任参事官就任を機に〈変節〉の非難を招き,
《国民之友》は廃刊に追い込まれた。
その後も山県有朋,桂太郎に接近し機務にあずかったため,
日露講和と大正政変の2度にわたって,新聞社は民衆の襲撃をこうむった。
1913年の桂の死を機に政治の機務からは離れ,
100冊に及ぶ《近世日本国民史》の著作を始める(1952年に完結)。
一方では《時務一家言》などの著述を通じて,
デモクラシーと国際協調の風潮を批判しつづける。
23年の関東大震災で新聞社は全焼し,29年には新聞を手放さざるをえなくなった。
しかし,このころからファッショ化の波にのって声望が高まり,日米開戦前後
には最高潮に達して,宣戦の詔勅の起草にあずかっただけでなく,
大日本言論報国会,大日本文学報国会の会長を兼ね,43年文化勲章を受けた(1946年返上)。
敗戦後は戦犯容疑者に指定され公職追放となるが,52年に追放を解除された。
昭和32年歿。享年97。 |
徳永観林
(とくなが・かんりん)
1890〜? |
明治23年、東京生。
師野田九浦。別号耕邨。
花鳥・人物・魚介得意。
没年不詳。 |
床次竹二郎
(とこなみ・たけじろう)
1866〜1935 |
大正・昭和期の官僚,政治家。慶応2年生れ、鹿児島出身。
帝国大学法科大学卒業。1906年内務省地方局長,一時,
樺太庁長官を兼任し,第2次西園寺公望内閣の内務次官を務めた。
その後,13年鉄道院総裁に就任し,現職のまま立憲政友会に入党し,
15年代議士となり,その後当選8回。原敬内閣の内相兼鉄道院総裁に抜禽され,
高橋是清内閣でも内相を務めた。その間,内務省社会局,協調会を設置し,
民力涵養運動を推進して社会運動に対抗し,さらに郡制の廃止を断行した。
原の没後,政権担当への願望を強め,24年清浦奎吾内閣を支持して
政友会を分裂せしめて政友本党を結成し総裁に就任した。
27年,発足した立憲民政党の顧問となったが翌年脱党して
新党抑楽部を組織し,さらに政友会に復帰した。
その後犬養毅内閣の鉄道相を経て岡田啓介内閣の逓相に就いたが,
党議に反して政友会から除名された。逓相在任中昭和9年急逝。 |
十時梅崖
(ととき・ばいがい)
1737〜1804 |
江戸後期の儒学者
元文2年大阪生れ。名賜、字子羽・業、
通称伴藏、別号願亭・清夢軒。
伊藤東所に学び、程朱を尊崇するとともに、
書画に巧で、伊勢国長島藩に仕えた。
文化元年歿。享年68。 |
冨田溪仙
(とみた・けいせん)
1879〜1936 |
明治12年12月9日、福岡県博多生れ。
本名鎮五郎(しげごろう)。
狩野派を学び、上田鉄耕に指導を受ける。
京都に出て、都路華香に師事。
文展・院展・各種展覧会・個展などに出品。
帝国美術院会員、改組帝展審査員
昭和11年7月6日、京都市で歿。享年56。 |
富取風堂
(とみとり・ふうどう)
1892〜1983 |
明治25年10月1日、東京日本橋生れ。本名次郎。
松本楓湖の安雅堂画塾に入門。
院展など各種展覧会にて入選多数。
日本美術院評議員、文部大臣賞受賞、
千葉県文化功労者、横山大観記念館常務理事、
日本美術院監事。
昭和58年2月12日、千葉県で歿。享年90。 |