永坂石たい
(ながさか・せきたい)
1845〜1924 |
弘化2年名古屋生れ。本名周二。
医師の家系で東京へ出て医師となる。
漢詩を森春涛に学び、
漢詩人・書家として一家をなした。
大正13年歿。享年80。 |
永田春水
(ながた・しゅんすい)
1889〜1970 |
明治22年2月18日、茨城県北相馬郡生れ。
本名良亮、初め筑畝と号す。
師荒木寛畝。東京美術学校日本画科卒業。
國華社に入社「國華」の編集に携わる。
文展・帝展などにに入選を重ねる。
如春会を主宰。正統派の花鳥画を継承する。
昭和45年5月1日没。享年81。 |
中西耕石
(なかにし・こうせき)
1807〜1884 |
幕末・明治前期の南画家
文化4年筑前(福岡)生れ。名寿、字亀年、号筌岡・竹叟。
陶工の家に生れたが、幼児から絵を好み、大阪で篠崎小竹に入門。
のち京都に上り小田海僊に学ぶ。
山水・花鳥を得意とする。
日根対山、前田暢堂とともに<対暢耕>と称せられた。
門人に吉嗣拝山、木村耕巖、秦金石らがいる。
明治17年没。享年78。 |
中野正剛
(なかの・せいごう)
1886〜1943 |
大正・昭和初期の政治家。明治19年福岡市生れ。
幼名甚太郎、のち正剛に改名。
早稲田大学卒業後ジャーナリストとなり、
《東京朝日新聞》《東方時論》誌に健筆をふるう。
護憲派記者として反藩閥・反政友会の論陣をはり、
寺内正毅朝鮮総督の憲兵政治を非難した。
対独参戦・シベリア出兵に反対し、パリ講和会議での
日本外交を退嬰的(たいえいてき)旧外交と批判した。
総じて1910‐20年代の中野は〈内に民本主義外に
(反アングロ・サクソン的)帝国主義〉と規定できる。
20年に代議士初当選(福岡1区,無所属)。
のち革新抑楽部、憲政会へと転じる。
憲政会、民政党の少壮幹部として議会で反政府の熱弁をふるう。
満州事変時に幣原外交・井上財政に反対して協力内閣運動を起こし、
民政党を脱党(1932)。一時国民同盟に所属するが、
二・二六事件後は全体主義政党東方会の党首となり、
〈アジア・モンロー主義的〉な対外硬運動を展開する。
日米開戦後、戦争遂行方針をめぐって東条英機政権と対立
(《戦時宰相論》(《朝日新聞》1943年1月1日号掲載))、
反東条重臣工作を企てて逮捕される。
釈放後昭和18年割腹自殺を遂げる。享年58。 |
中原南天棒
(なかはら・なんてんぼう)
1839〜1924 |
明治大正期の禅僧
天保10年肥前東松浦郡生れ。本名ケ州。
大和圓福寺萬松菴の石應、久留米梅林寺の羅山らに参じ、
羅山の印可を得た。
周防徳山の大成寺に住山し、ついで松島瑞巖寺に入り、
明治35年兵庫県武庫郡の海清寺に住した。
乃木希典も帰依する。
大正14年2月12日没。享年87。 |
中林梧竹
(なかばやし・ごちく)
1827〜1913 |
明治時代の書家。文政10年、佐賀生れ。
名彦四郎、のち隆経。字子達。
山内香雪・市河米庵に書を学び、
後年2回清国にわたり、潘存より書法を受け、
漢〜六朝の碑帖を持ち帰った。
各時代の書の精髄をとって自己の天分を
盛りあげ、篆隷楷行草みな能く書いた。
確かな造形性、気宇の
大きい書風は特筆すべきである。
大正2年歿。享年87。 |
中林清淑
(なかばやし・せいしゅく)
1831〜1912 |
天保2年、京都生れ。名邦子。中林竹洞の娘。
父に文人画をまなび、梅の絵をよくした。
明治45年歿。享年82。 |
中村貞以
(なかむら・ていい)
1900〜1982 |
明治33年7月23日、大阪市船場生れ。
本名清貞。幼児期大火傷で両手の指が不自由となり、
のちに両手に絵筆を挟んで制作することになる。
大正8年北野恒富に入門、美人画の基礎を学ぶ。
京都を訪れた横山大観に激励されて以来大観を師と仰ぐ。
昭和3年島成園門下の高橋千代子と結婚。
日本美術院理事。横山大観記念館理事長。
障害を克服した合掌描きによって清楚な女性像を発表、
現代の美人画の第一人者としての歩みを続ける。
昭和57年3月12日歿。享年81。 |
中村汀女
(なかむら・ていじょ)
1900〜1988 |
女流俳人の第一人者
明治33年4月11日、熊本市江津生れ。
本名破魔子(はまこ)。ホトトギス同人。
女流俳人4Tの一人
(星野立子、橋本多佳子、三橋鷹女)
戦後「風花」を創刊主宰。
文化功労者。熊本市名誉市民。
昭和63年9月20日没。享年88。 |
中村不折
(なかむら・ふせつ)
1866〜1943 |
明治・大正期の画家・書家。慶応2年東京生。別号環山・孔固亭。
小山正太郎・浅井忠に洋画を学ぶ。渡仏しジャン=ポール=ローランスに師事。
太平洋美術学校長・美術協会審査員を歴任。
昭和18年 78歳で歿。 |
中村芳中
(なかむら・ほうちゅう)
?〜1819 |
京都生れ。のち大阪で活躍。
尾形光琳に私淑。
寛政末から享和初め頃
江戸に下って「光琳画譜」を出版。
独特な形態感覚と色彩感覚
によってユーモラスな印象を
与える作品が多い。 |
中村正直
(なかむら・まさなお)
1832〜1891 |
啓蒙学者・教育者・文学者。
天保3年、江戸麻布生れ。
幼名釧太郎のち敬輔、諱正直、号敬宇。
昌平坂学問所に学び、のち教授となる。
慶応2年幕府の英国留学生取締役を命ぜられイギリスに留学。
小石川の邸内に英学塾を設立、引き続き
同人社と称し、《同人社文学雑誌》を創刊。
この間明六社の結成に参加、《明六雑誌》に
〈西学一斑〉以下5編を寄稿し、啓蒙思想の普及に努めた。
福沢諭吉とならび〈江戸の聖人〉といわらた。
東京大学教授となり漢学を担当した。元老院議官。
東京女子高等師範学校長を兼任。貴族院議員に勅選。
明治24年歿。享年60。 |
二世中村蘭台
(なかむら・らんだい)
1892〜1969 |
篆刻家。明治25年東京生れ。本名は秋作、字は子実。
初代中村蘭台の二男。父に篆刻を学ぶ。
昭和3年萬華鏡社を創立し、澤田篁斎・荒木柳城・
西川寧らと絵画・竹工芸・彫金等の展覧会を催す。
昭和12年、謙慎書道会の審査員、昭和23年日展審査員に着任。
横山大観、川合玉堂や武者小路実篤、東山魁夷、
伊東深水など多くの著名日本画家・文人の印を手がける。
昭和36年篆刻界初の日本芸術院賞を受ける。
昭和44年歿。享年77。 |
中山博道
(なかやま・ひろみち)
1873〜1958 |
明治〜昭和期の剣道家。
明治6年2月、石川県生れ。
斉藤理則に山口一刀流を習い上京。
熾烈な修行で大森・長谷川流居合、
神道夢想流杖術を極めた。
明治以来、剣・居合・杖術
各範士の称号をもつ唯一の人。
明治34年道場有信館を開き、警視庁・
宮内省・海兵・各大学で指南。
天覧試合の審判員をつとめた。
昭和33年12月14日歿。享年86。 |
名取春仙
(なとり・しゅんせん)
1886〜1960 |
明治19年2月7日、山梨県櫛形生れ。
本名芳之助、別号春川・春僊。
幼少時東京に移住、同級に川端龍子、岡本一平。
久保田米僊、久保田金僊、平福百穂に師事。
明治40年東京朝日新聞社で新聞連載小説の
挿絵やスケッチ担当、二葉亭四迷の「平凡」が第一作。
伊東深水らとともに浮世絵版画を代表する画家として活躍。
日本美術院院友。
昭和35年3月30日、東京青山高徳寺で
妻とともに服毒自殺。享年74。 |
南摩羽峰
(なんま・うほう)
〜1909 |
幕末・明治期の儒学者
東大教授など歴任
名綱紀、通称八之丞・三郎、字士張
会津若松生、師古賀謹堂ほか
明治42年歿 |
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西垣宗興
(にしがき・そうこう) |
臨済宗大徳寺派萬年山極楽寺住職。別号文山。 |
西川雲径
(にしかわ・うんけい) |
師小室翠雲。山水花鳥画得意。
昭和14年現在、40歳で大阪市新花屋敷に住す。
没年不詳 |
西川春洞
(にしかわ・しゅんどう) |
明治期の書家。弘化4年生れ。
名元譲、別号如瓶山人、大夢道人、茄古山民など。
父は肥前唐津藩士、西川元琳で、書は祖父の亀年に習う。
6歳の時、藩主の命によって、楷書千字文をかいて神童といわらた。
漢学は平田彬斎に、書も後には中沢雪城に学んだ。
維新前には尊皇攘夷を唱え、勤皇の志士と交わる。
明治初年には大蔵省に出仕し、開成校の教授も勤めた。
子孫には西川寧、門下の人々には諸井春畦、諸井華畦、
武田霞洞、安本春湖、花房雲山、中村春坡などがいる。
大正4年8月10日没。享年69。 |
西沢笛畝
(にしざわ・てきほ)
1889〜1965 |
明治22年1月1日、東京浅草生れ。
旧姓石川、本名昂一、別名比奈舎。
荒木寛畝のち十畝に師事。
結婚して西沢家に入婿。
文展・帝展など諸展に入選多数。
師風荒木派の花鳥画を継承し
つつ近代的な花鳥画をめざす。
日本画院結成に同人として参加。
読画会の代表理事。
昭和40年歿。享年77。 |
西田天香
(にしだ・てんこう)
1872〜1968 |
宗教的社会活動家。
明治5年滋賀県長浜生れ。
二宮尊徳の報徳思想に共感し、
北海道開拓民として移住。
開墾事業の監督となるが、
紛争調停に苦しむ。
「争いの因となるものは食べまい」と決意し、
三日三晩の断食籠坐の果て、
赤ん坊の泣き声を耳にして大霊覚、
そこに争わずとも恵まれる食があること、
生命の原点を見出した。
京都鹿ケ谷に『一燈園』を開設。
(現在は山科区)
昭和43年2月29日没。享年96。 |
西脇呉石
(にしわき・ごせき)
1879〜 |
明治12年3月8日、福井県勝山市下元禄生れ。名は静。
漢学を富田鴎波につき、書を村田海石に学んだ。
福井師範を卒業し、文検習字科合格、福井高女、
東京青山師範、東京府立第三高女、大倉高等商業、
東京商科大学などに奉職し、文部省より委嘱
をうけて国定書方手本を揮毫した。
師村田海石没後は日下部鳴鶴につき、
また漢詩を国分青香A岡崎春石に学び、
南画を長田雲堂、三谷耕雲、原田尾山に学んだ |
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貫名菘翁
(ぬきな・すうおう) |
安永7年阿波(徳島)生れ。名苞、字子善、
通称政三郎・省吾・泰次郎などと改名し、
号を海仙、60歳より海叟、70歳以降は菘翁・摘菘翁・菘叟、
別号を海客・須静堂・三緘堂・方竹主人などという。
画は妻の父狩野派の矢野典博や日高鉄翁に、書を西宣之に学ぶ。
のち高野山に上り、空海をはじめ多くの古碑帖によって習書する。
須静塾を開き、書生に教授しながら各地を遊歴した。
晩年は京都下賀茂に隠居。
幕末の三筆といわれた。
文久3年5月6日没。享年86。 |
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根本樵谷
(ねもと・しょうこく)
1859〜1913 |
安政6年12月30日千葉県白鳥生れ。
本名郁次郎。号枕雪・錦雲堂など。
初め宮川堤月に学び、洋画を習う。
明治18年上京、杉溪雲樵に師事。
雲谷派を修める。
墨の馬や鯉の絵を得意とした。
大正2年1月8日歿。享年53。 |
根本雪蓬
(ねもと・せっぽう)
1878〜? |
明治11年3月、千葉県市原生れ。
本名柳作。父は日本画家、根本樵谷。
初め横浜の矢内楳秀に学び、のち
荒木寛畝に師事する。
日月会の主任幹事ほか日本美術協会会員、
文墨協会委員をつとめ、孔雀の絵を得意とした。
昭和9年以降の消息は未詳。 |
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野生司香雪
(のうす・こうせつ)
1885〜1973 |
明治18年11月5日、香川県生れ。
本名述太(のぶた)。父は浄土真宗の役僧。
香川県立工芸学校彫金科を経て、
東京美術学校日本画科を卒業。
日本美術院の研究会員となり、院友となる。
インドの初転法輪寺の壁画に釈迦一代記を描く。
長野善光寺雲上殿の壁画を制作。
長野市に疎開のち渋温泉、小布施に移る。
昭和48年3月28日没。享年87。 |
野口小
(のぐち・しょうけい)
1878〜1944 |
明治11年1月11日、滋賀県蒲生郡生れ。
本名郁子(郁とも)。母は日本画家小蘋。
山梨県甲府で幼少期をおくり、15年一家で上京。
絵画共進会などに入選を重ね褒状を受ける。
日本美術協会・日本画会の会員。
一時期小室翠雲と結婚。
昭和19年4月2日歿。享年66。 |
野口小蘋
(のぐち・しょうひん) |
弘化4年1月11日大阪府生れ。
名親子、字清婉、松村春岱の長女。
日根対山に師事。
華族女学校教授、明治天皇の内親王の
常宮昌子内親王、周宮房子内親王の御用掛をつとめた。
奥原晴湖と共に明治時代の女流南画家の双璧といわれた。
帝室技芸員。大正6年2月17日没。71歳。 |
野田九浦
(のだ・きゅうほ)
1879〜1971 |
明治12年12月22日、東京下谷生れ。本名道三。
父の転勤で幼少期を函館で過ごす。
28年寺崎広業に伴われ上京、その画塾に学び、
29年東京美術学校日本画家選科に入学するが、
31年美術学校騒動により師とともに退学、
創立された日本美術院の研究生となる。
また町田曲江と白馬会研究所で黒田清輝に洋画を学び、
渡欧をめざしてフランス語を習い、
正岡子規について俳句を学ぶ。
40年大阪朝日新聞社に入社(大正6年退社)、
夏目漱石の小説「坑夫」の挿絵を制作する。
文展・帝展などで受賞多数。
煌土社創設、日本画院同人、帝国芸術院会員、
日展運営会常務理事、(社)日展顧問、
金沢市立美術工芸学校教授(のち名誉教授)
歴史人物画に秀作を残す。
昭和46年11月2日、東京武蔵野で没。享年91。 |
のむら清六
(のむら・せいろく)
1916〜? |
大正5年、山梨県生れ。
川端画学校専科卒業。新興美術院に参加。
画学校同窓の岩崎巴人・長崎莫人らと日本表現派を結成。
昭和50年、フランス美術賞パリ展大賞受賞。
中国・北京労働人民文化宮で彩墨展開催。
55年、東京・セントラル美術館で個展開催。
長野県南安曇郡穂高町に住す。 |
野本文雄
(のもと・ふみお)
1884〜1958 |
明治17年長野県南安曇郡三郷村生れ。
長野県師範学校卒業。
松本市田町小学校に奉職するが3年間で退職。
川端画学校日本画科入学。
島木赤彦と交流し「アララギ」に投稿。
第2回帝展に初入選。(11回帝展まで数回入選)
銀嶺会を結成。短歌会「大原会」創設。
「せせらぎ会」創設。
自然描写にすぐれ、南画の技法を
駆使しながらさわやかな作品を描いた。
昭和33年没。享年75。 |