萩野由之
(はぎの・よしゆき)
1860〜1924 |
歴史学者。万延1年新潟県佐渡国生。
1886年東京大学卒業後、学習院、東京高師各教授などを経て
1901年東京帝国大学教授に就任(1923年まで在職)。
古代法制の研究とともに、平安〜
戦国時代の古典文学の研究で知られ、
とくに《神皇正統記》《大鏡》《増鏡》などの
史書の解説や校定に大きな足跡を残した。
晩年には維新史に力を注ぎ,
《徳川慶喜公伝》(全8冊,1917)を監修し,
《王政復古の歴史》(1918)などを著した。
大正13年歿。享年65。 |
羽黒山政治
(はぐろやま・まさじ) |
大正3年11月18日、新潟県西蒲原郡中之口村生れ。
本名小林政治。相撲力士。身長179p、体重129.4kg
昭和8年19歳で立浪部屋へ入門。兄弟弟子に双葉山。
力あくまで強く、左四つ寄切り、吊出し、上手投げと速攻が得意。
昭和17年1月、第36代横綱に推挙され横綱をつとめること11年。
28年9月引退。引退後立浪を継ぎ、
時津風を助けて協会の運営に当たった。
昭和44年10月14日没。享年54。
幕内在位は39場所、
幕内成績321勝94敗1分け117休み、
勝率77%、優勝7回、
勲四等旭日小綬章受章。 |
橋本永邦
(はしもと・えいほう)
1886〜1944 |
明治19年9月20日、東京京橋生れ。本名乾(つとむ)
父は日本画家橋本雅邦、兄は秀邦。
東京美術学校日本画科に入学、
寺崎広業、下村観山に学ぶ。
日本美術院同人。
昭和19年5月6日没。享年57。 |
橋本雅邦
(はしもと・がほう)
1835〜1908 |
明治時代の日本画家。
天保6年7月27日、川越藩の絵師橋本晴園養邦の
子として江戸狩野邸内で生まれる。
幼名千太郎、別号は十雁斎、酔月画生など。
13歳で狩野勝川院雅信に入門、勝園雅邦(ただくに)の号を与えられる。
20歳のころには生涯の友狩野芳崖とともに塾頭にあげられた。
第1回内国絵画共進会に出品、受賞して画壇に認められた。
84年、フェノロサ、岡倉天心らによって鑑画会が創立され、芳崖とともにこれに参加。
88年、東京美術学校の創立とともに最初の日本画教授となる。
98年、天心に従い野に下り、日本美術院の創立に参画、その主幹となる。
ときには後進の菱田春草、横山大観らの朦朧(もうろう)調の長所をとりいれ、
また晩年は琳派の手法を試みるなど、近代日本画へのなかだちを果たした。
代表作に、美術学校時代の《白雲紅樹》《竜虎図潅風》などがある。
写実よりも心もちを第一義とした画論も伝わり、狩野派最後の巨匠といわれる。
明治41年1月13日歿。享年72。 |
長谷川玉峰
(はせがわ・ぎょくほう) |
文政5年京都生れ。名師盈、字士進、別号等斎。
師松村景文。人物花鳥画得意。
明治12年10月20日没。享年58。 |
畠山錦成
(はたけやま・きんせい)
1897〜1995 |
明治30年9月5日、石川県金沢市生れ。
大正10年、東京美術学校日本画科卒業。
結城素明に師事。
川崎小虎、望月春江らと日本画院を結成。
東京女子美術専門学校で講師。
金沢に疎開して、金沢美術工芸専門学校
(金沢美術孝芸大学)教授となる。
日展会員。
平成7年1月18日歿。享年97。 |
畑仙齢
(はた・せんれい)
1865〜1929 |
慶応元年4月15日、京都生れ。
名経長、字子益、別号彩雲・万象堂・半象外史など。
岸竹堂のち鈴木百年に師事。
今尾景年、久保田米僊、鈴木松年とともに
百年門下の四天王と称される。
日本画会幹事など歴任。
富山県立工芸学校に赴任、
また彩雲画塾を設けて後進の育成にあたる。
昭和4年3月30日歿。享年63。 |
服部擔風
(はっとり・たんぷう)
1867〜1964 |
慶応3年愛知県海西郡生れ
幼名粂之丞
尾張藩儒者森村大朴に漢籍を学び
森春涛らの影響をうけた
名古屋に柳城吟社を創立
昭和39年歿。享年96
勲四等瑞宝章 |
浜口雄幸
(はまぐち・おさち)
1870〜1931 |
大正・昭和期の財政家・政治家。
明治3年土佐の水口(みなぐち)家生れ。
同郷の浜口家の養子となった。95年東京帝国大学政治学科を卒業。
大蔵省に入り,山形県収税長,松山,熊本の各税務管理局長,
東京税務監督局長などを歴任。1904年以降は煙草専売局に勤務し,
07年専売局長官になった。この間に後藤新平の知遇をえ,
12年第3次桂太郎内閣の後藤逓相のもとで逓信次官に就任した。
14年第2次大隈重信内閣の大蔵次官となり,立憲同志会に参加,
15年第12回総選挙に高知市から立候補して当選し,以来6回連続当選した。
24年加藤高明内閣の蔵相となって税制整理にあたり,
ついで第1次若槻礼次郎内閣の蔵相,のち内相を務めた。
27年立憲民政党の結成とともに総裁に就任し,
28年第1回普通選挙では与党政友会に伯仲する議席を確保して,
田中義一内閣を窮地に立たせた。
29年7月田中内閣総辞職のあとをうけて民政党内閣を組織し,
その容貌から〈ライオン首相〉とあだ名され,
重厚・清廉な人柄で人気を集めた。
蔵相には井上準之助をあてて緊縮政策を推進し,30年1月金解禁を行った。
一方,外相に幣原喜重郎を起用して協調外交を展開,
日中関係の改善をはかるとともに,イギリス
の提唱に応じてロンドン海軍軍縮会議に参加し,
若槻元首相,財部彪海相らを全権として派遣,財部不在の
あいだ海相事務管理の職につき,軍部大臣武官制の例外をつくった。
日米妥協案に対する加藤寛治軍令部長らの強硬な反対を抑え,
元老西園寺公望の支持と30年2月の総選挙でえた絶対多数の
力を背景として,4月ロンドン海軍軍縮条約に調印,統帥権干犯を
叫ぶ政友会や右翼の攻撃に屈せず,条約否認の構えをみせた
枢密院にも断固たる態度で臨み,10月条約を批准させ,
戦前政党政治の一頂点を築いた。しかし,これに不満をもった
愛国社員佐郷屋留雄(さごやとめお)に11月14日東京駅で
狙撃されて重傷を負い,31年4月総辞職,8月26日死去した。 |
花井青巌
(はない・せいがん) |
明治28年愛知県生れ。
師高森砕巌。仏画を得意とする。
戦前南画会所属。
昭和45年現在刈谷市に住す。
歿年不明。 |
馬場一路
(ばば・いちろ) |
群馬県高崎出身。本名馬場一郎。
東京駅前丸ビルに文房具店「和風堂」を営む主人で、
信仰厚い人で観音施画を行い多くの書画を残した。
また文人との交友もあり、夏目漱石、岩波茂雄
らとも交流を物語る書画などが残っている。
生涯に33,787本もの観音施画など数多くの書画を残した。
一路堂は、昭和49年、未亡人の発願により慈眼院の
一隅に建立され、居士の遺墨が常時展覧されている。
著作には「一路居士雑染画集」「風漏集」などがあります。 |
林銑十郎
(はやし・せんじゅうろう)
1876〜1943 |
陸軍軍人(大将)
第33代内閣総理大臣
正二位、勲一等、功四級
明治9年2月23日、石川県金沢市生れ。
日露戦争従軍、旅順攻撃に参加。
斎藤実、岡田啓介内閣で陸軍大臣。
昭和18年2月4日没。享年68。 |
原三溪
(はら・さんけい)
1868〜1939 |
実業家、茶人。
慶応4年8月23日、岐阜市生れ。
青木久衛の長男。名は富太郎。
儒学者野村藤陰や草場船山に学ぶ。
上京して早稲田大学で政治学・経済学を学び、
跡見女学校の教師を務める。
横浜の豪商・原善三郎の孫・屋寿(やす)と結婚し原家に入る。
横浜市を本拠地として、絹の貿易により富を築いた。
また、富岡製糸場を中心とした製糸工場を各地に持つ。
帝国蚕糸社長、横浜興信銀行(横浜銀行)頭取。
関東大震災後は、横浜市復興会会長をつとめ、
復興支援のため私財を投じ衰微。
美術品の収集家として知られ、小林古径、前田青邨らを援助した。
横浜本牧に三溪園を作り、全国の古建築の建物を移築した。
昭和14年8月16日歿。享年72。 |
春木南華
(はるき・なんが)
1818〜1866 |
文政元年生。春木南溟の長男。
名麟、通称扇之助、号讀書斎、煙波釣徒。
慶応2年6月17日没。享年48。
父南溟より先に他界した。 |
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東久世通禧
(ひがしくぜ・みちとみ)
1833〜1912 |
幕末期の尊王攘夷派の公卿。
天保4年生れ。幼名保丸、号竹亭・古帆軒。
文久3年8月18日の政変で京都を追われ、
七縁落の一人として長州へ下った。
慶応3京都へもどって参与となり、明治元年には外国事務取調掛、
ついで外国事務総督となり、新政府の外交事務を統括した。
開拓長官として箱館に赴任し、侍従長となり、
岩倉具視の欧米視察に同行。
帰国後、元老院議官、同副議長、枢密顧問官、
貴族院副議長、枢密院副議長を歴任した。伯爵。
明治45年1月4日歿。享年80。 |
比田井天来
(ひだい・てんらい) |
明治〜昭和初期の書家。
明治5年1月23日、長野県北佐久郡協和村生まれ。
名は鴻、字万象・子漸、幼名常太郎、別号画沙・大樸など。
有隣塾の依田稼堂に漢学・書を学び、東京に出て日下部鳴鶴に書を学んだ。
また詩を岡本黄石につき、小石川哲学館で哲学を学び、
二松学舎に入り、金石文字学・経学などを学んだ。
陸軍幼年学校習字科教授、東京高等師範学校講師、東京美術学校(現在の
芸術大学)の習字講師、神奈川師範習字科講師、文検習字委員などつとめる。
大日本書道院を創立して総務長となり、帝国芸術院(現在の日本芸術院)会員。
昭和14年1月4日歿。享年68。
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飛田周山
(ひだ・しゅうざん) |
明治10年2月26日、茨城県多賀郡生れ。本名正雄。
上京し、叔父の彫金家海野美盛の書生となり、
美盛のすすめで久保田米僊に入門するが、
のち京都に移り竹内栖鳳に師事する。
家の事情で33年東京に戻り、日本美術院の
研究所に入所、また橋本雅邦に師事する。
岡倉天心を茨城県五浦に案内する。
明治39年美盛の斡旋で文部省教科書編纂係嘱詫となり
国定教科書の挿絵を制作、昭和16年まで長期間従事。
文展・帝展・博覧会など受賞多数。
日本画院結成、創立同人。
昭和20年11月22日没。享年68。 |
日高鉄翁
(ひだか・てつおう) |
江戸後期の長崎臨済宗春徳寺の僧。
のちに雲竜寺に隠退した。寛政3年生れ。
画は石崎融思に学び、のち江稼圃に文人画を学ぶ。
当事木下逸雲や三浦梧門などとともに、長崎の三大南画家といわれた。
特に蘭が得意であり、詩文も書もすぐれていた。
門人には滝和亭・安田老山・大倉雨邨・川村雨谷などがいる。
明治4年12月7日没。享年81。 |
日根対山
(ひね・たいざん)
1812〜1869 |
江戸後期の関西南画壇の名家
名盛長、字成言・小年、号対山・茅海・錦林子・同楽園。
和泉堺の人。京都に居住。
岡田半江・貫名海屋に師事。画は僧鉄翁に私淑。
梁川星巌・貫名海屋等と親交。
明治2年3月13日歿。享年57。 |
平井楳仙
(ひらい・ばいせん)
1889〜1969 |
明治22年1月5日、京都市生れ。本名秀三。
京都市立美術工芸学校絵画科卒業、竹内栖鳳に師事。
入江波光・榊原紫峰らと桃花会を結成。
文展、帝展、博覧会などで受賞多数。
昭和44年8月30日没。享年80。 |
平野五岳
(ひらの・ごがく) |
文化6年3月26日、大分県日田市生れ。
幼名聞恵、名岳、字五岳、
号五岳・古竹園・滴翠楼・知雨園
職業僧家。広瀬淡窓に師事。
詩は白楽天に私淑、書は独学で、
絵は田能村竹田の画風を学ぶ。
明治26年3月3日没。享年83。
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平福百穂
(ひらふく・ひゃくすい)
1877〜1933 |
明治10年12月28日、秋田県角館生れ。
本名貞藏。父は円山四條派の画家穂庵。
父穂庵の指導を受けるが、父が旅行先の秋田で急逝。
鈴木百年に画才を認められ、郷土の儒学者から百穂の雅号を受ける。
上京して川端玉章の内弟子となり、同門の結城素明を知る。
国民新聞社に入社、約22年間在職。
无声会、珊瑚会、金鈴会を結成。
昭和8年10月30日、秋田県横手市で歿。享年55。 |
平山成信
(ひらやま・せいしん)
1854〜1929 |
明治・大正期の官僚、安政元年江戸生
幕臣平山省斎の子
左院に出任、枢密顧問官
帝国女専・日本高女・静専女学校などの校長
日赤創立以来その理事となり、社長となる。
産業協会創立、帝展の創立に尽力
啓明会会長
昭和4年没。享年56。 |
広瀬東畝
(ひろせ・とうほ)
1875〜1930 |
明治8年2月26日、高知県佐川生れ。
本名済。初め天野痩石に南画を学び、
上京して荒木寛畝に師事して南北合派を修める。
日本美術協会展で受賞を重ねる。
日本画会委員、読画会幹事、
東京高等工業学校図案科助教授。
文展、帝展に入選多数。
昭和5年1月27日歿。享年54。 |
広田弘毅
(ひろた・こうき)
1878〜1948 |
外交官、政治家。明治11年福岡県生れ。
少年時代から頭山満の玄洋社に出入りし影響をうけた。
東京帝大法科大学卒業。
斎藤実内閣の外相、岡田啓介内閣にも留任。
二・二六事件後首相となり、当初外相を兼ねたが、
閣僚の人選をはじめ、軍部大臣現役武官制の復活、
〈国策の基準〉の決定など、軍部の意に追随した。
第1次近衛文麿内閣の外相となり、日中戦争では、
〈国民政府を対手とせず〉声明などの強硬策をとった。
40年以降重臣として重臣会議に加わり、45年6月マリク駐
日ソ連大使と戦争終結について会談したが成功しなかった。
戦後A 級戦犯として文官でただ一人絞首刑に処された。
昭和23年歿。享年71。 |
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深田直城
(ふかだ・ちょくじょう)
1861〜1947 |
文久元年7月14日、近江国膳所生れ。
本名政孝。別号秋月。
師森川曽文(四條派)
大阪に移住。晩年西宮に移る。
日本美術協会会員。
魚の絵を得意とした。
昭和22年歿。享年86。 |
福井江亭
(ふくい・こうてい)
1865〜1937 |
慶応元年11月23日、江戸牛込生。
本名信之進(信之助とも)、通称天真堂。
初め洋画、のち南画を学び、
川端玉章に師事。
日本青年絵画協会の結成に参加。
日本画会の結成に評議員として参加。
素明、百穂らと无声会を結成。
名古屋高等工業学校教諭。
東京美術学校教授。
中国各地を巡遊。
千葉県市原の菊間村山荘
に籠り画作生活をおくる。
昭和12年3月8日没。享年71。 |
福岡青嵐
(ふくおか・せいらん)
1879〜1954 |
明治12年、熊本県生れ。本名義雄。
36年東京美術学校日本画科選科卒業。
大正8年矢野橋村らと美術文芸の研究をめざす主潮社を結成、
13年橋村や洋画家斎藤与里らと私立の大阪美術学校を創設。
昭和5年第11回帝展に《太子伝》で入選、
唯一の官展出品となる。その後は青龍社社人となる。
一貫して青龍社展に出品する。
連作など歴史人物画を得意とする。
昭和29年12月11日没。享年75。 |
福島柳圃
(ふくしま・りゅうほ) |
文政3年神奈川県那珂郡湯本生れ。
通称重次郎、別号黙神艸堂。
江戸で柴田是真につき、さらに唐・宋・元・明の
古画蹟によって山水花鳥画を研究する。
明治22年10月23日没。享年70。 |
福田浩湖
(ふくだ・こうこ)
1883〜1959 |
明治16年3月14日、東京本郷生。本名浩治。
佐竹永湖に師事、南画を学ぶ。
日本美術協会展で受賞を重ね、文展・帝展にも多数入選。
日本南画院の再興に尽力、最長老の同人として重きをなした。
昭和34年5月19日、東京で歿。享年76。 |
福田雅太郎
(ふくだ・まさたろう)
1866〜1932 |
明治・大正期の陸軍軍人(大将)
慶応2年肥前長崎県大村生。
第5師団長、参謀次長、台湾軍司令官など歴任。
大将10年、大将。
関東大震災に際し、東京戒厳司
令官として治安対策にあたる。
甘粕事件に関連してアナーキストに狙撃されるが無事。
大正15年予備役に編入、
昭和5年枢密顧問官となった。
昭和7年歿。享年67。 |
福地桜痴
(ふくち・おうち)
1841〜1906 |
明治期のジャーナリスト。天保12年肥前(長崎県)生。
名源一郎、幼名八十吉、号星泓・桜痴。
安政3年15歳の時から蘭学を学び、
江戸に出て英学を学び、
また幕府に出仕して通訳・翻訳の仕事にたずさわった。
渡欧中に言論とくに新聞に深い関心を抱くようになり、
またシェークスピアにも熱中した。
明治元年「江湖新聞」を発行して左幕の筆陣をはり、
新政府から逮捕、発行禁止の処分をうけた。
新政府に仕え、岩倉具視大使の欧米
巡遊に一等書記官として加わった。
「東京日日新聞」主筆。以後政府擁護の
立場で自由民権派批判の筆をふるった。
丸山作楽・水野寅次郎らと立憲帝政党を組織、
東京府会議長・東京株式取引所肝煎となる。
歌舞伎改良を提唱して歌舞伎座を創立した。
明治39年没。享年66。 |
藤井華浦
(ふじい・かほ) |
昭和前期の画家。
山口県防府市。師田中柏陰。 |
藤井達吉
(ふじい・たつきち)
1881〜1964 |
明治14年6月6日愛知県碧海市生れ。
日本画を始め、陶芸、七宝、紙工、染色など
工芸のあらゆる分野で活躍した。
地場産業や伝統工芸の振興に力をいれる。
バーナード・リーチ、高村光太郎ら多くの芸術家と交流。
師も弟子もなく、生涯独身ですごす。
「孤高の芸術家」といわれた。
昭和39年8月27日岡崎市で歿。享年83。 |
藤岡紫峰
(ふじおか・しほう)
1880〜1956 |
大正・昭和期の日本画家。名八郎。別号静観斎。
明治13年、茨城県行方郡汐来町生れ。
松本楓湖・川合玉堂に師事。
明治44年第5回文展に「五月雨の図」で初入選
以後文展、帝展へそれぞれ入選して、実力を発揮。
11回文展の「野趣四題」、12回文展の「花咲く里」などは代表作。
戦時中は常陸太田市に疎開し、画業にはげむ
かたわら、美術振興のため尽力した。
昭和31年2月7日没。享年76。 |
藤島静村
(ふじしま・せいそん) |
文久3年盛岡生れ。
川口月村に四條派を学び、
のち雪舟・雪村らに雲谷派も学ぶ。
画号は月村より静村を貰う。
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藤田价浩
(ふじた・かいこう) |
京都西芳寺(苔寺)前住職
古文協理事長
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藤田東湖
(ふじた・とうこ)
1806〜1855 |
文化3年常陸国水戸生。藤田幽谷の次男。
名彪(たけし)、幼名武次郎、通称虎之助・誠之進。
江戸へ出て文武を学ぶ。家督を継いで200石。
彰考館総裁代理。徳川斉昭のもとに郡奉行。
江戸通事、側用人など歴任。
藩政改革派の中心となって藩政の実権を掌握した。
保守派との対立が激化し、斉昭は謹慎、東湖は蟄居。
復帰後、海岸防禦掛、側用人となり江戸詰めとして活躍。
安政2年大地震のために江戸小石川の藩邸で圧死した。 |
藤山鶴城
(ふじやま・かくじょう)
1870〜? |
明治3年12月8日、京都府舞鶴町生れ。
京都府画学校卒業
幸野楳嶺、野村文挙に師事して四条派を修める。
日本美術協会にて銅賞数回、
内外博覧会、共進会、展覧会などにて褒賞状十数回、
御用品となること数回に及ぶ。
38年岡侍従武官長に従い満鮮
戦地を視察し写生絵巻4巻を描く。
帝国絵画協会会員。
東京赤坂檜町に住す。没年不詳。 |
藤本鉄石
(ふじもと・てっせき)
1816〜1863 |
幕末の尊攘派志士
文化13年備前国上道郡宇野村生れ。
名は真金,通称津之助,鉄石は号。岡山藩に仕える。
養父の死後1840年(天保11)脱藩して上京,
諸国を遊歴後伏見に私塾を開く。
大老井伊直弼の安政条約調印に憤激し尊攘激派となり,
63年(文久3)8月の天誅組大和挙兵には推されて総裁の一人となるが,
8月18日の政変により諸藩の討伐を受けることになり,
敗れて鷲家口で戦死した。文久3年歿。享年48。 |
古川大航
(ふるかわ・たいこう)
〜1968 |
妙心寺派管長。629世。
別号宗琢・嶺南室。
埼玉県生れ。昭和43年没。 |
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堀口大学
(ほりぐち・だいがく)
1892〜1981 |
詩人、フランス文学者。
明治25年1月8日、東京本郷生れ。
幼児期から少年期は長岡で過ごす。
吉井勇の短歌「夏のおもひで」に感動して新詩社に入門。
「スバル」「三田文学」などに詩歌を発表。
父の任地に従い世界各国に住した。
処女詩集「月光とピエロ」、
処女歌集「パンの笛」を刊行。
以後も多数の出版を手がけ、著訳書は300点を超える。
三島由紀夫も堀口の訳文から大きな影響を受けた。
芸術院会員。文化勲章受章。
昭和56年3月15日歿。享年90。 |